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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

寛政3年・江戸←→鎌倉間の「遠馬・遠足」

今回は「鎌倉市史 近世近代紀行地誌編」に収録された、ちょっと毛色の変わった2本の史料を気楽に紹介します(以下、ページ数のみの引用は何れも同書より)。

この2本の史料とは、松浦静山の「甲子夜話(かっしやわ)」と、山田桂翁と名乗る著者(正体は不詳)の「宝暦現来集(ほうれきげんらいしゅう)」からのもので、何れも寛政3年(1791年)に行われた「遠馬」ならびに「遠足」のことが記されています。同じ催し物の史料を2本「鎌倉市史」に採録した理由について、巻末の解説では双方に記された人物名に一部齟齬があり、どちらが正であるかを判別できなかったことを挙げています。ただ、どちらかと言うと「甲子夜話」の方が事前の準備のための触書が記されているのに対して「宝暦現来集」の方が結果についての記録が厚めなので、その点でも両者が採録されたことで当時の事情がよりわかりやすくなったと思います。


今「遠足」と書くと、小学校の児童たちがお出かけするイメージですが、この時の「遠馬」「遠足」は勿論その様なお気楽なものではありませんでした。「甲子夜話」では

一亥三月遠足遠馬左之通御鷹匠御鳥見え被仰付五日明七時吹上え相廻り七時半出立。

(215ページより)

と記し、同年の3月5日(グレゴリオ暦4月7日)の明け七時、つまり現在の時刻にして午前4時頃に江戸城内の吹上御苑をスタートしたことが記されています。なお、「宝暦現来集」では出発時刻を「明七ツ時三分」としていますので、現在の時刻にすると4時半頃に出発したことになります。

まず、この遠馬・遠足の距離を確認します。「甲子夜話」はそのルートについて

路程、自江都日本橋相州鶴岡十二里、又自日本橋大城大手御門十五丁、拠之往還二十五里。

(216ページより)

と注記しており、吹上御苑から日本橋に移動し、そこから鎌倉へと向かった様に書いています。復路でも日本橋から大手門を経て戻ったとしていますから、ほぼ同じルートを往復したものと思われます。


参考:大手門前から日本橋までのルート
Googleマップによる:
当時の距離を正確に算出したものではない)
「甲子夜話」は大手門から日本橋までの距離を「十五丁」と記しています。実際、現在の大手門から日本橋までの距離を地図上で測図すると1.5kmほどあり、記述とほぼ合うと考えられます。もっとも、江戸城の西側に位置する吹上御苑までが更に1kmほどもありますから、御苑から日本橋までの往復だけでも5km近くの距離があることになります。

そして東海道を日本橋から戸塚へ進み、そこから鎌倉道を進むことになります。戸塚の鎌倉への分岐は江戸方の吉田大橋の脇と、京方の八坂神社前の2箇所があり、以前紹介した「浦賀道見取絵図」では後者の道筋が描いてありましたが、「甲子夜話」に転記された触書には

東海道:日本橋から戸塚・吉田大橋手前まで
吉田大橋脇から柏尾川沿いの鎌倉道
柏尾川の改修前はもう少し蛇行していた

戸塚・八坂神社前から鎌倉・下馬までの
鎌倉道
左記の10kmはこのルート中から
該当区間を計測

一戸塚宿中有之候板橋際より左え入、鎌倉道御通行に候。戸塚より先き野道横道えは縄張致し置、往来は相通じ可申候事

(217ページより)

という一文が入っていますから、この遠馬・遠足では前者の道筋が採られたことになります。まぁ、この場合は宿場に用がある訳ではないので、わざわざ柏尾川を2度も渡って迂回するコースを採る必要もなかったでしょう。日本橋からこの吉田大橋の手前まで、現道上で測図すると約43km、吉田大橋の分岐から八坂神社からの道が合流するまでが約1.4kmほどあります。

鎌倉道は鎌倉八幡宮の北西の巨福呂坂切通を経て鎌倉入りすることになります。鶴岡八幡宮が折り返し点とされているものの、「甲子夜話」に採録された触書に

一雪之下にて御支度所之儀、御本陣大石平左衛門方え被仰付畏候。尤被召上物之儀は御銘々様より御持参被成侯に付、御末々迄御支度之品差出に不及候旨被仰付一奉畏候。勿論粗末之儀無之様に仕、御買物等所直段を以差出、諸事念を入御宿可仕旨被仰渡畏候事

(217〜218ページ)

とあることから、実際は雪ノ下の大石本陣まで南下していた様です。八幡宮の前から大石本陣までは270mほど隔たっています。これも現道上で測図すると、大石本陣の前までで約10kmあります。日本橋からの通算では54.4km、往復では108.8kmほどの距離になります。「甲子夜話」の「二十五里」は、その点では寧ろ控え目に見積もられた距離ということになりそうです。

