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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

箱根の蕎麦:江戸時代〜大正時代の紀行・観光案内を中心に

以前(玉匣両温泉路記たまくしげふたついでゆみちのき)」(天保10年・1839年)で、著者の原正興とその一行が、箱根の木賀温泉から大雄山最乗寺まで箱根外輪山を越えて往復した部分を取り上げたことがありました。その途上で宮城野村の茶屋に往路と復路の両方で立ち寄っているのですが、その復路の際の記述は次の様になっています。

宮城野の里にきたり、くだものうる家にて又休む。この里の蕎麦(そば)は、信濃(しなの)国の名ある里より出すよりも、(あぢは)ひことなるよし。既にこの家にて、そばもうれども、麦かり田うゑするいそしきころなれば、やすめり。あるじの女の、

「前の谷川に山目と(いふ)うを多くすめば、湯あみにきたまへる都人も、それとらんとて網もてきてなぐさみ給へば、そばもまゐ(進)らする也。わどの(和殿)も日をさだめて来給へかし。そば打てまゐらせん」

と云。

(「江戸温泉紀行」板坂 耀子編 1987年 平凡社東洋文庫472 187〜188ページより、ルビも同書に従う)


「箱根七湯志」宮城野辺・明神嶽図
「箱根七湯志」(間宮永好著)より
宮城野辺〜明神嶽の図(再掲)
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
江戸時代の後期には信濃の蕎麦の評判が高かったことは、「本草綱目啓蒙」でも

本經逢原に須北方者良南方者味苦性劣不堪服食と云 本邦にても信州及江州桃井伊吹山を上とす

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、カタカナをひらがなに置き換え)

と記していることでも確認出来ます。この茶屋の主は、宮城野の蕎麦が信州のそれよりも味が良いことを自慢し、当日は麦刈りや田植えで忙しいので用意をしていなかったものの、予約をしてくれれば川でヤマメを獲りがてら(これも湯治客の一連のレクリエーションですが)そこへ蕎麦を打って持参する、と勧めている訳です。もっとも、「玉匣両温泉路記」の以降の記述には、この宮城野の蕎麦は登場しません。


当時の紀行文に現れた箱根の蕎麦についての記述を探すと、例えば「木賀の山踏」(竹節庵千尋著、天保6年・1835年)では

(注:三月)十日、けふは空よく晴て日並よし、卯の半過起出つ。…

けふは宮城野に往んとて横井の息幷妻なるもの、その人にいさなはれ 巳のこくまへより出行ぬ。…

午の半比皆々帰りけり。そはと花菜をつみとり家土産にもて来にけれは

宮城のゝそはにはあらて是は又

みやけのそはといふへかりける

湯の客は道々に着く其中に

はたけの菜さへとうに立けり

(「相模国紀行文集:神奈川県郷土資料集成 第6集神奈川県図書館協会編 1969年 405ページより、…は中略)

と、春先の山菜や蕎麦を摘んで帰って来たことが記されています。この「木賀の山踏」では別の日に底倉で蕎麦を食べたことも記録されています(同書409ページ)。

更に、松崎慊堂(こうどう)の「慊堂日暦(にちれき)」でも天保2年(1831年)の箱根逗留に際して

(注:五月)十六日 …西北して山に上り、宮城野村にいたる。村は五六十戸、山間の頗る平寛なる処にて、一家あり蕎麦条を売る、頗る精なり。村酒を(すす)めて帰れば、すなわち昏なり。

慊堂日暦3」山田 琢 訳注 1978年 平凡社東洋文庫337 166ページより、ルビも同書に従う、…は中略)

と、蕎麦にかなり力を入れている家があったことを記しています。

「箱根絵図」嘉永7年 蔦屋平左衛門より-右部分
蔦屋平左衛門「箱根絵図」より右部分
「ミヤギノ」「ソバ名物」の文字が見える
(「国立国会図書館デジタルコレクション」の
画像より抜粋し、矢印加筆)
もう少し時代が下って、幕末期の嘉永7年(年)「箱根絵図」(蔦屋平左衛門版)にも、図右端の「ミヤギノ」の隣に「ソバ名物」と記されており、こうした記録からは江戸時代の少なくとも後期には、同地が蕎麦を売り物にしていたことが窺い知れます。

