松崎慊堂「慊堂日暦」から補遺2題

先日来読み返している松崎慊堂(こうどう)の「慊堂日暦(にちれき)」から、今回は以前の記事の補遺という位置付けで2題ほど取り上げます。

先日まとめた「新編相模国風土記稿」の足柄下郡の街道の中にあった「観音順礼道」について、酒匂川の「廻り越し」の抜け道に使った可能性があるという指摘をしました。「慊堂日暦」の中でも実際に酒匂川の渡しを渡らず、飯泉の渡しを渡ったと記している箇所があります。天保4年(1833年)6月の箱根湯治の往路の記述です。3日の分は以前一度引用していますが、前日の様子を併せて見る必要からその箇所を含めて再掲します。

三日 早に発す。朝霞は四散し、或いは雨兆ならんかと疑う。境木にいたれば、津和奈の東覲にて、輿馬は絡駅如(らくえきじょ)たり、十余万石侯なり。戸塚駅にいたり朝飧を食す。游行寺に入り、出でて橋南の青柳店にて小飲す。藤沢にて竹輿に乗り、南郷にて小飯す。輿夫継ぎ大磯にいたる、輿夫の勇吉は(たけ)六尺、郷藩の陸尺(りくしやく)の亡命してここに在る者(竹田の産)なり。また継いで梅沢にいたる。夜、小八幡の農家(権次郎)に宿す。箱嶺の烟雲は騰々たり、枕上に雨を聴く。

四日 雨晴れ、竹輿にて飯泉を渡る。午、宮下の藤屋勘右衛門に達し、装を東南室に卸す。室には秋七草図(南湖)を掲げたり。

秋草の中にまじりてなぶられな唐なでしこよ余所のものとて

真顔

(「慊堂日暦3」山田 琢 訳注 1973年 平凡社東洋文庫237 331ページより、ルビも同書に従う、強調はブログ主、以下扱い同じ)


3日の天気は下り坂で、朝方の慊堂の予感が当たって夜半には雨が降り出してしまいます。翌朝にはその雨は上がった様ですが、ここで慊堂一行は酒匂川を渡るのに飯泉へと迂回したと書いています。

まずこの日の道筋を推測してみます。前の晩に泊まった小八幡(こやわた)は国府津よりも小田原寄りに位置しており、観音順礼道への岐路は既に行き越しています。その点では酒匂村まで東海道を進んでから酒匂道を経て観音順礼道へと入る道筋も考えることが出来ますが、小八幡村からの道筋として考えると遠回りです。最初から「廻り越し」の意図があったとすれば、多少東海道を引き返すことになっても観音順礼道へ直接向かってしまった方が、トータルでの道のりでは若干有利です。下の地図はその推定で線を引いてみました。

「慊堂日暦」天保4年6月の酒匂川の渡し「廻り越し」推定ルート
「慊堂日暦」天保4年6月の酒匂川の渡しの「廻り越し」推定ルート
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

ここで気になるのが、慊堂が敢えて「廻り越し」をした理由です。慊堂は漢学者として藩主に仕えていた身分ですから、江戸時代には武士の身分として渡し賃を出す必要はなかった筈です。従って渡し賃を懸念しての行為ではあり得ません。

別の理由としては途上の「飯泉観音」詣でも考えられなくはありませんが、「慊堂日暦」には飯泉観音へ詣でたとは書いていません。わざわざ東海道から迂回してこの観音に詣でたのであれば、多少なりともこの観音について記していても良さそうですが、それもないところから見て、その可能性も外して良さそうです。

そうなると理由として一番考えられるのは、前の晩に降った雨による増水で「酒匂川の渡し」が「川止め」になっていることを懸念して、という点でしょう。雨は既に上がっていましたから、「川明け」の可能性に期待して「酒匂川の渡し」まで取り敢えず行ってみるという考え方もあったと思われますが、小八幡村の位置関係からは、そこまで行ってしまってから飯泉に迂回するのであれば、最初からそのつもりで飯泉へ行ってしまった方が良いという判断だったのではないかという気がします。勿論、こうした判断を慊堂が自ら行ったと考えるよりは、小八幡村の方で渡し場の配慮や迂回の道筋を行く駕籠の手配をしたのでしょう。

ただ、そうなると辻褄が合わなくなってくるのが「風土記稿」の「飯泉の渡し」の記述です。以前まとめた一覧に含めた通り、多古村の項には

◯渡船場 酒勾川にあり、對岸飯泉村に達す、故に飯泉渡と唱ふ、五月初旬より九月中旬に至り、渡船二艘を置て、往來を便す、冬春の間は、土橋を架せり、飯泉及當村の持、東海道酒勾川渡船より川上十九町を隔つ、彼渡し留れば、亦此渡しも留む、

(卷之三十四 足柄下郡卷之十三、雄山閣版より、強調はブログ主、なお「東海道酒勾川渡船」は原文ママ)

とあります。つまり、もし「酒匂川の渡し」が「川止め」になっているのであれば、それに応じて「飯泉の渡し」も「川止め」になっていることになっていて、何れにせよ酒匂川を越えることは叶わなかった筈です。勿論、これは「酒匂川の渡し」側が「廻り越し」によって不利な事態にならない様に、近隣の渡し場と取り決めたものです。「風土記稿」の足柄下郡の項の成立は首巻の凡例に記されているところによれば天保7年、慊堂の箱根行きの僅か3年後です。この取り決めは慊堂の箱根行きの時には既にあったと見て良いでしょう。

