「新編相模国風土記稿」に記された「石長生」と「慊堂日暦」(その2)

前回に引き続き、今回も「新編相模国風土記稿」で紹介された「石長生」について見て行きます。

今回はまずケンペルの「はこねぐさ」についての記述を確認するところから始めます。まず、ケンペルの生前に唯一出版された「廻国奇観(原題:Amoentatum exoticarum)」(1712年)中に登場する「はこねぐさ」の記述です。その第5章に「Plantarum Japonicarum」と題した日本の植物のカタログが掲載されていますが、その中にこの「はこねぐさ」に関する記述が含まれています。適切な日本語訳本を見つけられなかったので、同志社大学のサイトで公開されていたものから、ラテン語の記述を直接抜き出します。

Fákkona Ksa Adiantum celebre & medicamentosum montis Fakkona; caulibus purpureis nitidiffimis. Adiantum folio Coriandri; seu, Capillus Veneris.

(原書890〜891ページ、上記サイト中930〜931枚目の画像より)


Google翻訳でもこの文章は十分翻訳出来ず、特に「nitidiffimis」については訳語を見出だせませんでした。ただ、大筋では箱根山(montis Fakkona)中で採取した薬効が良く知られた草で、茎が紫色(purpureis)であるということ、そして、「Adiantum」からホウライシダの仲間と考えており、ここに「Capillus Veneris」という、後の「カッペレ草」「ヘンネレス」といった名称に繋がる名前が記されていたことがわかります。どの様な薬効があるかについては、この中では触れられていない様です。

次に、以前の記事でも引用しましたが、彼の「日本誌」(以下の本はその中の江戸への往参に関する部分が中心)から、箱根を通過した日の記述です。

この土地の草は、医師が特に薬効があると考えて採集するが、これらの中にはアディアントゥム(Adiantum)あるいはヴィーナスの髪という濃い紅色を帯びた黒色の、つやのある(くき)や葉脈のあるものが、たくさん見つかる。他の地方の普通のものより、ずっと効くと思われている。それゆえ家庭薬として貯えておくために、この山を越えて旅する人のうちで、誰一人それを採らないで通り過ぎてしまう者はない。この薬にはほかのものと比べられないすぐれた特性があるので、世間ではハコネグサと呼んでいる。

(「江戸参府旅行日記」斉藤信訳 1977年 平凡社東洋文庫303 164〜165ページより)


Beschrijving van Japan - titelpagina editie 1733.jpg
ケンペル「Beschrijving van Japan」扉(再掲)
("Beschrijving van Japan
- titelpagina editie 1733
"
by エンゲルベルト・ケンペル
- Kaempfer, Engelbert (1729年)
This file has been provided
by the Maastricht University Library
from its digital collections.

Licensed under Public domain
via Wikimedia Commons.)
こちらの書はケンペルの生前には出版が叶わず、後にケンペルの遺品を買い取ったハンス・スローンの手によって英訳本が1727年に出版されました。その後、この英訳本から仏訳本と蘭訳本が制作されて1729年に上梓されています。この蘭訳本はその後オランダ商館にも持ち込まれ、そこから長崎の通詞にも贈られた様で、安永7年(1778年)には三浦梅園が通詞吉雄幸左衛門の所蔵する蘭訳本を見たことが記録されています。

スローンの手元に渡ったケンペルの遺品は実際はその全てではなく、一部が遺族の手元に残ったため、この元になった英訳本には必ずしもケンペル自身の記述が全て含まれているということではない様です(以上、「江戸参府旅行日記」解説より)。ただ、江戸時代にはスローンが出版したもの以外には知られていなかった以上、ここに書き記されたものがケンペルの知見として当時知られていたものの全てと考えて良いでしょう。ともあれ、「はこねぐさ」の効能については「日本誌」でも具体的なことは記していません。そして、ケンペルはこの草が地元の人々によって薬草として利用されていることを観察しており、この記述と「廻国奇観」の記述を併せても、ケンペル自身が何らかの効能をこの草に見出したとは読み取れません。

さて、その点を踏まえつつ、松崎慊堂の「慊堂日暦」に登場するケンペルについての記述を見て行きます。日記ではケンペルの蘭書を廻る記録が何度か登場します。


「慊堂日暦」に最初にケンペルについての記述が登場するのは、文政7年(1824年)2月25日の項です。

◯ケンフル(アンモニタチス)

ケンフル、西洋人。アンモニタチス、印度七国ノ事ヲ記ス、同人作。此書ニ豊公ノ韓征ハ我ニ(あだ)スル趣向ト云。

(「慊堂日暦1」山田 琢 訳注 1970年 平凡社東洋文庫169 93ページより)

