【旧東海道】その5 保土ヶ谷宿と今井川(その1)

前回の神奈川宿の話を展開する過程で、帷子川の様子について触れたので、結果的に保土ヶ谷宿付近の様子についても一緒に触れた格好になりました。今回から保土ヶ谷宿の話を書こうと思うのですが、幾らか前回の話を再び引き合いに出すことになりそうです。


神奈川〜保土ヶ谷間の道筋(ルートラボにて)
そもそも神奈川宿から保土ヶ谷宿まで、1里9町しかありません。1里が約4km、江戸時代の街道では36町で1里でしたから、約5kmほどだったことになります。江戸時代の東海道の中では、御油〜赤坂(16町、約1.7km)や平塚〜大磯間(27町、約3km)程ではないにしても、隣の宿場との距離が特に短い区間になってしまっていますが、この理由は現在はっきりとはわからないとされています。

徳川幕府が慶長6年(1601年)に伝馬朱印状を各宿場に配布したのを以って、近世の東海道の成立と見做すのが定説になっていますが、保土ヶ谷宿の名主家であった軽部家にはこの伝馬朱印状と共に出された「御伝馬之定」が今でも残っており、当初から36匹の馬を常備しなければならなかったことが読み取れます。馬を常備させるということは、要するに彼らを養い続けなければならない訳ですし、それを補助する人員も相応に必要になる訳ですから、それらを賄い続ける余裕がなければなりません。つまり、伝馬朱印状を出した街には予め相応に財力がある街であることを見極めていた筈ですし、受ける側もそれだけの腹積もりがなければ引き受けられなかったでしょう。実際、箱根が幕府の要請を断ったのは、それだけの役目を引き受けるには箱根の山中ではやって行ける見込みが立たなかったからでしょう。

見方を変えれば、伝馬朱印状を出されたからには、当時の神奈川宿も保土ヶ谷宿も等しく相応の経済力を持っていると見込まれるだけの規模がある街だった筈だろうということになります。当初川崎や戸塚に朱印状が出されなかったのは、それだけの規模に達していなかったということでしょうが、藤沢〜保土ヶ谷間や神奈川〜品川間が長距離過ぎるのに両者がこれほど近かったということは、当初はあまり距離への配慮は成されていなかったのでしょう。他方、神奈川と保土ヶ谷の両方に朱印状が出されたということは、双方が拮抗するだけの規模を持っていたと解釈することが出来そうです。もしどちらか一方が他方に大きく及ばない力関係であれば、御朱印状は大きい方にだけ出せば十分だった筈だからです。

つまり、何故御朱印状がその町に対して出されたかを考える上では、その直前の町の規模がどの程度であったかを知ることが重要になって来るのですが、神奈川は湊の存在で由緒が説明出来るのに対し、保土ヶ谷の方はその様な史料がなかなか存在しないことが、この問題を解きにくくしています。

今回改めて資料を探していて、神奈川湊の範囲をもっと広げて考えた方が良いという見解を示している文献が幾つか見つかりました。

江戸時代、神奈川宿の青木町に西隣した地域は、芝生村(現・西区浅間町付近)と呼ばれた。ここは帷子川の河口近くに位置し、鎌倉道の「下の道」が通過する場所でもあったため、中世における「神奈川湊の中心」とも考えられた(江上文恵「神奈川湊と品川湊」横浜開港資料館編『江戸湾の歴史』)。しかし中世における神奈川湊を一定のこうした河岸に限定せず、神奈川町の全湾全体で考えてみるべきであろうとの見解(福島金治「神奈川湊とその住人構成」山本光正編『東海道神奈川宿の都市的展開』文献出版)が近年出されている。

(「神奈川湊とその周辺―中世から近世へ―」 曽根 勇二 「海からの江戸時代―神奈川湊と海の道―」横浜市歴史博物館編 1997年 6ページ)


神奈川湊は、鎌倉の外港・六浦湊に続いて、南北朝〜室町時代頃より発展したと考えられる。鎌倉時代末期の正中(しょうちゅう)二年(一三二五)、時宗(じしゅう)の安国上人は「芝宇(しぼう)宿」」で最初の賦算(ふさん)を行った。また室町時代の禅僧・万里集九(ばんりしゅうく)は、文明十七年(一四八五)に神奈川を通過して、その有様を記した漢詩文集『梅花無尽蔵(ばいかむじんぞう)』で「神奈の民鄘(みんてん)、板屋連なる。深泥馬を没して打てども進み難し」と詠み、同じく京都・聖護院(しょうごいん)道興准后(どうこうじゅごう)は翌十八年に記した紀行文『廻国雑記(かいこくざっき)』の中で、「かたひらの宿」を通過したと記す。当時の神奈川湊の中心は、権現山より西の帷子川付近に広がっていたようだ。

(「開港一五〇周年記念特別展 海賊―室町・戦国時代の東京湾と横浜―横浜市歴史博物館編 2009年 14ページ、ルビも原文通り、なお「鄘」の字は該当する文字を拾えなかったので、検索してヒットしたGoogleブックス上の該当箇所の文字で代用した)


これらの見立ては、以前引用した「新編武蔵風土記稿」の神奈川湊の説明「南の方本牧浦の方より、神奈川の出崎までの間、なゝめにくり入たる如くなる入海なり、その間舟路一里餘なり、…」とも一致するもので、その観点では支持できると思います。その意味では、保土ヶ谷宿に伝馬朱印状が出されたのも神奈川宿と同様、湊を背景とした財力が見込まれたから、という見立ては出来そうにも思います。

しかし、それであれば神奈川から保土ヶ谷に至る広い地域を一括に見立て、例えばその中間である芝生村辺りが中心となって宿場が形成されたとしてもおかしくなさそうです。元より神奈川湊の範囲が相当に広いものであったにせよ、それでは宿場としてはまとまりに欠け、却って伝馬の運用に支障が出るかも知れません。もう少し別の説明で補わないとおかしな事になりそうですが…続きは次回へ。



追記(2013/11/26):神奈川〜保土ヶ谷宿間の道筋の地図を追加しました。


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