何時もですと、こうした紀行文や道中記などの記録よりも先に「新編相模国風土記稿」の記述を紹介するところです。その宮城野村の項には確かに

村内狗脊・蕨・薯蕷・獨活・蕎麥の類を產す、就中狗脊は多く產して、其味他に優ると云、

(卷之二十一 足柄上郡卷之十 雄山閣版より、強調はブログ主)

と記されてはいます。しかし、ここに挙げられている他の産物、つまり「狗脊」「蕨」「薯蕷」「獨活」については足柄上郡図説山川編でも取り上げられているにも拘らず、唯一蕎麦だけは図説や山川編では取り上げられていません。更に、この「風土記稿」の編纂に当たって参考にされたと思われる「七湯の枝折」でも、その産物の一覧に「蕎麦」の二文字はありません。

そもそも、江戸時代には蕎麦は救荒食物の1つとして何処でも栽培されているものでした。「大和本草」では

…凡蕎麥夏穀既に終り立秋前後下九月に既實り十月に收刈り其あとに復麥を栽れは凡一年二三度穀類を收取る(すり)て爲搗餠爲粉餌糧食飢饉故農の利用多し是亦佳穀也

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、漢文調の箇所の送り仮名を除き、基本的にカタカナをひらがなに置き換え、送り仮名を上付き、返り点を下付きにて表現)

と、麦などの耕作の合間に短期間で収穫出来る点が農民に重宝されているとしています。

ですから、そうした中でも敢えて産物として取り上げられるとすれば、それは他の地域に比べて何らかの特徴があった、つまり品質面や由緒などの点で特筆すべきことがあったということになるだろうと思われますが、「風土記稿」を編纂した昌平坂学問所には、宮城野村の蕎麦に関してはその様な産物ではないと看做されていた節があるということになります。

また、かなり些細なものまで産物に挙げていた「七湯の枝折」にも取り上げられていないことからは、あるいは宮城野の蕎麦栽培が始まったのが「七湯の枝折」の編纂よりも後であった可能性があります。実際、上記の紀行文などは何れも、文化8年(1811年)に著された「七湯の枝折」よりも後に書かれています。「玉匣両温泉路記」がこの茶屋を「くだもの売る家」と書いているのも、あるいはこの家が元は果実を主に出す茶屋で、信濃名物に肖って蕎麦を始めたのが比較的新しいことであったことを象徴しているのかも知れません。ただ、この辺りはもう少し史料が出てきたところで改めて検証する必要がありそうです。

もう少し時代が下った頃の様子はどうだったでしょうか。幕末には既にあった筈の宮城野村の蕎麦ですが、文久元年(1861年)に著された間宮永好「箱根七湯志」でも、宮城野の蕎麦についての記述を見出すことは出来ません。また、例によって明治10年(1877年)の「第1回内国勧業博覧会」では、蕎麦は6件の出品を確認出来るものの、その中には箱根の出品者は含まれていません。以前、箱根の出品の多くは板橋村の内野勘兵衛が取りまとめており、その多くは「七湯の枝折」を参照した節が窺えることを指摘しましたが、そうであれば「七湯の枝折」に収録されなかった蕎麦が出品から漏れたのも理解出来ます。とは言え、出品者を幅広く募っていたこの博覧会のことですから、その気になれば宮城野村から別途蕎麦を出品していてもおかしくなかった様にも思えます。

更に、明治期の博物学者として活躍した田中芳男が、明治4年に富士や箱根地域の植物調査旅行を行った際の紀行である「富士紀行」では、乙女峠を越えて仙石原村に入り、宮城野村へ到達しています。そして、この両村で栽培されていた作物についても記録していますが、仙石原村の名主や木賀温泉の旅宿の主にも話を聞いているにも拘らず、記録された作物の中に「蕎麦」の名は見えません。

こうした傾向からは、少なくとも宮城野村の蕎麦栽培が量的な面ではあまり拡がりを見せなかったことが窺えます。「本草綱目啓蒙」にあった様に、箱根の蕎麦が上出来だったのは、信濃と同様に山上の冷涼な気候が合ったのに違いありませんが、信濃の様に盆地を広く使える土地柄と違い、箱根はカルデラ内部の僅かな平地にしか畑を開く余地がありませんから、その点では増産を図るのは難しい面があったことは想像に難くありません。

しかし、その一方で明治時代の旅行案内書の中に「宮城野蕎麦」を取り上げたものが幾つか見られます。明治26年(1893年)の「箱根温泉志」(「国立国会図書館デジタルコレクション」では著作者未記入、奥付によれば「編集兼発行人」として高橋省三 学齢館版)には次の様に記されています。

