大住郡の野菜・穀類について:「新編相模国風土記稿」から(その2)

前回に続いて、「新編相模国風土記稿」の産物一覧で取り上げられた大住郡の穀類や野菜について、個別に見て行きます。説明の都合上、順不同で取り上げます。

2.戮豇


本草図譜巻四十三「豇豆(ささげ)」
「本草図譜」より「豇豆」
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
梅園草木花譜夏之部巻2「越瓜・豇豆」
「梅園草木花譜」夏之部より「豇豆」(左)
こちらには実の生る様子は描かれていない
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
「風土記稿」ではこの漢字を使った上で「和名、佐々計(ささげ)」と注釈しています。今は「ササゲ」を食する機会が減っていることもあって、基本的には漢字書きにすることは少なく、強いて書く場合は平安時代の文献に現れる「大角豆」の字を宛がうことが多い様ですが、当時は「豇豆」などと書くことが多かった様です。

「農業全書」ではこの「豇豆」について次の様に解説しています。

凡て豇豆(さゝげ)と云ハ、本ハ(まがき)にはふ蔓さゝげを云と見えたり。 畠に(うゆ)る短きも、形味も皆よく似たれバ、同じくさゝげと云なり。 豇豆と名付るハ、紅色(あかいろ)多き故なりとも云なり。 (さや)かならず二つづゝ(なら)び生ず。

○畑に作る短き豇豆、三月初灰ごゑを少用ひて(うゆ)べし。 肥地ならバ、(こゑ)ハ用ゆべからず。 六月実るを収め、其まゝうゆれば、又八月実る物なり。 生長して後、つるのさきをつミ切べし。 其まゝをけバ蔓ミだれ合て多くミのらず。実をば朝露にもり取べし。日たけてとれバ実おつるものなり。是腎の穀なりと云て、性もよく賞翫する物なり。白さゝげ取分よし。又一種霜さゝげとて六月の末に(うへ)て、十月霜をおびて取あり。早き粟跡、又ハ早苗(わせ)の跡にも(まく)と見えたり。所によるべし。

…夏の菜の内第一の物なり。 家々に欠ずつくるべし。猶手入多し。小民なベて作る物にて人ミなしれる所なれば、くハしく記さず 沙地にをそく種れバ切虫きりてそだち難し、早く蒔べし。

(「日本農書全集 第13巻」農山漁村文化協会 201〜203ページより、以下「農業全書」の引用は何れも同書より、…は中略)


農業全書巻2「豇豆」図
「農業全書」の「豇豆」の挿絵では
垣根に這わせた姿が描かれ、本文と整合性が取られている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
豆の赤さが「豇豆」の名前の由来とも言われているとしていますが、江戸時代には赤飯を作る際に、武家では小豆の代わりにささげを使っていたということからも、その赤さが窺えます。最後の方で「農民が誰でも作るものでその栽培法は広く知られているので、ここでは詳しく記さない」と書いていることから、「農業全書」が執筆された江戸時代初期には既にポピュラーなものになっていた様です。そのことを裏付ける様に、「本草綱目啓蒙」では各地の異名・品種の名を多数列挙しています。さやの長さや中に含まれる種の数などが品種の命名に用いられることが多かった様です。但し、ここで挙げられている地名の中には「相州」に関するものは含まれていません。

3.甘藷


本草図譜巻五十「さつまいも」
「本草図譜」より「さつまいも」
「さつまいも」は「甘藷」の一種という位置付け
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
「風土記稿」でも「俗にさつまいもと稱す」と記していた通り、今でもその名で知られた芋ですね。もっとも、「本草図譜」では「甘藷」に先に取り上げられたのは「あかいも」などと称する一種で、「さつまいも」はその別種という位置付けになっています。この辺りは現在の種や品種の区分と照らした場合にはまた位置付けが変わってきそうです。

「農業全書」では「甘藷」について「蕃藷(あかいも・ばんしょ)りうきういも>」と表記し、かなりの紙数を割いて詳しく解説しています。この芋が「琉球芋」あるいは「赤芋」と称され、薩摩や長崎で多く作られていること、また「農業全書」が記された江戸初期の時点では、まだ全国的に広まる前であったこと、そして著者の宮崎安貞が強く栽培を勧めていることが読み取れます。

此藷に二種あり。一種を蕃藷(ばんしよ)を云。一種を山藷(さんしよ)と云。蕃藷ハ其形丸く長し。山薬(やまのいも)の形に似たり。味(すぐ)れてよし。今長崎に多く作るハ此蕃藷なり。山藷ハ其形芋がしらのごとくにして味劣れり。