この日は「昧前(まいぜん)に平井簡夫宅に赴き、親事を議す。」(91ページ)と記した上で、かなり多数の付記が追加されています。「ケンフル」についての記述もその中の1つなので、あるいはこの平井宅で話題に上った話だったのかも知れません。この「平井簡夫」については委細がわかりませんでした。

「アンモニタチス」は「廻国奇観」の原題「Amoenitates Exoticae」から来ています。この頃には慊堂に近い所でこの本の解読が試みられていたことが窺えます。ただ、この時はそれ以上の話にはならなかった様で、その後しばらく日記には現れません。


次にケンペルのことが日記に現れるのは文政11年(1828年)正月3日の項です。

◯アンモニタチツ、余が看しところはこれなり。西学を習う者また読み得ず。羅甸語にて印度七国のことを書く。ケンフルは蘭語にて書く。この書は読むべしと云う。日本の事が主なり。

(「慊堂日暦2」山田 琢 訳注 1972年 平凡社東洋文庫213 148〜149ページより)


慊堂はこの時既に「廻国奇観」を見たことがあると言っています。「羅甸語」は「ラテン語」のことです。「廻国奇観」自体はその原題が示す通りラテン語で書かれています。流石に当時の日本にラテン語の素養があった人はいないと思いますので、解読するとなればラテン語から一旦オランダ語の訳語を探し出した上で改めて日本語に置き換えることになったでしょう。これに対して後半の「ケンフルは蘭語にて書く」はそのままでは意が通じ難いところですが、「日本誌」の方は上記の通り「廻国奇観」と違って蘭訳本が出版されていますので、「日本の事が主なり」という記述と併せて考えると、こちらを指しているものと思われます。

そして、その2年後の文政13年(1830年)9月8日には

近藤の家人来り、為めに前野頤庵に与うる書を作り、ケンフルの事を言い、これをその君(奥平老公)に達せんことを嘱す。その君がこの書を()んと欲するを聞けばなり。

(「慊堂日暦3」山田 琢 訳注 1973年 平凡社東洋文庫237 91ページより)

と書いています。この本の入手について、具体的に手を打っていることが窺えます。

さて、問題は次にケンペルのことが登場する、同年の10月4日の記述です。少々長くなりますが同日と翌日の記述をひと通り引用します。

四日 晴、暖。微風は南方よりす。倉成孺人(じゆじん)は肖司を拉し来る。正斎〔近藤正斎〕の妾来り、ケンフル一巻を託す。この書は、寛永中に耶蘇教を禁じて後、西洋のケンフルひそかに薩摩より入り、口は唖となり足は()えたる状をなし、尻車(こうしや)指言し、西海より中州を経て関東に入り、凡そ七年にして還る。この書及びアンモニタチツ二書を録し、その国にて刻す。明和中に阿蘭(おらんだ)朝貢し、官医某君と語りその事に及ぶ。阿蘭は即ち二書を以て(おく)ると云う。アンモニタチツは、余はかつてこれを十束生のところにて()たり。ケンフルの一書は、ケンフル始めは羅甸語(らてんご)にて書けるを、イギリスにてイギリス語に訳し、また阿蘭にて訳す。今はじめて一繙するに、その書は読むべからず、而してその図凡そ四十七扇、その識るべきもの左の如し。

○程子周尺の所出、文集語類より検出すべし。

○算法通変本末・読古摘奇算法・田畝比類乗除捷法。三書は宋の銭塘の揚輝(ようき)輯す。咸淳の序、徳祐の序あり。明の洪武戊午、宣徳八年朝鮮にて覆刻す。養安院の蔵書。

○朝鮮尺、検出すべし。大槻士縄。

〇九章算術、戴氏遺書(たいしいしよ)中に収むる算書十種中に載す。

○弘決外典鈔、四巻、兼明親王が僧増賀の為めに作る。

五日 晴。渋井石門・神保元貞来る。講を廃して諸子とケンフルを閲し、夜飲して散ず。七日に谷墅に游ばんことを約して云う、巳時に感応寺にいたらんと。

(「慊堂日暦3」99〜100ページより、本文中強調はブログ主)


慊堂のケンペルという人物への理解が明らかに正しくないことがわかります。上記でも見た通り、慊堂は通詞とも付き合いがあり、ケンペルについても既に何度か情報交換したりしていることはここまでの日記の記述で明らかですし、更に以前ケンペルの本を他所で見たと改めて記しています。にも拘らず、オランダ商館付きの医者として公的に来日し、将軍にも謁見していた人物について、何故薩摩から密入国し、身体に多々障害を被る結果となったかの様な理解になっているのでしょう。