もっとも、「飯泉の渡し」は舟渡しですから、徒渉の「酒匂川の渡し」よりは多少の水位上昇に対して融通は効きそうです。実際にこの日の酒匂川の渡しが川止めになっていたかどうかは「慊堂日暦」の記述だけでは判然としませんが、あるいは本来の取り決めが必ずしも厳守されず、「酒匂川の渡し」の川止めをよそに「飯泉の渡し」が密かに営業を続けていた状況があったのかも知れません。この辺りはもう少し事例を集めてみたいところです。




もう一題、先日「慊堂日暦」の「雁来紅(はげいとう)」を取り上げましたが、その続きです。

天保10年(1840年)、明和8年(1771年)生まれの慊堂は数え年で70歳になっていました。その年の8月28日に箱根に湯治に出かけ、9月13日に江戸へと戻ってきます。その帰宅した日について次の様に記されています。

十三日 陰。暁、発して大森站に抵れば天始めて暁なり。巳刻、荘に帰る。小雨。児孫門生、出てて謁して各々平安を賀す。窓を開けば、老少年鶏冠花は正に盛んにして、籬菊(りきく)はなお未だ開かず。夜、洞泄(どうせつ)二行。月なし。

(「慊堂日暦5」山田 琢 訳注 1973年 平凡社東洋文庫377 303ページより)


畫本野山草[3] 葉鶏頭
橘保國「畫本野山草」より「葉鶏頭」
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
畫本野山草[3] 鶏頭花
同じく「畫本野山草」より「鶏頭花」
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

帰り着いて庭を見れば、植えてあったけいとうやはげいとうが花盛りになっていた、という訳です。「籬菊」は垣根の菊のことですから、この文章自体は単に花壇を愛でていると見るべきでしょう。しかし、文政11年(1828年)4月の記述と合わせてみれば、これは食草とする意図を兼ねて植えていたことになりそうです。もっとも、「慊堂日暦」では時に庭に播種した植物についての記録が見えることがありますが、この年の記録では「老少年」や「鶏冠花」を何時蒔いたのかは見当たりませんでした。

既に高齢に達していた慊堂はこの年特に体調が優れなかったことが日記から読み取れます。下痢や熱に悩まされ、終日臥していたという記述が多く見られます。そこに同年の4月に門人であった渡辺崋山が獄に入れられたことを知らされ、崋山の身を案じて消息を様々な人に訪ねて廻ったり、老中水野忠邦に建白書を送ったりしています。その建白書が届けられた際の様子を、当時水野忠邦が領有していた浜松藩の藩校で経誼館の儒官を務めていた小田切藤軒に尋ねた日には、次の様に記されています。

(注:八月)五日 雨未だ止まず。勉強して藤軒に赴く。藤軒は迎えて云う。二十九日に書至り、持して相公〔水野忠邦〕に呈せり。公は従頭一覧し、徹底して云う、風聞は当るあり、当らざるあり、当るところは領略(りょうりゃく)せり。老人がこの事のために焦労小ならずと聞く、云々と。主人は蕎麦を供す。腹候のための故に、多食すること能わず。雨を()いて辞去して荘に帰る。

(「慊堂日暦5」295ページより)

この日も腹痛をおして雨中出向いていた様で、出された蕎麦もあまり食べられなかった様です。

こうしたことから察するに、この年の箱根行きは、恐らくはそうした心身の不調を少しでも和らげたいという意図があったのでしょう。しかし、滞在中も腹痛や感冒に悩まされていたり、上記にも「洞泄」とある通り帰宅早々に再び激しく下すなど、あまり効果のある湯治ではなかった様ではあります。帰宅時に花を付けていたけいとうやはげいとうも、そうした体調の中で12年前に同門から聞かされた植物のことを思い起こして、何かしらの効能を期して植えたものだったのかも知れません。
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この記事へのコメント

- たんめん老人 - 2015年10月19日 10:33:19

飯泉観音には出かけたことがあります。二宮尊徳ゆかりの寺でもありますね。坂東三十三か所の巡拝を志して、飯泉で止まったままになっているのですが、そろそろ再開すべき時になってきたかもしれません。

Re: たんめん老人 さま - kanageohis1964 - 2015年10月19日 12:59:52

こんにちは。コメントありがとうございます。

二宮金次郎については「慊堂日暦」の天保10年の箱根滞在中の記録の中に出て来ますね。恐らく宮の下温泉滞在中に宿の主から話を聞かされたものを書き付けたのでしょう。

飯泉観音の次から、ということは飯山観音からということになりますね。

- つねまる - 2015年10月21日 18:26:06

こんにちは。いつもお世話になっております。
昨日はポイントを突いたコメントをありがとうございました。
さらっと流そうと思っていた点をお見通し。しっかり読んで戴いている喜びと、根拠を示しきれない未熟さを噛み締めております。
迂回した理由の検証から、豊富なご見識と資料でお話を拡げられて、そのわかりやすさにいつもの事ながら歴史の検証と考察について学ばせていただいております。

今後も引き続きご指導賜りたく存じます。
何卒よろしくお願い申し上げます。

Re: つねまる さま - kanageohis1964 - 2015年10月21日 19:15:45

こんにちは。こちらにお越しいただいてのコメントありがとうございます。

阿波藍を北海道へ持って行って、というお話にふと疑問が頭をよぎったのであの様なコメントを差し上げたのですが、追加調査のお手間を取らせてしまいましてすみませんでした。確かに栽培時期の調整で乗り切るという方法はあり得ますね。

この手の産物の研究はやはり基本的に地元の史料に頼ることになるので、既存の研究があるとすればやはり道内ということになりますかね。何れ相模国内の絹織物の歴史を追う際に関連産品として染料の事情も追わないといけないと思うので、その時に機会があればこちらでも改めて調べてみます。

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