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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

【史料集】「新編相模国風土記稿」高座郡各村の街道の記述(その3)

前回に引き続き、「新編相模国風土記稿」中の高座郡の各村の街道の記述を一覧化しています。今回は、高座郡図説で取り上げられた2本目の「八王子道」の記述と、各村の記述を比較した際に見える問題点を記します。

高座郡図説の2本目の八王子道の記述は次の通りです。

其一は同所(注:藤沢宿)坂戸町より用田・座間宿・當麻三村の驛郵を経て橋本村に至り、前路に合す、

(卷之五十九 高座郡卷之一 雄山閣版より)


しかし、各村の記述からこの道筋に合致する記述が拾えるのは、座間宿村から北の区間に限られてしまいます。そして、その区間の記述の中は厚木、あるいは平塚からの道筋であることが記されているものはあっても、藤沢からの道であることが記されているものは1つもありません。厚木からは「厚木の渡し」で相模川を越え、対岸の河原口村から上郷・下今泉・四ッ谷の各村を経て座間宿村に達します。以下の一覧ではこの河原口村からの道筋をひとまず「八王子道㈡」としてまとめましたが、これは高座郡図説の「八王子道㈡」とは一部重なっていないことを御了承下さい。

なお、後日愛甲郡の街道についてまとめる際に改めて触れることになりますが、厚木からは更に別の「八王子道」がありました。この道はそのまま北進して依知を経由し、その先で「当麻の渡し」を越えて当麻の本村に入り、上溝村の小名であった田尻(現在も合流地点の交差点にその名が残ります)で座間宿からの道と合流します。当麻村の記述にこちらの道筋を主と見ていた節が窺えることから、以下の地図では田尻以北の道を依知からの道と色を合わせました。なお、当麻ではこの2つの道それぞれに対して継立を行っていたことが記されていますが、村内のどの地域で継立が営まれていたかは「風土記稿」の記述からでは明らかに出来ません。地図では仮に村内の小名下宿・上宿の辺りと原当麻の辺りをポイントしています。

河原口〜座間〜橋本間の八王子道:高座郡の各村の位置(北半分)
河原口〜座間〜橋本間の八王子道:高座郡の各村の位置(北半分)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
河原口〜座間〜橋本間の八王子道:高座郡の各村の位置(南半分)
河原口〜座間〜橋本間の八王子道:高座郡の各村の位置(南半分)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)

府中道:高座郡中の各村の位置
府中道:高座郡中の各村の位置
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
因みに、新戸村・磯部村の項に「府中道」に関する記述が見えますが、これは「府中通り大山道」とも呼ばれている道筋と重なるもので、磯部村の先では広い相模野を越えて淵野辺村に入り、その先で境川を越えて武蔵国多磨郡木曾村へと繋がる道です。「神柩」「日光」の字が示す通り、この道は徳川家康の没後、元和3年(1617年)に久能山から日光東照宮へと遷座する際に使われた道筋で、座間宿村はその際に人を出したことによって継立村として認められたことが記されています。厚木から八王子へ向かう道筋が相模川の東西に2本存在するのは、こうした経緯があった訳ですが、その後は府中方面から大山への参拝に用いられることが主になった様です。但し、大山への道筋としては勝坂の下から磯部村の中を西へ抜けて「磯部の渡し」で対岸の猿ヶ島村へ渡るルートであったため、その場合は新戸村へ入ることはありませんでした。

「風土記稿」では磯部村と淵野辺村の記述に「矢倉澤道」として登場しますが、これが「大山道」の意であったことは明らかです。下溝村と淵野辺村の間が随分と空いている様に見えますが、これはその間に「相模野」を挟んでおり、ここは当時どの村にも所属していなかったことによるものです。「風土記稿」の下溝村の四隣の記述では「東、相模野を隔て淵野邊村、」と記されているのに対し、淵野辺村の四隣では「西、相模野」とされており、どちらの村の所属でもなかったことがわかります。

一方、藤沢〜用田間については、各村では「厚木道」として記されていることがわかります。そして、この道もその名の通り、用田から先は社家村へ抜けて岡田の渡しで相模川を渡り、平塚道経由で厚木へと向かいます。この道の行先については用田村に記されている程度ですが、そこには厚木と藤沢の名はありますが、八王子方面を指すものはありません。


