【史料集】「新編相模国風土記稿」高座郡各村の街道の記述(その4)

前回に引き続き、「新編相模国風土記稿」中の高座郡の各村の街道の記述を一覧化しています。今回は、高座郡図説で取り上げられた残りの2本の街道と、それ以外の街道について少々触れたいと思います。

「中原道」は江戸・虎ノ門と大住郡の中原御殿を結ぶ道で、徳川家康が何度かこの道を使ったことが記録に残っています。この2拠点を最短で結ぶ目的で直線的に付け直されたとされている区間では「新道(しんみち)」という小名が多数残っており、以下の一覧では「風土記稿」に収録された「新道」の小名を拾いました。直線的に道筋を付けた分、相模原台地の伏流水が水源となっている引地川やその支流である蓼川などが刻む谷を多数横切っており、その分坂の数も増えています。但し、江戸に近い区間では鎌倉古道を通っており、中原道の全区間が必ずしも「新道」である訳ではありません。

家康の没後、中原御殿が引き払われると、この道筋は主に荷運の道として使われていた様です。現在は、神奈川県道45号の一部に「中原街道」の名が残っています。

中原道:高座郡中の各村の位置
中原道:高座郡中の各村の位置(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

「矢倉澤道」は高座郡中では「中原道」とほぼ並行して北寄りの場所を進んでいますが、引地川や蓼川の水源池のすぐ北側を通過しており、境川と目久尻川を越える場所以外では「中原道」に比べて平坦な道筋になっています。

下鶴間村と栗原村の間には「相模野」の南端が挟まっており、「風土記稿」も両村の四隣に「相模野」の名を記しているため、以下の地図では「相模野」の位置を概略で描き加えました。南側の上草柳村には「相模野」が掛かっていたとはされておらず、その辺りに引地川の水源池がありますので、ほぼこの道筋が「相模野」の南境というイメージでしょうか。

矢倉沢道:高座郡中の各村の位置
矢倉沢道:高座郡中の各村の位置(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)


蓼川村付近の迅速測図。「中蓼川村」とある辺りの上に
厚木道が東西に走る(「今昔マップ on the web」より)
高座郡図説に記された街道は以上なのですが、各村の記述の中のみに記された街道としては、前回取り上げた「府中道」の他に、蓼川(たてかわ)村の項にのみ記されたもう1本の「厚木道」があります。藤沢宿から用田を経由する「厚木道」からは蓼川村はかなり北に位置しますので、明らかに別の「厚木道」であったことがわかります。

「迅速測図」上でこの道筋を概略で確認すると、大筋で中原道と矢倉沢道の間を東西に結ぶ間道であったと考えられます。現在もこの道筋に比較的近い場所を通っている神奈川県道40号に「厚木街道」の名前が残っています。これを手掛かりに経由していたと考えられる村を地図上でプロットしてみましたが、「風土記稿」のこれらの村々の記述には「厚木道」の存在を伝えるものは蓼川村の他にはありません。

なお、この蓼川村の辺りは現在は大半が厚木基地の域内にあり、当時の道筋や地形はほぼ失われています。以下の線は「迅速測図」と現在の地形図を相互参照して概略で引いたもので、厳密なものではありません。厚木基地以外の区間でも、区画整理などの影響で道筋が失われた箇所は少なくない様です。かつての寺尾村の域内の道筋の一角にはかつての道標が保存されており(ストリートビュー)、この道がこの付近では「程ケ谷道」と呼ばれていたことがわかります。

蓼川村を経由していた「厚木道」(概要)
蓼川村を経由していた「厚木道」(概要、「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)


高座郡中の「江島道」
高座郡中の「江島道」
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
また、高座郡中には僅かな区間ではありますが「江島道」が掛かっていた筈ですが、藤沢宿や鵠沼村の項ではこの道に関する記述がほとんど見当たりません。藤沢宿の継立先の中に「江島道の同所へ一里餘の脇道を繼送れり、」(卷之六十 高座郡卷之三)と記されているのが唯一で、鵠沼村にあった「石上の渡し」についても記述が見られません。

