三浦郡の「草綿」:「新編相模国風土記稿」から(その4)

前回に続き、今回も「新編相模国風土記稿」の三浦郡図説に記された「草綿」について見ていきます。前回は江戸時代の三浦郡内の木綿の生産や販売の実情を「浜浅葉日記」を中心に紹介しましたが、今回はその「位置付け」を試みます。


秦野市羽根の位置(Googleマップより)
秦野盆地北側の斜面に位置し、麓に集落があった
まず、江戸時代に相模国で木綿を栽培していたのは三浦郡だけではありませんでした。例として文書を幾つか挙げます。

神奈川県史 資料編6 近世(3)」には大住郡羽根村(現:秦野市羽根)の「年貢皆済手形」が多数掲載されています。その年の年貢をどれだけどの様に納めたかが記録されているのですが、この「年貢皆済手形」に年貢の一部を木綿で納めたことが記されています。例えば、慶長17年(1612年)の「年貢皆済手形」には次の様に記されています。

一米一(俵)四合

但中綿百拾八匁て納

一米弐斗弐升四合

但下綿八拾匁ニ而

(上記書376〜377ページより、変体仮名は下付き文字で漢字・カタカナにて表記)

以下、年によって綿によって納められた年貢の多寡があったり質の変動があったりはするものの、「神奈川県史」に掲載された慶長17年から寛永8年(1631年)までの全部で8冊の羽根村の「年貢皆済手形」の大半に「綿」の記載をみることが出来ます。何れも江戸時代の最初期の年貢についての貴重な記録ということになりますが、それらの多くに「綿」が記録されているということは、江戸時代初期には既に綿の栽培が三浦郡に留まらず相模国の他の地域での栽培が始められ、例年の貢税に充てられる程に定着していたことを示しています。


愛甲郡清川村煤ヶ谷の位置(Googleマップより)
大山の北側に広がる丹沢山中の村だった
また、「神奈川県史 資料編7 近世(4)」には愛甲郡煤ヶ谷村(現:清川村煤ヶ谷)の延享元年(1744年)12月の村明細帳が掲載されています。ここには

一永弐百拾五文

綿売出

元永壱貫七拾五文弐割

(上記書540ページより)

とあり、綿の販売によって得た収益の一部を年貢として納めていたことが記されています。つまり、前回見た大田和村の「浜浅葉家」の様な経営を営んでいた農家が、この山間の村にも存在したことがわかります。同様の事例は、例えばやや時代が下りますが明治3年(1870年)4月の大住郡今泉村(現:秦野市今泉・今泉台)の村明細帳にも

秦野市今泉の位置(Googleマップより)
現在の小田急小田原線秦野駅の南側に位置する

一永壱貫百弐拾五文

綿漆運上

(「秦野市史 第2巻 近世史料1」56ページより)

と記録されている例を挙げることが出来ます。

こうした例を挙げていけばキリがないのですが、最後にもう1つ「藤沢市史 第二巻 資料編」に掲載されている高座郡羽鳥村(現:藤沢市羽鳥、以前この記事で名前が出ました)の文久元年から明治2年(1861〜69年)の「種蒔帳」(584〜590ページ)を紹介しましょう。ここには各年毎にどの畑に何の種を蒔いたかが記録されているのですが、「餅粟」「大豆」「さつま(薩摩芋)」「ごま」「岡穂(陸稲)」などの作物とともに「木綿」が栽培されていることが確認出来ます。例えば文久元年には全部で6箇所の畑で木綿が栽培されています。大抵は陸稲や粟などと一緒に栽培されており、比率としてはそれほど高いものとは言えませんが、穀類や芋類の栽培の傍らで木綿の栽培のための区画を毎年一定量確保していたことは確かです。

郡名真綿(斤)繭(斤)
三浦郡22,609
鎌倉郡32,48519,686
高座郡5,90591,697
津久井郡25,784
愛甲郡9,63674,637
大住郡113,3654,145
淘綾郡30,472
足柄上郡53,089
足柄下郡58,830
相模国全体326,391215,949

※「国立国会図書館近代デジタルライブラリー」所収の「全国農産表. 明治9年」の「相模国」と「同国内各郡」の項から該当項目を拾って構成

江戸時代に相模国内の木綿栽培が盛んだった地域をもう少し量的な側面から推し量るには、やや時代が下りますが、明治9年(1876年)の「全国農産表」が参考になると思います。相模国と国内各郡の生産高から「真綿」の生産高を拾って表にしてみました。比較のために併せて「繭」の生産高を併記しています。鎌倉郡を除く各郡については、「繭」の生産に注力している郡では「真綿」の生産が見られなかったり低かったりするのに対して、「真綿」の生産量が多い郡では「繭」の生産量が少ないという傾向が見られますが、これらはそれぞれの郡の地形や地質などの影響がある程度反映している様です。明治初期には明治政府が早くから紡織に力を入れていた影響もあると思われますので、この数字の傾向が江戸時代まで遡って見る際にどの程度適用出来るかは検討の余地がありますが、それでも上記の各種の文書と照らし合わせてもある程度は生産地の傾向を窺うことは出来ると考えられます。つまり、この時点の生産高で比較する限り、相模国内の木綿の生産では三浦郡は上位を占めていたとは言えず、むしろ大住郡を中心とした相模国西部が中心であったということになります。

