「横野山王原遺跡」についての記事を巡って

先日twitterのタイムライン経由で、こんな記事が廻ってきました。12月19日付けの神奈川版の朝日新聞の記事です。

朝日新聞デジタル:(9)秦野の「天地返し」遺跡 - 神奈川 - 地域



記事は新東名高速道路の建設予定地で行われている遺跡発掘調査のうち、「横野山王原遺跡」についてのものです。10月17日に現地説明会が行われた際のレポートという形を採っています。当日配布されたと思われる資料がPDFの形で「かながわ考古学財団」のページに掲載されていました。


横野山王原遺跡付近の地図(「地理院地図」より)
この資料に掲載されている地図の位置は右の通りです。秦野市横野は江戸時代には大住郡横野村であった地域で、秦野盆地北辺の山裾に出来た扇状地状の土地に畑を開いていた様です。「新編相模国風土記稿」では村内に山王社が存在することが記されています(卷之五十二 大住郡卷之十一)ので、「山王原」の地名も恐らくそこから来ているものでしょう。

遺跡自体は弥生・縄文時代から近世にかけての複数の層を含む遺跡であった様ですが、朝日新聞が取り上げているのはこのうちの近世の「天地返し」についてのもののみです。この時点では発掘調査は未了であった様ですから、遺跡の全容についての報告書が出てくるのはまだ先になると思いますが、何れまとまったものが「かながわ考古学財団」から刊行されると思います。以下は飽くまでも朝日新聞の記事を読んだ限りでの感想ということでお許し下さい。

「天地返し」についてはこのブログでも以前漆を取り上げた際に宝永噴火の復興に関して説明する中で簡単に触れました。上記の「かながわ考古学財団」の用意した現地説明会の資料に用いられた4コマの漫画は、元は山北の河村城跡の畑から発掘された「天地返し」の遺構に絡んで描かれたもので、そのわかりやすさから「天地返し」について解説する際に繰り返して紹介されているものです。内閣府防災担当の「1707 富士山宝永噴火報告書」でもこの河村城跡の「天地返し」の例が紹介され、その際にこの漫画が引用されています(114〜115ページ)。今回の「横野山王原遺跡」のものはこの河村城跡のものに匹敵する大きさがある様です。

記事中で気になったのが次の文章です。

天地返しをすると保水力が落ちた。そこで選ばれた葉タバコや落花生が秦野の特産となったという。


保水力の低下は確かに問題であったでしょう。火山灰土は基本的に透水性が高いため、これを地下に追いやってしまうと地下に「水抜き」を作ってしまうのと同じことになります。噴火前にどの様な地質であったかにもよりますが、降り積もったばかりの火山灰土では多かれ少なかれ保水力の低下は避けられなかったでしょう。

とは言え、秦野盆地での各種の作物の栽培の歴史に関して残っている史料を見て来た観点からは、宝永噴火と作物の変遷を直接裏付ける様なものはなかったというのが私の印象で、その点でこの指摘は少々違和感があります。少なくとも、波多野煙草については以前紹介した通り寛文6年(1666年)には年貢として納めていることが記録されていますから、宝永噴火の時点では既に煙草栽培がある程度定着はしていた筈です。噴火後に他の作物に見切りを付けて煙草栽培を増やした可能性はあるとは思いますが、そのことを裏付ける史料が見つかるかどうかが課題となりそうです。また、落花生栽培が開始されるのは明治時代に入ってからで宝永噴火からは1世紀ほどの年月が経っていますから、開国によって新たに入ってきた作物に活路を見出す過程で結果的に保水性の低い土地が有利になった、ということでしょう。

当時の主要な作物のうちで特に火山灰土に強いものを見出すとすれば、例えば先日取り上げた甘藷が該当しそうです。元は琉球の作物であった甘藷が薩摩藩に持ち込まれてそこで栽培に成功したものがやがて全国に広まっていく訳ですが、沖縄の多くの島も火山性の土地が多く、また「サツマイモ」の名前の元になった薩摩の2つの半島もいわゆる「シラス台地」の火山灰土の覆う土地ですから、そこで生育可能な甘藷は確かに富士山の降灰で覆われた土地に向いていそうです。

もっとも、先日見た様に「大野誌」の指摘に従うと相模国の甘藷の栽培の興りは八幡村を中心とする相模川西岸の砂丘地帯で、必ずしも降灰の被害が酷かった地域に最初に持ち込まれたのではないことになります。栽培が開始されたとする時期は享保年間と降灰の影響がまだ強く残っている時期で、その点では救荒作物の1つとして注目されていた甘藷が宝永噴火を契機に持ち込まれてきたと考えたくなるのですが、今のところはその様な関連付けを裏付ける程の史料がある訳ではない様です。今後の更なる史料の発見に期待したいところです。

朝日新聞の記事は遺跡の保全を訴える論調ですが、新東名の敷地内ということになるとかなり難しそうです。次善の策としては地層の剥ぎ取り標本(リンク先PDF)を作成することが考えられますが、今回の遺跡が果たして剥ぎ取り作業を行える状態になっているかはわかりません。

ただ、他に類似の「天地返し」の遺跡の発掘例が増えてきているのであれば、今後はそれらの遺跡相互の共通点と相違点を見出すことが必要になると思います。各地の「天地返し」の遺構に類似点が多いのであれば、それらが個々の村々が自発的に手法を編み出した結果とは考え難く、誰かによる「技術指導」があったことが考えられます(それが幕府から派遣された役人によるものか、それとも何処かの村で編み出した人がいたのかはさておき)。他方、降灰量は富士山からの距離によって多寡があり、更に降り積もった地形によっても厚みに差があったと思われますので、こうした遺跡各地点の降灰量の差が埋められた火山灰土の量に相関しているかどうか、もしそうなっていなければ、畑に降り積もった火山灰土を必ずしも全量地中に収めた訳ではないことになりますので、その場合は残りの火山灰土を何処へ持っていったのかが問題になるでしょう。今回の発掘調査を機に、こうした比較が出来るデータが出ればと思います。

この件については、後日調査報告書が刊行された際に、改めて取り上げてみたいと考えています。
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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

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