厚木道:高座郡中の各村の位置
厚木道:高座郡中各村の位置(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)


「迅速測図」上の該当箇所(「今昔マップ on the web」より)
但し、用田から座間宿へと向かう道筋がなかった訳ではありません。「迅速測図」上で用田村から厚木道を西へ辿ると、目久尻川を渡った先で北へと分かれる岐路が存在し、そこに「至座間村道」と記されています。この道筋は現在の県道406〜407号線にほぼ相当すると考えられ、これらを手掛かりに当時の道筋を書き起こすと次の様になります。そして、その通過する各村の「風土記稿」の記述で、この道の存在について記したものは1つもありません。このため、以下の一覧表にもこの道についての項は作成しませんでした。

用田〜座間の間道
用田〜座間の間道
(「地理院地図」上で
作図したものを
スクリーンキャプチャ)
従って、高座郡図説が指摘する2本目の八王子道については、各村の記述からはその一部が欠落してしまうばかりか、図説の指摘する「藤沢から座間を経て八王子へ向かう道」として記録されたものが1つもない、という奇妙な不一致が存在することになります。道筋が相互に違うだけではなく、由緒という観点では各村の記述であれほど家康の遷座について触れておきながら、図説ではその点に斟酌した記述が抜けてしまっている点も課題と思います。

今のところ、私としてはこの同じ書物の中に現れる不一致をどの様に説明すれば良いか、手掛かりとなるものを持っていません。考えられる可能性としては、「風土記稿」の編纂された当時またはそれ以前に、「高座郡図説」が示す様な経路を定期的に、又は相応の頻度で往来する人が存在したということですが、少なくとも「風土記稿」には用田と座間宿の間を継立が結んでいた事実を書いていないので、荷物に関してはその様な運用が定着していた可能性はあまりなさそうです。高座郡の場合は「風土記稿」編纂の初期に一度完成した後に、改めて手が加えられた経緯もあり、こうした編纂過程がこの記述の齟齬に影響した、という可能性も考えてみる必要もあります。単に何かを取り違えてしまっただけの可能性も少なくなさそうではありますが、何れにしても「風土記稿」以外に裏付けになる史料が必要です。

河原口〜門沢橋間の「八王子道」
河原口〜門沢橋間の
「八王子道」
(「地理院地図」上で
作図したものを
スクリーンキャプチャ)
また、各村の記述でもう1つ奇妙なのが、河原口村の南の4村に、更に八王子道が延びていたとする記述が見られることです。高座郡の記述では街道の記述は遺漏が少なくないので、この4村の中で最も南に位置する門沢橋村から更に南下していた可能性もあり、実際「迅速測図」でも門沢橋以南まで道が延びている様に見えます。但し、この門沢橋村で柏尾通り大山道と合流することを考え合わせると、ここで戸田の渡しを経て平塚道へと合流していたとも考えられます。

相模川沿いの村々の中では厚木村が人や物の流れの大きな拠点の1つになっていたと考えられる当時にあって、対岸を南北に進む平塚道と並行するこの道が対等な役目を負っていたとは考え難いので、基本的には間道と目される道筋であるように思えるものの、その割には特に北側の道幅が3間(約5.4m)と脇往還としては比較的広かった点が気になります。高座郡の記述では主要と目される街道以外の記述があまり見られない中で、この4村の「八王子道」が敢えて取り上げられている点からもその位置付けが課題と思います。

なお、この道を何処に同定すべきか、「迅速測図」からでは判別が難しく、左の地図は1つの可能性を示したに過ぎません。微高地の分布からはもっと西側を進んでいたとも考えられ、実際当時の集落はその上にあったのですが、「迅速測図」では集落の中を通る道を主要道として描いておらず、また非常に曲折が多い点から、ここでは「迅速測図」がより主要な道として提示した方を採用しました。