○蕃藷ハそのかたち大かた山のいもに似て色薄紫なり。皮うすく、内いさぎよく色白し。味山薬よリハ甘く(うるハ)しき食物なり。菓子にもなり、種々料理して宜し。多く作りて(はなハだ)民食の不足をたすけ、殊に其性よく、久しく是を食すれば命長し。第一其根過分に出来、(かならず)国所(くにところ)をも賑し、其能すぐれ、徳多く損なきものなりと、農政全書に其功を誉て(くハ)しく記せり。薩摩長崎にてハ琉球芋、又赤芋と云て多くつくると見えたり。(いまだ)諸国にハ(あまね)からざれども、南向の暖国にて、(こへ)やハらかなる地に、法のごとく作らば、(はなハだ)生長すべし。しかる故山薬の次に記す物なり。葉ハ朝がほに似て、根のふとさハ地により大小長短あり。蒸て食し煮て食し、生ながら料理し、色々用ゆべし。其性ハ冷なり。又秋根よく入たる時掘取、(きよ)く洗ひ、細かに切、精米のごとくして蒸さらし貯へ置、飯にして食し、飢をよく助く。是を藷糧(しよりやう)と云と記せり。唐のよき地にてハ甚多く出来るゆへ。是を飯にして常に食するにより、かくハ号するとなり。

(378〜380ページより)


上記の引用でも甘藷を細かく切り蒸して干したものを保存食として紹介する下りがありますが、更に、次の様に古代の唐の記事を引いて、旱魃や虫害に見舞われた際の救荒植物として非常に優れている点が強調されています。

◯又水年(ミづとし)にても旱年(ひでりとし)にても、五六月稲の苗(ことごとく)腐り枯て、はや稲ハうゆべき時分過たる時、藷をうゆれば少遅しといへども、多少によらず利を得ずと云事ハなしとも見えたり是ハ唐の地にてねバりけなく(すぐれ)て肥地なる故如比(かくのごとく)なるべし。

◯唐にて(いなむし)の災ある年に、万の青き物ハ残らず喰尽せども、芋の類ハ根までの災なく、風雨旱の難も本よりなきゆへ、五穀の外のうへ物に、是に及ぶ物ハなしともいへり唐にてハ(くハう)といふ稲むしあり。多き年ハいなむし天をおほふとて、空もくらくなるほどむれ飛て、田圃を食尽して、青き物すこしもなしと見えたり。此時ハ根をとる物ならでハのこらずとしるせり。

(382ページより)


こうした点が知れ渡ったことで、甘藷がやがて全国的に栽培される様になっていったのでしょう。「本草綱目啓蒙」では

本[琉球より薩州に傳へ享保年中]薩州より來る今は東國にも多く種ゆ土地を撰ばず沙礫にも繁殖す[大坂西国には年中貯あり]種る法は[宮嵜安貞の作貝原先生の序あり]農業全書に詳なり

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、種名以外のカタカナをひらがなに置き換え、手書きの書き込みについては必要に応じて[]内に挿入)

と、小野蘭山が講義した頃には各地に広まっていたことを記し、栽培法については「農業全書」の名を挙げていることから、同書がその栽培法の伝播に一役買ったことが窺い知れます。

さて、今回取り上げている大住郡の野菜・穀物については、前回の大麦以外は各村の項に一切記述がありません。大麦については記述が見られた上大槻・下大槻村についても、それ以外の作物については何も記しておらず、それらについての裏付けとなる史料が地元に伝わっていないことは前回取り上げた通りです。

ただ、平塚市に合併する直前に大野町(かつての中原上宿、中原下宿、真土、四之宮、八幡、南原、豊田の各村)が編纂した「大野誌」(昭和33年・1958年)には、次の様な記述が見られます。

俗謡に「四之宮かぼちやに八幡いも、真土は真土で豆どころ、中原灰土ささげよい」とあるのは、江戸時代中期から明治初年にかけての、当町の特産物を述べたものである。中原の普通畑に現在ささげを仕付たら、茎葉ばかりが繁茂してろくろく実が成らないのであるが、当時の特産物として中原にささげが挙げられているところを見ると、当時の砂丘地内部は現在より余程瘠せていたことがうかがわれるのである。

(上記書472ページより、強調ブログ主)