宮城野 早川に沿ひて五六丁上れば宮城野に出づ此地は戸数三四十戸あり、山間の平地にして田圃廣く開け穀類菜蔬(さいそ)の類を出すかゝる山上にかゝるところあるべしとは思ひよらざる事なれば此處に至る人一驚(いつけう)せざるはなし路傍流れに臨み蕎麥屋あり宮城野蕎麥とて名物なり、客の至るを待てそれより新に打ちはじめて出すものにて眞の所謂(いはゆる)生蕎麥(きそば)なり、其美なること譬へん方なし蕎麥通の腹を抉るに足れり、宮の下底倉に遊ぶ者は散歩して此處に來り數椀(すわん)を味ふこと可なり

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、ルビは一部を除き省略)


原正興の「玉匣両温泉路記」の記述と併せて考えると、この蕎麦屋は江戸時代から客の注文を受けて蕎麦を打ち始めるスタイルを維持していたのでしょう。江戸時代には山菜やヤマメを獲りがてらであったものが、この頃になるとそうしたレクリエーションはなくなってしまったため、単に周辺を散策して時間を潰すという方向に変わっていった様です。

因みに翌明治27年刊の「箱根温泉案内」(森田富太郎著 森田商店)にも「宮城野蕎麦」の紹介が見られますが、前年の「箱根温泉志」と文面が極めて酷似しており、あるいは前者を参照して記述したものかも知れません。もっとも、この「森田商店」は底倉の業者であることから、流石に隣村の実情について不案内のままこの文章を書いたということはないでしょう。

更に、明治42年(1909年)の「大筥根山」(井土経重 著 丸山舎書籍部)では

是(注:木賀温泉のこと)から先へ行くと宮城野村である。今から七年程前にはこの村は七十餘戸であつたさうだが、今は寄留(きりゆう)を加へて百三十戸程になつて居る、(しか)し田十町に畑二十五町しかないから食料は他の供給を仰がねばなるまい、風致を添へて居る大なる巖石(がんせき)を石材に割り又楓樹(ふうじゅ)を薪にして賣つても生活は樂ではなささうだ、この村へ行かうとする早川の手前に洗心亭(せんしんてい)といふがある、之れは箱根で名代(なだい)の蕎麥屋である、箱根に來て退屈して居る人は運動がてら一度は必らず行つて風味を試す所である、

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、ルビは一部を除き省略)


宮城野付近の明治29年の地形図
早川沿いに田があったことが見える
(「今昔マップ on the web」より)
この蕎麦屋の名前が登場します。今のところこの蕎麦屋の名前を記しているのを見掛けたのはこの文章だけでした。現在の住宅地図で宮城野付近を探してみましたが、この名を受け継ぐ蕎麦屋は現存しない様です。

「宮城野蕎麦」の名前は、大正11年(1922年)の「四五日の旅 : 名所囘遊」(松川二郎 著 裳文閣)でも確認出来ます。強羅から早雲山に登るケーブルカーの紹介が直前に見えていますが、これは大正8年(1919年)に箱根登山鉄道の鉄道線が強羅までの区間を開業した後、2年後の大正10年に開業したものです。これと前後して、同社と富士屋自働車が自動車事業でしのぎを削る様になったことは以前取り上げた通りです。その結果、箱根に自動車で訪れる人を見込んで「神奈川県自動車案内」(大正10年・1921年 現代之車社 編)の様な案内書も出版され、この中でも「宮城野蕎麦」の名前を見出すことが出来ます。少なくともこの頃までは、この蕎麦屋が孤軍奮闘して評判を取っていたと言えそうです。

しかし、こうした交通の転換はやがて箱根の地を「日帰り旅行」の出来る観光地へと急速に変貌させていくことになります。昭和10年(1935年)に書かれた寺田寅彦の随筆「箱根熱海バス紀行」(リンク先は青空文庫)では、同年4月の日曜日に、思い立って家族で連れ立って箱根と熱海に鉄道とバスで周遊してきた1日の様子が記されています。その締め括りでは

今日は朝の九時半頃家を出て箱根で昼飯を食って二時には熱海へ来た。そうして熱海ホテルでお茶を飲んで七時にはもう(うち)へ帰って夕食を食っていた。九歳の時に人力車で三日かかって吉浜まで来たことを考え合わせてみると、現代のわれわれは昔の人に比べて五倍も十倍も永生きをするのと同等だという勘定になるかもしれない。

