大住郡の野菜・穀類について:「新編相模国風土記稿」から(その4)

前回まで、3回に分けて「新編相模国風土記稿」の大住郡の産物で取り上げられた穀物や野菜について見て来ました。


「風土記稿」大住郡の野菜・穀類の産地として登場する村
今回取り上げている町村の位置(再掲)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
これらの作物が何故「新編相模」で大住郡の、引いては相模国の産物として取り上げられたのかを考える上で、もう1点見ておくべき史料があります。「新編相模」の編纂に当たっては、まず各村々から「地誌取調書上」という村明細帳を提出させています。今回の一連の穀類・野菜に関連して名前の挙がった村や町のうち、「地誌取調書上」が伝わっているのは平塚宿のみですが、その文政8年(1825年)5月の書上には、

一土地相応いたし候産物無御座候

(「平塚市史2 資料編 近世(1)」74ページより)

と記されています。「新編相模」の大住郡の図説や山川編では甘藷・越瓜・西瓜を平塚宿の産物として記していますが、その平塚宿からは当初、同地の産物として挙げられるものはない、と昌平坂学問所に報告している訳です。従って、図説や山川編の平塚宿の産物の記述は、「地誌取調書上」よりも後の何らかの機会に、別途情報を得て付け加えられたものであったことになります。

無論、「新編相模」には「地誌取調書上」に記されたものがそのまま採用された訳ではなく、この書上を元に各村や町を地誌探索に巡回した結果も踏まえて編集が成されています。また「新編相模」の大住郡の項が記されたのは天保11年(1840年)と、「地誌取調書上」が提出されてから15年もの時間が経っていました。ですから確かに、その間に更に追記すべき情報を昌平坂学問所が現地から得ていた可能性は充分に考えられます。

とは言え、以前も取り上げましたが高座郡福田村の地誌取調書上である「地誌調御用内改帳」(文政7年・1824年)には

一土地相応之作物 里芋・麦作之類

(「相模国村明細帳集成 第二巻」青山孝慈 青山京子編 岩田書院 784ページより)

と記されていたのに、「新編相模」では里芋や麦が福田村や高座郡の産物として取り上げられることはありませんでした。また、地誌取調書上以外にも、例えば前回取り上げた「楳澤志」で梅沢の名物とされていた越瓜(更には梅や鮟鱇)も「新編相模」では取り上げられていませんし、足柄上郡宮城野村の産物として地元が推していた蕎麦も、村の産物の中には名前が載ったものの足柄上郡の産物としては数え上げられずに終わりました。つまり、他の郡では地元が産物として考えていたものが「新編相模」上では必ずしも記されていない例が多いのに、大住郡の野菜や穀類については逆に地元から当初報告がなかったものを後から追記するという、逆の動きになっています。それでいて、その大住郡の産物として挙げられた個々の野菜や穀類には、それに足るだけの由緒などが存在したことを裏付けることが出来ず、一体どうしてこの様な郡による扱いの違いが生じたのか、なかなか説明し難い状況にある訳です。



こうした状況が生じた事情を考える上では、「新編相模」が成立するまでの経緯を考えてみる必要があると思います。そのためにはその編集過程で書かれたり集められたりしたものについて、更に関連する史料を集めて読み解くべきなのですが、現時点ではまだその様な史料を見ておりません。ですから、以下は飽くまでも現時点の私なりの個人的な推論に過ぎません。今後の調査に向けての差し当たってのまとめということでご勘弁下さい。

まず、「新編相模国風土記稿」の性質について2つほど確認しておくべきことがあると思います。1つは、「新編相模」の中では産物に関する記述は、残念ながら主要な項目と呼ぶには余りにも文量が乏しく、むしろ傍系に属する記述であったと言わざるを得ないことです。「新編相模」の中で最も紙面を割いて書かれているのは、各村や町の「由緒」に直結するものであり、各村の寺社もその延長線上で語られています。この目的のために、村々に伝わる文書や、寺社の数多くの由緒や宝物について記すことに多大な労力を振り向けており、それらの量が多い村や町ほど文量が増えるという結果になっている訳です。

