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アーネスト・サトウ「明治日本旅行案内」鎌倉の記述から

先日浦賀の水飴を取り上げた際に、アーネスト・メイスン・サトウ(Ernest Mason Satow)らの編纂した「A Handbook for Travellers in Central and Northern Japan(邦題;『明治日本旅行案内』、1884年)」を少し引用しました。今回はこの本から、以前書いた記事との関係で、鎌倉の景観についての記述の中で少し気になる箇所をメモ書き程度に取り上げます。

YoungSatow.jpg
1869年パリで撮影された
アーネスト・サトウのポートレート
この頃一旦日本を離れているが
すぐに再来日して長期間滞在した
("YoungSatow".
Licensed under パブリック・ドメイン
via Wikimedia Commons.)
この本は来日した外国人向けのガイドブックとして企画されたもので、初版の時点では原題に示されている通り日本の中央部と東北が取り上げられていました。その後の改訂で他の地域の観光ルートも追加され、最終的にはほぼ全国を網羅するまでに拡大されています。

この本の初版は、横浜で外国人向けの辞書などを出版販売していた「Kelly & Co.」から明治14年(1881年)に上梓されました。今回引用に使用した東洋文庫版の「東京近郊編」が底本としたのはその3年後の明治17年の改訂版です。本書の解説によれば、アーネスト・サトウが日本に滞在した期間は幕末の文久2年(1862年)からと、かなり長期にわたっています。実際に日本国内を周遊する様になったのは明治3年(1870年)頃からである様ですが、それでも初版の出版年までは11年、改訂版の出版までは14年の隔たりがあります。特にこの十数年は道路や景観の事情が大きく変わり始めた時期で、実際わずか3年で改訂版が出版されたのは、そうした変化に少しでも追随する意図であったことが初版の序文から読み取れます。ただ、この本では各地域を何時訪れたかについての記述は省かれているため、その間の変化を追う必要がある場合には、この本の記述だけでは十分ではないということになります。


A Handbook for Travellers in Central and Northern Japan
改訂版扉ページ
(Googleブックスより)
「浦賀の水飴」の場合は事業の継続が確認出来れば良かったので、基本的には出版年を確認出来ればそれほどの問題はありませんでした。しかし、ある時期の事象の変化を追いたい場合には出版年ではなく、その事象を確認した時期が問題になります。その点では、文中で確認した時期が明記されない書物は、その時期をどう考えるべきか迷うことになります。

例えば、鎌倉宮(大塔宮)については

鎌倉に至る直前で道は右に折れ野原を横切って、十二年前大塔宮(おおとうのみや)を祀って建立された神社へと通じる。

(「明治日本旅行案内 東京近郊編」庄田元男訳 2008年 平凡社東洋文庫776 167ページより、強調はブログ主、以下同じ)

と書いています。明治天皇の命によって鎌倉宮が造成されたのが明治2年、それから12年ということは、初版の出版年である明治14年を意識してこの箇所を記述していることになります。言い方を変えると、彼らが現地で見てきたのが何年のことかについて、ここでは意図的に捨象されているということです。ちなみに、石上の渡しが山本橋に切り替えられたのは明治6年のことですが、サトウは

江ノ島から片瀬を経て東海道沿いの藤沢へは距離にして一里九町ある。大磯に向かう場合には、中ほどにある川に架かる山本橋で左に分岐する小道に入ると、藤沢のかなり西側の東海道に出て一マイルは充分に短縮できる。

(192ページより)

とこの橋の名前を記していますので、少なくとも鎌倉・江の島の一帯に訪れたのはそれ以降ということになります。ただ、これだけではまだ以下の話では時期の特定には十分ではありません。

鎌倉の農地の様子については、以前取り上げた明治9年の「鎌倉紀行」(平野栄著)で、小麦やスイカが栽培されていたことを記していました。これに対して、「明治日本旅行案内」では長谷観音からの景観として

御堂の前面にある舞台からは、海岸線を三崎方面に向かう風景と鎌倉平野にひろがるとうもろこし畑を見晴らすことができる。

(183ページより)

と書いています。この「とうもろこし畑」が果たして「鎌倉紀行」と近い時期のことかどうかで解釈が変わってしまいます。比較的古い時期にこの様子を見ていたのであれば、トウモロコシが麦やスイカと一緒に輪作されていたと見ることになるでしょう。それに対して、明治10年から出版年の14年までの間のことであれば、「鎌倉紀行」以降に作物がトウモロコシへと切り替えられた、という解釈も出来ます。

また、七里ヶ浜の様子については明治23年(1890年)のラフカディオ・ハーン「江の島行脚」を以前紹介し、この頃には人力車が通れる道が崖下に切り開かれ、砂浜を行く江戸時代の様子とは異なる景観になっていたことを指摘しました。他方で「鎌倉紀行」ではまだ江戸時代同様に砂浜を行く道筋であったことを、前年の明治8年の「武甲相州回歴日誌」(織田完之著)と共に紹介しています。