南原村・中原下宿付近の迅速測図
南原村付近の「迅速測図」。東に中原下宿があり、その南は平塚宿域内
(「今昔マップ on the web」よりスクリーンキャプチャ)
この記述中に出て来る「いも」は甘藷ということで良いと思います。これらの名前が各地の産物として歌い込まれた俗謡があるとしているのですが、惜しいことにこの俗謡の全体を記している訳ではなく、またどの様な歌であったのかが記されていません。「大野誌」では巻末に同地に伝わる俗謡や童歌などが採録されているのですが、この俗謡は入っておらず、また神奈川県下で採集された民謡などを集めた資料を見てもこの歌に該当するものが見つからないので、どの様な機会に歌われるものであったかについても不明です。

八幡村付近の迅速測図
八幡村付近の「迅速測図」
村名の「八幡」は平塚八幡宮を指すが
江戸時代には平塚新宿として別の村になっていた
俗謡の「八幡の森」は平塚八幡宮の森を指すと考えられるが
「いもの名物」は八幡村の方を意識したものか
(「今昔マップ on the web」よりスクリーンキャプチャ)
ただ、「大野誌」のこの記述は恐らく「風土記稿」の産物一覧を強く意識して書かれたものでしょう。「風土記稿」ではささげの産地として挙げられていたのは南原村(現:平塚市南原)ですが、「大野誌」の紹介する中原(上宿・下宿、現:平塚市中原上宿・中原下宿など)は南原村の東隣に位置しており、どちらも前回紹介した砂丘地帯の上にあります。その土地があまり肥沃ではなかったことが、ささげの栽培には却って向いていたとこの筆者は見ている様ですが、確かに「農業全書」の記述でも肥えた土地には施肥を施すべきではないこと、そして砂地に植えれば虫害を防ぎやすいことが記されていました。

また、「大野誌」巻末の「俚歌俗謡」の中には、

目白どこへ行く

目白どこへ行く、八幡の森へ、

いもの名物たべに行く。

(上記書1056ページより)

と、やはり八幡村(現:平塚市八幡)の名物として「いも」が歌われているものがあります。相模国の主要な産物の1つに数えられる程の名声を勝ち得ていたか否かはさておき、少なくとも地元では、甘藷が主要な産物として認識されていたことは確かな様です。


上大槻・下大槻付近の土地条件図
薄い水色は氾濫原、赤茶色が更新世段丘
(「地理院地図」より)
こうした事例がもう少し集まると良いのですが、「風土記稿」が甘藷の産地として挙げる「八幡・平塚・上下大槻・中原上宿・南原等」のうち、裏付けと言えそうなものが見つかったのは「大野誌」の俗謡だけでした。もっとも、上下大槻以外は何れも平塚宿に隣接する地にあり、前回紹介した様に砂丘地帯の上にある村々です。「農業全書」では

◯うゆる地の事。高き畠の細沙がちにて深きを、いか程にもよく耕し、(ねんごろ)にこなし、山薬(やまのいも)(うゆ)るごとくうゆべし。(ひでり)せバ水をそゝくべし。

(380ページより)

などと、砂地が向いていることを記していましたから、その点では確かに平塚周辺の砂丘地帯は甘藷栽培に向いていたと言えます。また、上大槻・下大槻では、金目川の両岸には氾濫原が広がっていて水田に利用されているものの、その外側には段丘が広がっており、この上であれば「農業全書」の指摘する条件に合った畑があったと言えそうです。

因みに、明治9年(1876年)の「全国農産表」では、相模国の「甘薯」の生産量は13,219,679斤(現在の単位に換算すると約7932トン)と記録されています。また、翌明治10年の「第1回内国勧業博覧会」では中原上宿の他、藤沢駅(右上欄左から4番目、印字が極めて不鮮明)からの出品が確認出来、その生産量から見ても相模国内の甘藷の産地はかなり広範囲に広がっていたと見て良いでしょう。ただ、以前取り上げた通り藤沢宿の周辺も砂丘地帯が広がっていましたから、その点では平塚周辺の各村同様、この地帯も適作地であったと見て良さそうです。

残りの野菜については次回に続きます。



追記(2015/12/07):当初は「今昔マップ on the web」の埋め込み地図を2枚使っていましたが、この状態でiOS上で表示させた際に、1枚目の埋め込み地図が正常に表示出来ない(フレームが縦方向に際限なく伸びていく現象が発生する)ことが明らかになったため、この2枚の迅速測図はスクリーンキャプチャで代用することとしました。なお、「今昔マップ on the web」へのリンクはそのまま残しておりますので、より詳細にご覧になりたい方はそちらを参照下さい。


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