その結果として、産物の様に傍系に属する事項の記述は相対的に薄くなってしまう傾向が避けられず、恐らく調査や記述のために必要な労力も村や寺社の由緒に関するもの程にはかけることが出来なかったことが考えられます。産物の由緒にまつわる文書があれば、例えば波多野大根の際の香雲寺の文書を転記するといった形で文量を増やすといった例も見られ、特記事項があれば必ずしも簡略に留めるというものでもなかったものの、実際は大半の産物の記述が一文で簡潔に示されるに留まっており、その生産の実態などについては他の史料を探ってみなければ明らかになることが乏しいのは、これまで延々と紹介してきた産物の例を見れば明らかと思います。

100 views edo 046.jpg
歌川広重「名所江戸百景」より「昌平橋聖堂神田川」
昌平坂学問所は湯島聖堂に設置され
孔子の生地に因んでその名が付けられている
("100 views edo 046" by 歌川広重
- Online Collection of Brooklyn Museum.
Licensed under パブリック・ドメイン
via Wikimedia Commons.)
もう1点は、「新編相模国風土記稿」の場合、その編纂に当たった昌平坂学問所は江戸にあり、津久井県を担当した八王子千人同心も八王子に本拠があった、という点です。つまり、基本的には相模国の「外部」の人たちが相模国の地誌編纂に携わったことになります。これは、「新編相模国風土記稿」や「新編武蔵風土記稿」の編纂の切っ掛けになった「新編会津風土記」の事情と比較した場合、「新編会津」は会津藩主が命じて編纂させたもので、当地を治めている藩が統治に必要な情報を書き付けた様々な文書を直接参照できる環境にあったのに対し、「新編武蔵」や「新編相模」の場合はそうした統治に携わっていた領主とは直接関係のない外部の人間が行っている関係で、その様な統治文書の類を直ちに閲覧できる環境にはなかったという違いがあります。実際、武蔵国にしても相模国にしても、それぞれの国内はこれらの地誌が編纂された江戸時代後期には、幕領の大半は旗本に細分化されており、一部の藩領を除くと国内を統括的に治めている領主がいない中で、それぞれの領地に赴いて不案内な地の地誌を探索していたことになります。

無論、八王子からは津久井県は隣接する地域に当たり、八王子千人同心にとっても比較的近接した地区の探索ではあった訳ですし、また鎌倉郡玉縄領の梅干について触れた際に、同地の渡内村の名主家であった福原高峯が昌平坂学問所に弟子入りしていることを紹介しました。これらの例の様に相模国に多少なりとも縁があったり土地勘があった人が関わった例がなかった訳ではありません。しかし、全体としてみればこうした事例はむしろ例外的であったと見て良いでしょう。

さて、「新編相模」の成立については、以前より何度か紹介している首巻・凡例に記されている次の年代が1つ手掛かりになると思います。
新編相模国風土記稿相模国図
「新編相模国風土記稿」山川編に収録された「相模國圖」(再掲)

一高座郡は、天保三年、三浦郡は、同五年に稿成る、此二編は、事の始にして、體例未定らず、故に十一年、再刪定を加ふ、足柄下郡は,七年に成り、足柄上郡、愛甲郡は、十年、大住郡、淘綾郡は、十一年に稿成る、鎌倉郡は、其前、武州稿編の時、捜索の事ありて、重て其學に及ばざるが故、他郡に比すれば、甚疎なり、抑鎌倉は、古人撰述の書もあれば煩蕪を省て、簡易に從ふのみ、

一津久井縣は、愛甲、高座の二郡より、分割して此唱あり、其地は千人頭、原半左衛門胤廣、別に承はりて撰定し、天保七年呈進す、故に其體例異同あり、

(首巻・凡例より、雄山閣版より引用)