松崎慊堂自身が漢学者であったことから、後半に見るべき点として書き出した箇所は自身の知識に照らして理解していた部分ということになるでしょう。こうした読解を、果たして慊堂自らのオランダ語の素養でどれだけ成し得たのかは不明ですが、日記のこの箇所の記述からはそれほど高い能力があった様には思えません。ならば、付き合いのあった通詞にはオランダ語の力が当時としては十分あったでしょうから、彼らに尋ねるということも出来たのではないかとも思えます。しかし、その様な手段によって慊堂の理解が修正されなかったということは、慊堂の周辺の関係者からも、その様な情報がもたらされなかった可能性も考えなければならないでしょう。それはつまり、慊堂の周辺の人々も、多かれ少なかれケンペルについて必ずしも十分に理解していなかった、ということを意味しています。

現時点では同じ時期の他の史料での裏付けを行っていない段階なので、飽くまでも「慊堂日暦」1本で判断できる範囲においてということになってしまうのですが、この日記の記述からは、ケンペルという人物について、オランダ商館付きの医師として来日していたという事実が、江戸の学者の間でもあまり共有されていなかったのではないか、という疑いが出て来ます。

ともあれ、慊堂は翌日も門弟たちと共にこの本を読んでいます。そして、翌天保2年(前年末に改元されている)3月4日に

道夫〔二階堂道夫〕は小関三栄(本所横津軽邸の近所に住む)を携え来り、ケンフルを読む。余は病むこと甚だし、因って(さかずき)を挙げて、勉強してこれを聴く。

(「慊堂日暦3」140ページより)

と記されているのが、「慊堂日暦」に記されたケンペルについての最後の記録ということになる様です。これ以降没年までの10年以上の記述も簡単に探してみましたが、関連する記述を見つけることは出来ませんでした。因みに、同日の記録には「キリシタン」についてかなり長い書き込みがあり、恐らくはこの門弟2名との勉強の過程で話題になったのでしょう。



さて、慊堂の上記の様な日記の記録を考えた時、ケンペルという人物について、果たして当時どれほどの範囲に理解が広がっていたのかが問題になってきます。「江戸参府旅行日記」の解説によれば、「日本誌」の方はその後幾度と無く抄訳や全訳が試みられた様です。ただ、全訳は弘化年間まで下る様で、それまではいわゆる「鎖国論」として知られている附録が抄訳されたものが中心である様です。これも当時の史料を更に探らなければならないところですが、「慊堂日暦」の記述からは、実はケンペルの正体について正しく理解している人が、通詞など事情に明るい一部の人を除くとあまりいなかったと見るべきではないか、というのが現時点での個人的な見解です。

その様な状況を念頭に置いて考えた時、前回引用した一連の「石長生」あるいは「はこねぐさ」についての文献に見える「紅毛人」を、果たして牧野富太郎が書く様に直接ケンペルと結び付けて良いのか、という次の疑問が生じてきます。ケンペルについての当時の理解が十分ではないとしたら、当時の人々によって「紅毛人」と呼ばれている人物にケンペルが想定されているというのは不自然になってくるからです。

この疑問をもう少し考えるために、前回引用した文献に見える知見を、その出所をキーに少し整理してみます。大筋で、次の3系統の知見に分類できると思います。

  • 「石長生」の名に紐付く、「本草綱目」をはじめとする漢籍由来の知見
  • 「へねれんさう」など、ケンペルの「廻国奇観」に由来する知見
  • 日本国内の、生息地での呼称や生態、薬草としての効能などの知識。「はこねぐさ」もその点ではこちらに入る

これらの系統に属する知見が、ある書物では同じものとされているものが、別の書物では触れられていなかったり別物と看做されたりしているのが、この「はこねぐさ」にまつわる知見の「混乱」の元になっている様に見受けられます。

このうち、「へねれんさう」の系統はケンペル自身の「廻国奇観」の記述があるので、この文脈で「紅毛人」をケンペルに帰するのは妥当でしょう。「大和本草」は「廻国奇観」の出版よりも前に成立していますし、「和漢三才図会」も「廻国奇観」と同年に成立していますから、この本を携えたオランダ人が日本に着任するまでの日数を加味して考えると、この知識が「廻国奇観」を経由して日本にもたらされた可能性はまずあり得ないことになります。つまり、この知見はケンペル自身の口から直接日本人に伝わったものと思われます。但し、オランダ商館の担当者は頻繁に交代しており、ケンペルも僅か2年しか日本に滞在していませんので、別の後任医師らがケンペルの見解を引き継いで日本人に伝えた可能性も残ってはいます。とは言え、その場合でもこの知見の発端がケンペルであることは揺らぎませんから、牧野が『園芸大辞典』の補注で指摘した話には妥当性が十分にあります。

