【旧東海道】その5 保土ヶ谷宿と今井川(その2)

前回中途半端な、思わせ振りな所で話を切ってしまいましたが(汗)、実のところ戦国時代までに神奈川と保土ヶ谷の辺りで同時に別の集落が栄えていたと考えるに足る十分な史料は見つかっていないのが実情の様です。

保土ヶ谷を含む帷子川の流域一帯が、古くは「榛谷御厨(はんがやのみくりや)」という伊勢神宮の所領であったといった、所領の変遷に関する記録は僅かながら存在しており、それらによってこの地が神奈川湊とは異なる由緒を持つ地であることはわかります。しかし、その繁栄の程度を推し量れそうなものが残っていないのです。因みに、榛谷御厨については保土ヶ谷神戸町の神明社のサイト同地の郷土史の資料が多数掲載されていますので、そちらを御覧になるのが良いと思います。

前回の引用文中にも出てきた、文明18年(1486年)の「廻国雑記」が、辛うじて沿道の様子を記述した紀行文と言える存在ではあるのですが…。まず、帷子川河口北側に位置していた「かたびらの宿」前後の記述は以下の通りです。「廻国雑記」はこちらのサイトで全文が掲載されていますので、今回はこちらから引用させていただきました。

新羽を立ちて鎌倉に到る道すがら、さまざまの名所ども、(くわ)しく記すに及び侍らず。かたひらの宿といへる所にて、

いつ来てか、旅の衣をかへてまし、風うら寒きかたひらの里

岩井の原を過ぐるとて、

すさまじき岩ゐの原をよそに見て、結ぶぞ草の枕なりける


筆者である道興准后(どうこうじゅごう)は鎌倉街道下道を鎌倉へと向かう道すがらでこれらの歌を詠んだ様です。もっとも、「かたひらの宿」に泊まり、「岩井の原(岩間のことと考えられている)」で「結ぶぞ草の枕」、つまり再び宿泊したとなると1日の行程としてはあまりにも短距離に過ぎるので、ものの例えに宿を引き合いに出しただけで実際には宿泊していないのかも知れません。とは言え、「風うら寒き」だの「すさまじき岩」だの、果ては「委しく記すに及び侍らず」などと、そのまま真に受けると、如何にも当時この一帯はうら寂れていた様に読めてしまいます。実際の所はどうなのでしょう。

こういう紀行文で、旅人の気分が存分に反映されている場合、それが必ずしも実際の風景を表現しているとは言えないことがあると思います。予めその地名に対して十分な知識が共有されているという前提があれば、それが逆説的な表現を狙っていると読み手に理解されるでしょう。今時「冷たい雨に打たれながら横浜の街を歩く」などと書いてあっても、まさか横浜が寂れた街だと思ってしまう人はいないですよね。しかし、横浜という土地について前提知識が全くない人にはそうは受け取ってもらえないかも知れません。

道興准后が何を思いながら鎌倉へと向かっていたのかも気になりますが、この先の記述を見るとどうも先を急いでいた様です。首筋を冷たい風に晒されつつ、帷子の街の賑わいを後目にを行き過ぎながら、気が急く中ひとまず何か一首詠まねばと思ってその寒さを詠み込んだ…ということなのかも知れません。

もっとも、別の見方として、道興准后が見た「かたびらの里」一帯が当時本当に寂れていたと考えることも出来るかも知れません。文明18年というのは鎌倉府が古河へと移ってしまってから大分経った頃に当たります。鎌倉公方が所在していた頃には、鎌倉への人の往来も、鎌倉幕府が存在していた頃ほどではないにしてもそれなりに維持されていたでしょうが、鎌倉府が転出してしまったことで、同地への人や物の流れが急速に萎んでしまった可能性は十分考えられます。その様な混乱の中で、鎌倉に向かう道すがらで宿場などを営んでいた街も影響を受けて寂れていったとしても、おかしくはないでしょう。

もしもそうだったとすれば、その後徳川家康が江戸に来るまでの約100年の間に、この一帯が低迷期を脱して盛り返してきたことになるでしょう。ただ、この頃の記録は十分ではなく、後北条氏が関東を収めた頃に保土ヶ谷が北条氏康の子と言われている上杉景虎の所領になっていたことから、後北条氏が何らかの要地として保土ヶ谷を見ていた可能性を推察するのが精々といったところです。神奈川湊や玉縄城といった重要拠点の間に位置することから、何らかの役割を担っていても不思議ではなさそうですが、そのことを裏付ける史跡などは今のところありません。

何れにしても、当時の他の記録がもう少し色々と出揃うと、実際の所はどうだったのかもう少し解釈のしようも出て来るかも知れませんので、今はそこに期待するしかないでしょうか。



以下余談ですが、
前回の引用文中に出てきた江上文恵「神奈川湊と品川湊」(横浜開港資料館編『江戸湾の歴史』)の文章では

青木村の隣接地に芝生(柴)という所がある。丁度帷子川の河口近くに位置している上、鎌倉下の道の通過点でもあった。嘉吉元年(一四四一)の鶴岡八幡宮文書から、師岡保柴に関が設けられていたことが知られる。近世では帷子川沿岸の村々からの材木薪炭の集荷地・積出港であった。(74ページ)

として、中世段階の神奈川湊の中心を芝生村に考えることが出来ないだろうかと問いかけています。

芝生のi海岸段丘の崖
芝生のi海岸段丘の崖
ただ、関銭の徴収の効率を考えた時には、やはり陸上で関門を通過する荷物をひと通り捕捉しながら、該当する荷物に対して税を課す方が自然でしょう。そして、かつての芝生村の辺りの海岸段丘の迫る地形(写真は同地の旧東海道筋から撮ったもの)は、如何にも関所の様な施設を設けるには都合が良いと考えられます。そうなると、その様な陸上の関門はむしろ施設や領土の出入口に設けなければ意味を為しませんので、「師岡保柴」の関は寧ろ神奈川湊の辺境にあったと考えた方がしっくりします。

保土ヶ谷宿の成立を考える上での傍証としてはあまり役に立つ話ではありませんが、神奈川湊の経済力が鶴岡八幡宮にあてにされる存在であったと同時に、その沿岸一帯が古くからそれぞれに役割を担っていた証拠と考えることも出来るので、ひとまずここに追記しておくことにしました。

神奈川台関門跡(1)
神奈川台関門跡
神奈川台関門跡(2)
神奈川台関門跡ガイド
また、江戸時代末期の開国後に往来がきな臭くなったために、神奈川宿の出口に警備のために関門が設けられました。これも神奈川宿の台町付近の海岸段丘が迫る地形が関所に向いている故に選ばれている訳ですね。室町時代から近世末期に至るまで、こうした地形に対しての「見立て」が維持されていたことが窺えます。

…タイトルに「今井川」と入れているのにここまで全然登場なしですね(汗)。次回から取り上げます。




追記(2013/11/26):レイアウトを見直しました。


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