その他にも、以前滝山道について取り上げた際に「久保沢道」や「津久井道」の存在についても触れました。久保沢は津久井県上川尻村の属ですが、この道が通過していた田名村や橋本村などは何れも高座郡内にありました。しかし「風土記稿」では、高座郡図説でも各村の記述でもこの道について触れている箇所はありません。

こうした「風土記稿」に記されていない道としては、例えば「大和市史」通史編や「藤沢の地名」(日本地名研究所編)に「塩つけ道(金沢道)」「星の谷道」「巡礼道」などの名前が見出せます。これらの道が「風土記稿」に記された道と比較して、どの程度の規模や交通量であったのかについては定かではありません。ただ、「風土記稿」の足柄上郡、足柄下郡、淘綾郡、更には大住郡ではかなり細かな道筋についてまで記載されている様に見えるのに比べると、高座郡の記述では掲載する道を多少なりとも絞り込んでいる様にも見えます。これが果たして産物の記述で見られる様な郡毎の基準の違いと言えるかどうかについては、こうした「記されなかった」道筋の存在についても更に検討してみる必要があると思います。



街道「風土記稿」の説明
中原道上和田村六十三(五)○小名 △久田玖天牟○… △宮久保 △矢ノ下 △中村
○大坂 小名久田にあり、登り三十間許、

※位置関係からこの久田の大坂が中原道の坂を指すと考えられる。中原道が隣の鎌倉郡瀬谷村から上和田村に入ってくることが高座郡図説でも指摘されているにも拘わらず、上和田村の記述中に「中原道」の名は出て来ない。

福田村六十三(五)街道二一は中原道一は瀧山道係れり、
○坂二 中原道にあり共に登三十間一は新道坂と唱ふ、
本蓼川(ほんたてかわ)六十四(六)中原道東西に貫り、
○小名 △上村 △下村 △新道 △堺橋
○坂三 一は北の方にて宮坂と唱ふ、一は南の方にあり下坂と云、一は中原道にあり共に僅の坂なり、
深谷村六十四(六)中原道村内を貫く、
○小名 △山野左牟也 △鶴島 △落合 △新道 △中村 △しての木
早川村六十四(六)中原道繫る、
○小名 △山野左牟也 △鶴島 △落合 △新道 △中村 △しての木
用田村六十三(五)往來三條あり厚木道・中原道・大山道の三路なり、當村繼場なり繼立の道程、厚木道は巽方藤澤宿へ二里二十七町、乾方愛甲郡厚木村へ二里、中原道は南方一之宮村へ一里半、北方鎌倉郡瀨谷村へ二里半、大山道は西方門澤橋村へ三十町、東方長後村へ一里、
宮原村六十二(四)中原道村内を通ず一里塚あり、
獺郷(おそごう)六十一(三)中原道係れり、
小動(こゆるぎ)六十三(五)村東中原道係る、
(小谷村)六十三(五)

※村の東境の辺りを中原道が通っていたと思われるが、関連する記述はない。

大蔵村六十三(五)岡田村より分村して地形彼村に犬牙し、廣袤は分ち難し…中原村村内を通ぜり
岡田村六十三(五)地形小谷・大藏二村と錯雜せり、…中原道村内を通ず、
○並塚 中原道の左右に列す、大小十あり、故に此唱あり
(中瀨村)六十二(四)

※この村の中で中原道が田村通り大山道に合流しているが、関連する記述はない。

一之宮村六十二(四)大山道中原道の二條あり、村西にて合して一路となれり、共に田村に達す、當村繼場あり其道程藤澤宿へ三里、大山道なり、用田村へ一里、中原道なり、西方は共に田村へ一里を繼送れり、