(青空文庫より)

という感想を記しています。因みに、この日の一行は箱根町(旧宿場町)のホテルの食堂で昼食を摂っています。

旅程と費用概算. 昭和9年度版」(ジヤパン・ツーリスト・ビユーロー 編)には、東京を発って箱根へ日帰り旅行する場合の旅程や費用が複数紹介されています。そして、この一連の旅程の中では「仙石原」の名を見出すことは出来るものの、「宮城野」の名前は見つかりません。

仙石原には江戸時代に既に温泉はあったのですが、同地に関所が設けられたこともあっていわゆる「箱根七湯」のうちには数えられていませんでした。関所が廃止された明治時代になっても上記の森田富太郎著「箱根温泉案内」では

此地は春間駿州駿東郡邊の農夫村婦の來浴する所なれば浴舎鄙野にして他の温泉の比にあらず且通路は稍險隘(けんあい)にして都人士等の滯溜するもの少し

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、扱いは上に準ず)

と評されており、湯治客向けに開発が進むにはもう少し時代を下る必要があった様です。とは言え、「旅程と費用概算. 昭和9年度版」にも「仙石原温泉」の名が紹介されていることから、その後観光客向けに整備されていったことは確かで、結果的には自動車交通が入ってくる頃になって温泉を持っていたことは有利に働いたと言えそうです。

他方で宮城野はこの時点ではまだ温泉を持っていませんでした(宮城野温泉の開業は第二次大戦後の昭和35年・1960年)。そのためか自動車交通による周遊ルートの中では「通過点」になってしまった様で、日帰り客に素通りされることになったのでしょう。「宮城野蕎麦」がいつ頃まで経営を続けていたのかは定かではありませんが、私見ではこうした箱根の変貌が影を落とした可能性は少なくない様に見受けられます。寺田寅彦が書いた様に、朝と晩は自宅で食事をして出掛けてくる行楽客には、現地での食事の機会が1回しかありません。現地に宿泊しながらであればこの機会がもう少し増え、そのうちの1回は宿泊先以外で摂ってくれるのであれば、宮城野の様な地でも客が来てくれる可能性があったでしょう。その機会が激減してしまった上に、その僅かな食事の機会がバス旅行の中継地に限定されてしまうとあっては、通過点になってしまった地の蕎麦屋には商いの機会がなくなってしまったとしても不思議ではありません。日帰りで手軽にやって来る行楽客相手には、訪れてから蕎麦を打ち始めるという時間の掛かるスタイルは通じ難い面もあったでしょう。更に、元より蕎麦の生産に使える畑が少なく、生産量に多くを望めなかった点も、こうした環境の変化ではマイナスに作用したのかも知れません。


宮城野のかつての田畑も市街化された今では、同地での蕎麦も潰えてしまったと見て良いでしょう。現在は、「箱根そば」と聞いて、小田急電鉄系列の立食系ファストフードチェーンを思い浮かべる人も沿線には多いのではないかと思います。「小田急五十年史」などの社史で、その店名の由緒について記したものを見つけることは出来ませんでした。高度成長期に立食蕎麦の事業を始めた同社が、果たしてかつて箱根山中の一角で営まれていた蕎麦屋のことを意識していたかどうかは定かではありません。ただ、「螢田駅」の命名の経緯を思い返すと、「箱根そば」についてもその歴史について承知していた可能性もないとは言えない気もします。
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この記事へのコメント

- むく - 2015年09月26日 00:16:27

長年陽気の良い季節の休みの日は仙石原に通って?いました。
「箱根は蕎麦が美味いでしょ?」と人に聞かれても、ハテ?と思っていましたが、今では幻の箱根蕎麦なんですね。
そのむかし、仙石原の主要地場産業は葦簀作りだったと聞いたことも。

Re: むく さま - kanageohis1964 - 2015年09月26日 06:11:43

こんにちは。コメントありがとうございます。

仙石原の辺りは湿原があったり、カルデラの中では割と平地があるので、古くから耕作地として使われてきてはいたようです。ただ、やはり標高の高い場所で気温が下がってしまうので、その環境に合うものが色々と試されていたというのが実情の様ですね。明治時代には仙石原に牧場が造られて箱根のホテルなどに牛乳を供給していたこともありました。

宮城野も仙石原ほどではないですが平地があったので、そこに作られた畑の一角で蕎麦も作っていた、という感じですね。

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