これに対して、「風土記稿」などで取り上げられている、江戸でこの草を産前産後の婦人に処方したとする話の方はどうでしょうか。この元になったのは、「本草綱目草稿」の記述からは小野蘭山が箱根で取材した話と現時点では考えられます。蘭山が何時頃箱根でこの話を取材したのかは良くわかりませんが、「小野蘭山年譜」(磯野直秀編 2009年 「慶應義塾大学日吉紀要・自然科学」No.46所収、リンク先PDF)に記された足跡から箱根を訪れているものを探すと、享和元年(1801年)9月に幕命を受けて採薬の旅に出た時が最初になる様です。この目的であれば、箱根の山中で薬草を探す過程で地元の人から「はこねぐさ」について聞き知ったのも納得がいきます。但し、蘭山はこの後も数度箱根を訪れていますので、彼が「はこねぐさ」について聞き知った機会はもう少し後になる可能性もあります。また、この年譜をはじめ、小野蘭山がケンペルの著述に触れた機会があったかどうかを探してみましたが、見当たりませんでした。

こうした経緯と、蘭山がその「本草綱目草稿」で「土人曰く」と箱根で聞いたことを記していること、更に同書でも「紅毛人」と書いていてケンペルに関連しそうな記述も見当たらないこと、そしてケンペルの当時の知名度が必ずしも高くはなかったことを考え合わせると、ここでの「紅毛人」は必ずしもケンペルを指すとは言えないのではないかと思います。また、ケンペル自身が書いたものを見ても、ケンペルはむしろ箱根でこの草が薬草として採取されているのを見ている訳ですから、小野蘭山の見聞とは食い違っています。従って、江戸で婦人の産前産後に処方したのがケンペルであるとする「新牧野日本植物圖鑑」の記述は、その点で妥当とは言えないと思います。

では、蘭山が箱根で取材したこの話はどういう経緯で言い伝えられていたのでしょうか。1つの可能性としては、ケンペル以外のオランダ人医師が江戸で「はこねぐさ」を婦人向けに処方した可能性も考えられます。ケンペルは元禄3年から5年(1690〜92年)の、正味2年しか日本に滞在していませんが、後任のオランダ商館医師が元禄年間に何度交代したかは不明です。その後任のうちの誰かが実際に江戸で「はこねぐさ」を処方したとすれば辻褄は合います。しかし、それであればこの話は箱根の山中よりもむしろ江戸で広く伝わっていても良さそうですが、その様な痕跡は見つかっていません。

むしろ箱根でケンペルのようなオランダ人が植物標本採集を繰り返す中で、箱根の人々とこの草について遣り取りを交わすうちに、やがて何かの切っ掛けで「紅毛人から教わった」という方向に話がすり替わり、「尾ひれ」がついてしまったと考えた方が筋が通りそうです。それを小野蘭山が聞きつけて自身の講義で披露したことで、弟子たちを経由してこの知見が広まった、そんなシナリオが考えられそうです。




さて、これだけでは文献相互の記述の成否を判断しているに過ぎません。地誌や郷土史を追求する立場としては、結局のところ当時の「はこねぐさ」の利用の実態に最も近い記述はどれなのかを選び出さなければなりません。「風土記稿」が記しているのは小野蘭山が箱根で取材し講義経由で伝えたものと考えられますが、これは現地での言い伝え以上のものではなさそうです。しかし、ケンペルが書き残したところから、元禄の頃から既にこの草の薬効は箱根で知られていたと見るのが妥当なところでしょう。

そして、それぞれの文献の成立事情を考えると、箱根に長期に滞在して編纂された地誌である「七湯の枝折」に記されている腫れ物に用いる用法が、同地で知られていた薬効としては最も近いものの様に思えるのですが如何でしょうか。この薬効については、小野蘭山の講義を何処かで聞いてこの草のことを知っていたと思われる「東雲草」の著者も、薬効そのものについては「七湯の枝折」と共通している点がその裏付けになり得ます。ただ、小田原藩士が記した「木賀の山踏」では「毛生え薬」にされているところを見ると、その薬効はあまり広く知られているものではなかったのかも知れません。

もっとも、小野蘭山がこの言い伝えを広めていなかったら、恐らくこの草がこれほど注目されることもなかったと思われ、ひいては「風土記稿」にこの草のことが記されることはなかったとも言えそうです。「七湯の枝折」にしても、この草を産物の冒頭「山椒魚」の次に挙げている点からは、この草が世に良く知られた存在であることを意識した結果と思われ、その評判はこの小野蘭山の講義経由のものであったとも考えられます。

また、日本での「はこねぐさ」を巡る知見は上記で見た様な「ブレ」を生じるものの、ケンペル自身がその標本を箱根で採取し、「はこねぐさ」の名とともに記録したこと自体は、今でもその著書と標本で確認できる紛れもない史実です。現在は「ハコネシダ」と呼ばれる様になったこのシダ植物について、過去の記録を遡って見る上では、彼が遺したものが重要な手掛かりの1つであり続けていることには、変わりがないと言えるのです。
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