では、全国的には江戸時代の木綿は戦国時代と比較してどの様な推移を経たのでしょうか。これについては、「苧麻・絹・木綿の社会史」(永原慶二 2004年 吉川弘文館)が次の様に解説しています。

日本木綿作の第二段階ともいうべき一七世紀=江戸前期において、事情は急速に変化する。ひとくちにいって、東海・関東の綿作・綿織は三河・尾張・伊勢をのぞいて商品生産としては目立った展開をとげず、九州でもその存在はむしろ影を薄くしてゆくようである。そして逆に、一七世紀段階の綿作・綿織の主産地は畿内とその周辺地域に集中する傾向を示すようになる。

この変化はいったい何に由来するものであろうか。ちなみに、一七世紀に発展をとげる畿内綿業も、一八世紀以降においては山陰・瀬戸内沿岸やふたたび東海・関東などの新興綿作地に漸次圧倒され、頭打ちないし衰退に向かうようになる。また畿内のうちでも大和の衰退が目立っている。そのような主産地の集中・流動は、いうまでもなく木綿作が商品生産=商業的農業としての性格を高度化するにつれて、経営上の条件差・経営格差が鋭く現われてきたことによるだろう。商品生産的性格の水準が低く、自給生産と結合しているような段階においては、経営格差はそれほど鋭い形では現われないが、商品生産としての性格が全面的に強まれば、弱者の衰退、強者への集中の進行は不可避である。

(上記書324〜325ページより)


こうした木綿の「名産地」が一部の地域に集中する傾向に、戦国時代には名を馳せた「三浦木綿」は乗ることがなかったというのがどうやら実情の様です。実際は産地として全国的に名が通っている様な地域以外でも、木綿は幅広く栽培され、一部は換金もされていたことが、前回の「浜浅葉日記」や上記の村明細帳でも確認出来ますが、少なくとも江戸をはじめとする消費地に向けて積極的に流通する様な存在ではなくなってしまったということが言えるでしょう。

「新横須賀市史 通史編 近世」第8章図8-2「産物の分布」
「新横須賀市史 通史編 近世」
図8-2「産物の分布」(p.340)
「新編三浦往來」に記された産物を
地図上にプロットしたもの(再掲
それだからでしょうか、先日「新編三浦往来」に記された産物を三浦半島の白地図上にプロットした「新横須賀市史 通史編 近世」の図を紹介しましたが、この中には「木綿」は含まれていません。「新編三浦往来」にはかなり細々とした産物まで記述されており、金谷・池上・平作・阿部倉といった棚田が開かれていたことが知られている地域では「米穀」が良く出来るといったことまで記されているにも拘わらず、綿作を取り上げずに終えたのは、著者である竜崎戒珠が三浦で出来る「木綿」をあまり高く評価していなかったということなのかも知れません。彼が増補改訂した「三浦古尋録」の様な地元の地誌でも、「木綿」について触れた個所を見付けることが出来なくなっています。

「三浦木綿」の名前が何時頃から聞かれなくなったのかを史料から明らかにするのは、一種の「不在証明」が必要になるため、非常に難しいと思います。「苧麻・絹・木綿の社会史」では木綿の全国的な産地を推し量る史料の一つとして、正保2年(1645年)に刊行された「毛吹草(けふきぐさ)」を取り上げています。これは俳人であった松江重頼のまとめた俳諧の方式書で、俳諧の題材としての「資料集」ですが、「苧麻・絹・木綿の社会史」ではその第4巻に収められた「名物」から木綿や綿織物の名前を拾い上げて産地の傾向を推し量る、という使い方をしています。あまり厳密な史料とは言えないものの、江戸時代初期の傾向を測ることは出来るという判断で採用したものの様です。

毛吹草」に掲載された「相模」の名物は

相模

  • 鎌倉 柴胡(カマクラ サイコ)
  • 紅花(カウクハ)
  • (ネズミ)大根鼠ノ手ニ似リト云
  • 海老(エビ)伊勢海老ノゴトシ
  • 江島 江豚(エノシマノイルカ)
  • 小田原 海雀(ヲダハラノウミスヾメ)魚也
  • 透頂香(トウチンカウ)
  • 甲鉢(カブトバチ)
  • 十間坂(ジツケンザカ) 星下梅(ホシクダリノムメ) 日蓮宗數珠ニ用之玉ニ星一ツヽ有ト云
  • 大礒 盆山 敷石(オオイソニボンサンノシキイシ)五色ノ石有之
  • 禰布川 飛石(ネブカハノトビイシ)
  • 秦野野大根(ハダノノノダイコン)

(岩波文庫 新村出校閲・竹内若校訂版 169ページより)