街道「風土記稿」の説明
八王子道㈡河原口村六十五(七)往還村の東西に貫くもの、矢倉澤道なり、西北に係れるものは八王子道なり幅各三間
上鄕村六十五(七)街道二、東西に通ずるもの矢倉澤道なり、南北に通ずるは八王子道なり道幅各三間、
○小名 △馬舟末布禰 △中村 △宮畑ヶ △外記宿飛地の小名なり、久能山より日光山への御遷座の時、神柩跓蹕の所と云、
○相模川 西界を流る幅六十間許堤あり高六尺、堤上則八王子道なり、
下今泉村六十五(七)平塚宿より武州八王子宿に至る路係る、
四ッ谷村六十六(八)平塚宿より八王子への往來あり、南北に貫く、道幅三間、古は上鄕村外記宿より村内に係りしに、天明年中相模川岸崩壊し以來、下今泉村より村内に係れり、
座間宿村六十六(八)當所は脇往還係りて民戸連住する故宿の字を加ふと云ふ…每歳七月十日・十二月二十五日互市をなし、時物を交易す古は每月五十の日市ありしと云ふ、…往還村の西寄を通ず東海道平塚宿より武州八王子及府中への往來なり幅六間餘元和三年神柩日光山への御遷座の時、三月廿一日大住郡中原御殿より當所御經歷あり、此時武州木曾村迄役夫を出せしより而來人馬の定額を立人馬三人馬一疋、公私の行李を繼送れり其繼立の村々は平塚道は愛甲郡厚木村へ二里、八王子道は北方當麻村へ一里、府中道は東北武州多磨郡木曾村へ二里九町、土人の傳に往昔伊勢の驛ありし頃は、往還西の方相模川の對岸愛甲郡依知村の邊より當所に係れりと云ふ、又村の中程に鎌倉古道と唱ふるあり、入谷村星谷寺邊より新戸村に通ず、
○小名 △中河原 △河原宿 △長宿 △銀鹿 △根下 △南原 △谷ッ △羽根澤以上入谷村犬牙の地なり、
○坂三 一は梨木坂と云ふ、東南にあり、一は星谷坂と唱ふ東にあり、一は大坂と呼ぶ、東北にあり各登一町餘
新戸村六十六(八)村の東に八王子道係る幅二間半此道より東に分るゝ一條は、武州府中への道なり、
磯部村六十六(八)八王子道南北に貫く道幅二間又府中道係れり幅九尺、神柩日光遷御の時の御道なりと云、一里塚今に存せり、
下溝村六十八(十)八王子道、南北に貫けり、
○二ッ塚 一里塚なり高さ九尺冢上に榎樹あり、元和三年神柩日光遷御の御路なれば、築きし所なりと云、
當麻(たいま)六十八(十)往還村の南北に係る東海道平塚より武州八王子に達する道なり、此地驛郵にて人馬を逓送す北方八王子村へ二里八丁南方愛甲郡厚木村へ二里二十八町、座間宿村へ一里、古は當麻宿と唱へ、旅亭櫛比して繁富の地なり舊くは每月六次の市をなし、一六の日ごとに時用の諸物を交易す、北條氏割據の始より關山隼人と云者、問屋としての市の買賣、旅人止宿のことなど司どれり寛永年中も猶此市は立り其後次第に衰微し、今は每月便宜の日互市するのみ、

※継立の記述では座間宿へ向かう道の存在に触れているものの、往還として挙げられているのは厚木から平塚へと向かう道筋のみに留まっている。

○小名 △上宿 △下宿 △市場 △芹澤 △原當麻
上溝村六十八(十)東海道平塚より武州八王子への往來あり、南北に通ず道幅三間
橋本村六十七(九)八王子道係れり幅二間當所其繼立をなせり人夫四人、傳馬二匹を定員とし、北方武州多磨郡八王子、南方郡内、當麻村へ各二里八町を繼送れり、
○境川 北方國界を流る橋四を架す石橋一長八間半板橋二土橋一共に長五間餘、

※うち1本が八王子道の属と考えられるものの、どれに該当するかは不明。

*府中道 ※一部府中通り大山道新戸村六十六(八)村の東に八王子道係る幅二間半此道より東に分るゝ一條は、武州府中への道なり、
○塚 府中道の左右に相對す高一丈、頂に榎樹ありしが寛政中枯槁す、元和三年神柩通御の時築立ありし一里塚なりと傳ふ、則爰より東北の方、下溝村に至て一里、其所に又塚あり、
磯部村六十六(八)八王子道南北に貫く道幅二間府中道係れり幅九尺、神柩日光遷御の時の御道なりと云、一里塚今に存せり、