これに従えば、大住郡は「新編相模」の中では淘綾郡ともども一番最後に手掛けられたことになり、その前には愛甲郡と足柄上郡・足柄下郡が手掛けられています。また、高座郡や三浦郡については大住郡の編纂と同じ頃に改訂が施されています。

このうち、足柄上郡と足柄下郡はその大半を小田原藩領が占めていたのに対して、他郡では旗本や相模国外の藩に細かく分掌された村が大半を占める地域が多く、比較的まとまった地域を一手に掌握する行政機関が足柄上郡と足柄下郡以外には存在していなかったという点が特徴と言えます。江戸時代初期には中原代官の様な地方を包括的に統治する組織もあったのですが、時代が下ると中原代官が解体されてしまい、所轄としていた幕領が旗本などに振り分けられてしまい、「新編相模」の頃には地域を俯瞰的に治める統治者がこれらの地域からいなくなっていた、という事情があります。大住郡の統治の移り変わりについては、平塚市博物館の「ひらつか歴史紀行」に図が掲載されています。


個人的には、こうした統治の実情の違いが「新編相模」の編纂に影響を与えた可能性があるのではないか、と考えています。小田原藩は以前漆について紹介した際に見た通り、「国産方」という地域の特産となるべき産品の開発に多大な労力を注いでいました。当然ながら、その過程で藩領内でどの様な産物が存在しているのかについては少なからず情報を集めていた筈で、藩を治める観点から有望なものを見極める作業も行っていたでしょう。

「新編相模国風土記稿」雄山閣版第2巻今井村御陣場跡図
雄山閣版「新編相模国風土記稿」今井村の御陣場図
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
こうした小田原藩が統治のために持っていた情報を、昌平坂学問所がどの程度参照したのかを裏付ける史料はまだ見ていません。ただ、足柄下郡の部が成立したのと同じ天保7年(1836年)9月に、当時の小田原藩主であった大久保忠真の手によって、天正18年(1590年)の小田原戦役の際の徳川家康の陣場に石碑が建立されています(小田原市による紹介)。「新編相模」の今井村の項(卷之三十三 足柄下郡卷之十二)でこの陣場跡について絵図2枚と共にかなりの紙数を割いて紹介していること、そして建立の年と足柄下郡の部の編纂の年が符合するという事実からは、小田原の地誌編纂事業を目の当たりにして忠真も刺激を受け、家康の足跡を記念し世に広めるものを残すべきと考えた可能性を考えたくなります。そうであれば、忠真も昌平坂学問所の求めに応じて少なからず協力する様に指示を出していた可能性は高くなるでしょう。

そのためか、足柄上郡や足柄下郡の産物の記述には、それまでに完成されていた諸郡に比べるとかなり豊富な品名が並びました。これらの中には、蛤石など津久井県で見出されたものが手掛かりとなっていたと思われる品目もあるものの、寧ろ先行して提出された津久井県の産物を手掛かりに他の産物を探る上では、その地域に精通した人の手引が有効であった可能性もあります。山岳地帯では水田や畑を開き難い分、山で採れるもので生計を立てる村が多く、産物の多様さはそうした地形に根差した土地利用を反映した側面も少なくないとは思われるものの、各村からの報告をまとめる上では、より上位の統治機構である藩からの情報が大いに手助けになったのではないでしょうか。

こうした足柄上郡や足柄下郡の編纂を終えた後では、引き続き行われた愛甲郡や大住郡、淘綾郡の産物の一覧が当初あまりにも「貧弱」なものに見えたのかも知れません。このうち淘綾郡の場合は村数が極端に少ない上、土地が痩せているという認識が強調されていたので、産物の点数が少なくなるのも止むを得ないと考えたのかも知れません。しかし大住郡の場合は村数も多く、比較的広い郡域を抱えている上に、