※田村の渡しの記述は大山道㈠参照

矢倉澤道下鶴間村六十七(九)當村矢倉澤道、八王子道の驛郵にて、人馬の繼立をなせり矢倉澤道は幅四間、東の方人夫は武州鶴間村、道程五町、傳馬は同國長津田村、道程一里餘、二所繼立のことを司れり、西の方は人馬共に郡中國分村、道程二里に達す、八王子道は幅二間、南方長後村、道程二里一町四十八間、北方は武州多磨郡原町田村に繼送れり、道程一里四十八間、又八王子道、村内にて二條となり、隴間一條を古道と唱へ土人横山道とも唱ふ、北の方上鶴間村界にて前路に合す、
○境川 東方武州界を通ず幅五間餘土橋二を架す、

※うち1つはこの道の属と考えられる

上草柳(かみそうやぎ)六十四(六)

※西北の境を矢倉澤道が走っている筈だが、関連する記述は見当たらない

栗原村六十六(八)矢倉澤道巽界に係れり幅四間半
柏ヶ谷村六十六(八)村の南北に矢倉澤道係る幅三間、
寺尾村六十四(六)矢倉澤道係れり、
(小園村)六十六(八)◯小名 △臺 △前畑ヶ △宮ノ下 △宮ノ越 △南山野 △原山野 △赤坂

※村の西北界を矢倉澤道が通過していたと考えられるが、この道についての直接的な記述はない。なお、赤坂は矢倉沢道と厚木道の合流する付近の小名。

望地(もうち)六十六(八)矢倉澤道係る幅二間、

※「望地村」の読みを「風土記稿」は「保宇知牟良」と記しており、「ぼうち」と読ませていた節がある。ここでは現在の読みをルビに付した。

國分村六十四(六)矢倉澤道あり東西に通ず道幅二間、當村より東の方郡中下鶴間村へ二里、西の方愛甲郡厚木村へ一里の繼立をなす、
上鄕村六十五(七)街道二、東西に通ずるもの矢倉澤道なり、南北に通ずるは八王子道なり道幅各三間、
河原口村六十五(七)往還村の東西に貫くもの、矢倉澤道なり、西北に係れるものは八王子道なり幅各三間
○相模川 西界を流る幅一町許、河原を合ては三町許あり、堤あり高六尺、○渡船場 相模川にあり、矢倉澤道の係る所、對岸は厚木村なり、當村及厚木・中新田三村の持船五艘を置て往來に便す、
*厚木道㈡(深見村)六十四(六)◯境川 村の東を流る幅四間餘橋四を架す、一は囘向橋と云餘は無名なり、村内の用水とす、

※この道に関する直接的な記述は見当たらない。境川を越えていたことは確かなので、4本の橋のうちの1つはこの道に属すると考えられるが、「囘向(えこう)橋」は佛導寺への参拝客のために架けられた橋で厚木道よりも北に位置する。

(下草柳村)六十四(六)

※関連する記述は見当たらない。

蓼川(たてかわ)六十四(六)厚木道村内を通ず、
○蓼川 村内及深谷村より出る淸水、一條の流となりて西方を通ず幅九尺橋二を架す、

※この2本の橋のうち1本は厚木道の属と考えられる。

(深谷村)六十四(六)

※何れも関連する記述は見当たらない。

(寺尾村)六十四(六)
(小園村)六十六(八)

注:

※何れも雄山閣版より

※巻数中、括弧内は高座郡中の巻数。

※本文中、…は中略。なお、複数の街道について記述している場合、「前道」などの表現で先行する記述を受けた表記になっているケースが多々あるため、その場合は[]内にその道の名称等を補った。殆ど同一の文章になっている場合も、それぞれの街道毎に同一文章を掲げた。

※村の配列は、「高座郡図説」で掲載された各街道の記述の順に合わせた。なお、一部順序については要検証。特に疑問点の大きいものは注を付した。

※街道中の坂、橋、一里塚等の施設は、文中にその名が現れる場合は含めた。明記がないものについても街道に関連すると思われるものは含めたが、遺漏の可能性はなしとはしない。






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