で、この中に「三浦木綿」は含まれていません。「苧麻・絹・木綿の社会史」が指摘する様に網羅性のある一覧ではありませんし、「鼠大根」を「鼠の手に似ているという」と書いているのはどう見ても事実誤認と言わざるを得ず(こんな怖気を震う表現がどうして俳諧の題材を集めた書物の中にそのまま書かれたのかわかりませんが)、著者の松江重頼がこの一覧を書く際にどれ程の情報を手に出来ていたか、甚だ心もとないのは事実です。とは言うものの、周辺地域では武蔵の「木綿嶋」、安房の「木綿」なども取り上げているこの筆者が「三浦木綿」を取り上げていないところから見ると、少なくともこの本の刊行された江戸時代初期には、既に知名度が相当に下がってしまっていた可能性が高そうです。

「風土記稿」が「今も郡中に播殖すれど三浦木綿とて稱美する事は聞えず、」と書き記していたのは、こうした実情を指していたということになるでしょう。勿論、昌平坂学問所も文献に見える「三浦木綿」の痕跡を辿る以上のことは既に出来なかったと思われ、戦国時代末期に三浦郡でどの様に生産されていたのかを明らかにすることは、「風土記稿」編纂当時には不可能になっていたのでしょう。

もっともそれは、三浦郡の木綿栽培が衰退してしまったというよりも、江戸時代に入って木綿栽培が全国的に広がり、その中で特に名産として名を馳せる様になった他の地域の木綿の様には生産を伸ばせなかった、と考えるのが妥当である様です。またそうした中で、木綿が単に自給用作物としてのみ栽培されていたのではなく、郡内の限定された地域内では小規模ながら販売されて流通していたことは、意外に見落とされがちな事実ではないかと思います。




三浦郡の木綿は明治時代に入ってもしばらくの間は生産が続いていた様ですが、それも紡織の近代化の前ではあまり長い命脈を保つことは出来なかった様です。「苧麻・麻・木綿の社会史」ではその最後に次の様に書き記しています。

明治政府は、開港後の経済・政治情勢のなかで、産業近代化を「輸出振興」「輸入防遏(ぼうあつ)」(当時の国家的スローガン)という両面の戦略的立場から推進しなければならなかったため、綿業はその中核的戦略産業として位置づけられた。 外国綿糸・綿布の「輸入防遏」のために、綿業の近代化は火急の国家的課題とされた。

明治政府は当初、国内綿を原料としつつ、産業革命をいちはやく達成したイギリスの綿糸紡績機械と工場生産を導入して、この課題に応えようとした。 いわゆる二〇〇〇錘紡績機一〇基を買い入れ、堺・愛知・広島など、江戸時代以来の綿業中心地に、官営工場を設置したのがそれである。

しかし、結論だけをいうなら、日本の国内木綿の繊維は短いため、イギリス直輸入の機械に適合せず、官営工場は成果をあげないままに民間に払い下げられることとなった。

こうした問題をかかえながら一八八六年(明治一九)、松方正義(まつかたまさよし)の財政整理にともなう一八八一年(明治一四)以来の不況が終わり、いわゆる企業勃興期に入ると、綿業近代化の担い手たる資本家たちは、一転してインド・中国の輸入綿を原料とし、国内木綿を切り捨てる方針を選択した。 それからほぼ一〇年にわたって、国内綿作農民と綿業資本家たちの熾烈な戦いがくりひろげられ、折しも開設された帝国議会がその論議の舞台とされた。 しかし結局、一八九六年(明治二九)、議会は綿花輸入関税の撤廃を議決し、綿作農民は完敗した。

日本の国内木綿作は、これを転機に数年ならずして消滅した。

(上記書352〜353ページより)


もっとも、木綿の栽培自体はその後も自家用を中心として続けられていた様です。「横須賀市史 別編 民俗」の記すところでは、長沢・津久井・太田和の人の聞き取り調査の結果として、横須賀市域では昭和戦前期から遅いところで20年代初期まで木綿栽培が行われていたとしています。但し、最後は基本的に布団や半纏の中綿用途で、綿布生産はもっと前に廃れたものの様です(238ページ)。

同書では続いて市内から収集された木綿紡織に関する各種の道具を紹介していますが、それらのうち、「ワタクリ」(239ページ)と地機用の「(おさ)」(245ページ)には「明治廿九年」と墨書きされており、恐らくこれらの道具の製造年と思われます。丁度この年に綿花輸入関税が撤廃されたとなると、これらの道具がその後木綿を紡いだり機織りに活躍した時間は、それほど長いものではなかったのかも知れません。

因みに、同書では

なお、市域ではハマ・オカを問わず話者の多くが木綿の(しま)や無地を指してジオリ(地織り)と呼ぶ。その背景にはかつて綿布織りが盛んであったことがうかがえる。

(上記書239ページより)

と記しています。今でも受け継がれている言葉と言えるかどうかはわかりませんが、かつての木綿栽培や紡織の数少ない痕跡の1つということになるのでしょうか。




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