土地平坦にして、西北の隅にいたりて山嶺あり、所謂大山・堀山等なり、されば村落をなすに便ありて、空閑の地少し、土性は野土黑眞土砂交れり、水田少く、陸田多し、水田、二千九百五十七町二段一畝十歩五厘、陸田、四千九百五十二町五段八畝二十八歩六厘、

(卷之四十二 大住郡卷之一 雄山閣版より)

と、一帯の開墾が比較的早い時代に行われていたことを記しており、こうした土地の割に産物の記述が乏しいのは問題だと考えたのではないか、という気がします。そこで、改めて大住郡の幾つかの村に問い掛けをする機会を得て、その結果回答を得た品目を大住郡の一覧に書き加えたのではないでしょうか。

そういう目で見てみると、足柄上郡と同時期に編纂されていた愛甲郡についても、「新編相模」以外の記録がなかなか見出せない椎茸が記されており、その点に同様の傾向を読み取ることが出来そうです。但し、その愛甲郡田代村から提出された「地誌取調書上」(文政9年・1826年3月「愛甲郡田代村地誌御用取調書上帳」)には「蚕・麦・小麦・粟・稗芋」が記されていたのに、「新編相模」にはこれらは同村の産物として取り入れられておらず、この点では大住郡とは産物の扱いが異なっています。因みに愛甲郡には一部小田原藩やその支藩である荻野山中藩の藩領もありましたが、田代村は旗本領の1つでした。

また、既に完成していた高座郡や三浦郡、更に鎌倉郡についても同様の疑問が持たれたことから、多少手を入れようと考えたのかも知れません。しかし、こちらについては追加の調査はあまり成されなかったのか、また地誌取調書上を見返して一旦却下された産物を「復活」させることは考えなかったのか、結局福田村の様な例でも産物の記述が戻ることはありませんでした。一方、鎌倉郡の部については特に記述が分厚くなっていることもあってか、これ以上追記がなされることはなかった様ですが、それでも山川編の段階で更に何か付け加えようという動きがあり、その結果として「鎌倉椿」や「」が追加されたのかも知れません。

その結果、全体として見ると、相模国の産物の取捨選択の基準が郡によってまちまちになってしまったのではないかと思います。無論、それぞれの村々の中ではこれらの品目が比較的積極的に生産されていた可能性は高い見て良いのでしょう。しかし、その一覧を統一的な基準で整理されたものとするには、昌平坂学問所の立ち位置や、「新編相模」の編纂にかけられる労力のバランスの範囲内では、なお十分に吟味し直す余裕を持てなかったのではないかと思えるのです。

もっとも、他方では編纂に掛けた時間の長さから、担当者の世代交代が影響した可能性も考えてみる必要もありそうです。「新編相模」の首巻の凡例の終わりには、総勢で27人の名前が記されていますが、その一覧の前に

一本州編纂開局より竣功まて、前後事に預りしもの、年次に随ひ、其姓名を左に擧ぐ、

(雄山閣版より)

と記されていることから見ても、年次によって携わった人々が入れ替わっていったと見るのが自然でしょう。であれば、担当者によって産物の取捨選択の基準が変わってしまった可能性を考えることも出来ると思います。

また、「新編相模」に先行する「新編武蔵」でも、武蔵国内には川越藩・忍藩・岩槻藩といった藩が存在しており、特に川越藩は比較的多数の村々を所領としていましたから、これらの藩が「新編武蔵」の編纂に影響を及ぼすことがなかったのか、今後「新編会津」共々読み進める機会を持った暁には、そうした観点から「新編相模」と記述面の比較を行う必要があると考えています。この辺りは相模国の域外のことになりますので、着手するのはかなり先のことになりそうですが…。


次回、明治時代以降のこの地域の甘藷や西瓜、大麦の生産について記してまとめとする予定です。




スポンサーサイト
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

この記事へのコメント

トラックバック

URL :