この大石本陣で各人が持参した昼食を摂ってから復路に出発するということですから、本陣で多少一息ついたのでしょう。もっとも、競争相手がいることですからあまりゆっくりとはしていられなかったと思います。

「宝暦現来集」の方には遠馬に参加した8名の御馬方の名前と順位が記されているものの、「甲子夜話」も「宝暦現来集」も、遠馬の帰り着いた時刻については記していません。一方、遠足については双方の史料ともにもう少し仔細な記述が見られ、2人の著者の興味関心の主眼がどちらも遠足の方にあったことが窺えます。もっとも、「甲子夜話」の方は最初に帰り着いた人の名を「御鷹匠頭戸田五助組同心見習」の「戸川喜兵衛」とし、到着時刻を「七半三分」と記すのに対し、「宝暦現来集」は肩書は同じく「御鷹匠戸田五介組」の「市川喜兵衛」、吹上御苑に到着した時刻を「七ツ時七分」としているなど、双方の記述に幾らか食い違いが見えます。何れにせよ、現在の時刻に直すと午後5時過ぎ頃には江戸城に帰り着いたことになります。大石本陣での休憩時間や渡し場での停止時間などを勘案する必要がありますが、トータルで13時間ほどで江戸城←→鎌倉間の100km余りの距離を歩き切ったことになります。

一般的には、江戸日本橋を早朝に発って東海道を進んだ場合、初日の宿が保土ヶ谷か戸塚辺りになるのが当時の一般的な旅程でした。その倍以上の距離を1日で完歩した訳ですから、これはかなりの早足です。単純計算では8km/h弱の平均速度になりますが、これは途中の休憩時間等を除外していませんし、東海道には途中に権太坂や焼餅坂、信濃坂があり、鎌倉道も巨福呂坂切通などの上り下りがありますから、実際は平野部ではもう少し早く歩いていたでしょう。現在の100kmマラソンの記録ではこの倍くらいの速度で完走していますが、無論当時とはあらゆる点で条件が異なりますから、一概な比較は出来ません。

この時の歩行スタイルはあるいはジョギングに近かったのかも知れませんが、どの様なものだったのかはわかりません。ともあれ、最初に到着した喜兵衛について、「宝暦現来集」は

当日吹上御庭へ公方様被成侯に付、吹上へ罷帰、於広芝に道中歩行之体を上覧有之、御小納戸頭取亀井駿河(清容)守殿御達し、元馬場において、御酒肴御湯漬被之。

(219〜220ページより)

と記しており、その歩き振りを帰着後に将軍(家斉)の前で披露してみせたとしています。また、上位の者には褒美として酒や湯漬けを振る舞われたことが記されています。

この時には上記の喜兵衛の他、「宝暦現来集」の記すところでは全部で9人がこの遠足に臨み、うち喜兵衛を含む6名が刻限までに江戸城に帰り着いています。「宝暦現来集」の9人のうち、下位3名については品川宿への到着時刻は記されているものの、江戸城への帰還時刻は「不相知」としていますので、あるいはこの3人は完歩出来なかったのかも知れません。上位5人は年齢的には25〜30歳と「甲子夜話」は記していますが、何れも「御鳥見」や「御鷹匠」で、普段から鷹場などを歩いていて健脚が必要だった役職の人が遠足の参加を命じられた様です。

なお、上記の「甲子夜話」の引用中にも「野道横道えは縄張致し置」とあり、コースオフしてしまわない様に予め策が講じられていたことがわかりますが、それ以外にも沿道の各村々には馬のための水飲み場の用意、遠馬・遠足は右側を通行するため荷駄は左側を通行すること、道や橋の荒れている場所は出来るだけ普請を行い、支障のありそうな箇所では竹に赤紙を付けて目立つようにすることなどが、各村々への触書で指示されています。また、特に気になるのが当時橋がなかった六郷の渡しですが、

一六郷渡場にて船遅滞無之様、宿役人共出居、御渡船随分大切に致可申事

(217ページより)

と、可能な限り遅れのない様に配慮をすることが求められています。こうした触書が、遠馬・遠足の1ヶ月ほど前の2月10日付けで、沿道の各宿場・村々だけではなく、品川の長徳寺・妙国寺・海雲寺、鎌倉の建長寺といった、幕府の御朱印を受けていた沿道の寺にまで回覧されて、それぞれの域内の街道の準備に当たらせていたことがわかります。また、触書を出した翌日には役人が巡回して指示するという周到振りで、この遠馬・遠足がなかなか大掛かりに行われたことが窺えます。


解説によれば、こうした遠馬・遠足は川崎大師辺りまでの間ではしばしば行われていたものの、流石に鎌倉までの長距離のものは珍しかったので、「甲子夜話」や「宝暦現来集」の様な記録が残ったのだろうとしています(600ページ)。日本橋から川崎大師までですと、片道20kmあまりの距離がありますので、往復では現在のマラソンの距離に近いコースでしばしば健脚を競っていたことになるのでしょう。こうした記録が見つかったらまた紹介してみたいと思います。




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