これらに対して、「明治日本旅行案内」では

極楽寺坂の頂部の左手に位置するこの御堂にはいくつか興味深い古物が蔵されており、その中には頼朝自身が彫ったといわれている彼の木像がある。また文覚(もんがく)が自ら大包丁で彫った雑な自分の像、竹の繊維で編んだぼろぼろで色あせた平家の赤い(のぼり)、頼朝の刺繍入りの「陣羽織」、盛装した八幡が描かれた紗[弘法大師の作というのは誤り]などが見られる。極楽寺は元来塔屋、鐘楼、転輪蔵等を有する大きな寺で十三世紀に創設された。その奥に北条時政の屋敷があった。「本堂」の本尊は釈迦で、寺の蔵する宝物の中には三つの頭を持つ大黒、小さな不動がある。これは紅玉髄でできているといわれるが、実のところは朱の漆が塗られた大変古い木像だ。精巧な真鍮製の鈴一つと五鈷が二つ、義貞の陣太鼓、彼の側近の一人が使用していた鞍などがあり、また十二世紀の作である黒と赤の漆塗りの木製能面が二つある。

二〇〇ヤード先で道は砂浜に出る。「俥」は使えないが波が低いときは徒歩が気持ちよい。このあたりで富士が江ノ島のこんもりとした森の背後に唐突に姿をあらわす。ここの砂浜は七里ヶ浜と呼ばれ、昔は一里は六町あるとされていた〔つまり七里は四二町となるのだが、この長さは現在の一里、すなわち三六町を少々上まわる距離でしかないという意味〕。

(185〜186ページより)

と記しており、まだ七里ヶ浜を人力車で通り抜けるための道は整備されていなかったことになっています。これが明治9年以前であれば単に「鎌倉紀行」などの記述を裏付けているのみということになります。それに対して、明治14年近くに七里ヶ浜を訪れた時にも砂浜を行く道であったとすれば、この区間の道路開発はそれよりも後だったことになってきます。更に、改訂版の明治17年までの間にも再度ここを訪れて確認しているのであれば、明治23年にこの地を人力車で通り抜けたハーンが見た道は、まだ開通してからそれほど年数が経っていなかったことになってきます。


「新田十一人塚」の位置(地図中央の記念碑記号)
(「地理院地図」より)
なお、ここで極楽寺から砂浜まで「200ヤード」、つまり約190mと書いているのは何かを取り違えた可能性が高いと思います。極楽寺の門前からですと稲村ヶ崎までは約1kmもありますので、とても誤差の範囲では収まりません。砂浜から約150m進むと「新田十一人塚」の前に来ますので、あるいはこの距離を取り違えて記しているのかも知れません。


また、ここで「極楽寺坂の頂部の左手に位置するこの御堂」と書いているのは、このガイドが長谷から江の島方面に向かう視点で書かれていることを考え合わせると妙です。極楽寺はこの方向で進んできた場合は、右手に位置することになる筈だからです。文覚像(恐らく荒行像)のことを書いていることと考え合わせると、この記述も極楽寺だけではなく成就院の話が混ざっている様に思われますが、そうすると成就院のある辺りに極楽寺坂の頂上があったことになります。この坂の頂点が「江島道見取絵図」で描かれている位置と現在とでは変わっていることを、以前この見取絵図を追った際に指摘しましたが、サトウがここを訪れた頃にはまだ坂の頂上が見取絵図と同じか、それに近い位置にあったことになってきます。史料として考えるには読み替え操作が必要になるのが弱い点ですが、それでも極楽寺坂の景観の推移を考える上でのヒントの1つにはなりそうです。

アーネスト・サトウの書き残した手記があれば、もう少しこの辺りの問題を絞り込むのに使えるかも知れません。実際、彼の日記の一部が翻訳されて出版されている様ですので、この付近を旅した際の記録がないか、探してみることが出来そうです。その辺りは後日の課題ということで残しておきたいと思います。




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この記事へのコメント

アーネスト・サトウと宇和島藩 - うわつ - 2015年10月31日 22:00:48

アーネスト・サトウは 慶応2年(1866)に宇和島藩に来たそうです。
同一人物かどうかは分かりませんが、来日して4年後に宇和島に来たということになりますね。

Re: うわつ さま - kanageohis1964 - 2015年10月31日 22:15:34

こんにちは。コメントありがとうございます。

幕末の頃ですとまだ外国人が自在に国内を旅行することは出来ませんでしたから、英国駐日公使の付き添いの公務での訪問でしょうね。この頃は基本的には通訳として活躍していた様です。

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