※位置関係からは新戸村の項にある「一里塚」と同じものを指す可能性もある。

○相模川 西界を流る幅四十間程渡船場あり、矢倉澤道の係る所なり對岸猿島村にて進退す、

※位置関係から見て大山道の意で「矢倉澤道」と書いたものと考えられるが、磯部村の記述の中に他に矢倉澤道や大山道の名は出現しない。

下溝村六十八(十)○二ッ塚 一里塚なり高さ九尺冢上に榎樹あり、元和三年神柩日光遷御の御路なれば、築きし所なりと云、

※「府中道」の存在については言及されていないが、この一里塚が府中道に属するもの出あることは明らか。

淵野辺村六十七(九)矢倉澤八王子道の二路共に幅三間村内を通ず、

※これも大山道の意で「矢倉澤道」と書いたものと考えられる。

○境川 東の國界を流る幅五間板橋を架す長五間餘
*八王子道㈢門澤橋(かどさわばし)六十五(七)街道二東西に貫くもの大山道なり幅二間、當村繼場にて東の方用田村へ三十町、西方戸田村へ十八町、人馬を逓送す、南北に通ずるは八王子道なり幅九尺、
中野村六十五(七)八王子道村の中程を貫く道幅九尺
社家(しゃけ)六十五(七)八王子道南北に通ず幅九尺
中新田村六十五(七)八王子道南北に貫けり道幅三間
○小名 △山王原 △河原宿
*厚木道㈠ ※八王子道㈡と重複藤澤宿六十(二)

※白旗神社の前で東海道から北に分かれていた筈だが、道の存在自体については記述がない。用田村には藤沢への継立が記されているが、藤沢宿の継立先の記述にはその点も含まれていない。

大庭村六十(二)東海道厚木道大山道の三路係れり
石川村六十(二)厚木道八王子道一に瀧山道とも唱ふ、の二條村内を通ず、
(遠藤村)六十一(三)

※村域の東から北の境を通過していた可能性があるが、関連する記載は見当たらない。

菖蒲澤村六十三(五)街道二一は大山道、一は厚木道、
(打戻村)六十一(三)

※村域の北の境を通過していた可能性があるが、関連する記載は見当たらない。

用田村六十三(五)往來三條あり厚木道・中原道・大山道の三路なり、當村繼場なり繼立の道程、厚木道は巽方藤澤宿へ二里二十七町、乾方愛甲郡厚木村へ二里、中原道は南方一之宮村へ一里半、北方鎌倉郡瀨谷村へ二里半、大山道は西方門澤橋村へ三十町、東方長後村へ一里、
(吉岡村)六十三(五)

※村域南端の西側を短い区間だが境を通過していたと思われるが、関連する記事はない。

本鄕村六十三(五)厚木道大山道の二條村内を通ず、
(杉窪村)六十三(五)

※村内を通過していたと考えられるが、記述がない。

上河内村六十三(五)村内厚木道大山道二條を通ず、
(社家村)六十五(七)

※対岸の大住郡上岡田村・下岡田村の記述から、この道がここで相模川を渡っていたことは確かだが、その渡場の存在を含め、関連する記述を見出すことは出来ない。

注:

※何れも雄山閣版より

※巻数中、括弧内は高座郡中の巻数。

※本文中、…は中略。なお、複数の街道について記述している場合、「前道」などの表現で先行する記述を受けた表記になっているケースが多々あるため、その場合は[]内にその道の名称等を補った。殆ど同一の文章になっている場合も、それぞれの街道毎に同一文章を掲げた。

※村の配列は、「高座郡図説」で掲載された各街道の記述の順に合わせた。なお、一部順序については要検証。特に疑問点の大きいものは注を付した。

※街道中の坂、橋、一里塚等の施設は、文中にその名が現れる場合は含めた。明記がないものについても街道に関連すると思われるものは含めたが、遺漏の可能性はなしとはしない。


この様に、「風土記稿」高座郡図説の2本目の八王子道に関する記述と各村の記述との間の齟齬は小さなものとは言い難く、これをどの様に解釈すべきか、課題の残るものとなっています。

次回、残りの道を取り上げる予定です。




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