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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

相模国の香蕈について:「新編相模国風土記稿」から(その2)

津久井県鳥屋村・青根村の位置
津久井県鳥屋村と青根村の位置関係
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
前回に続き、「新編相模国風土記稿」で取り上げられた「香蕈」、すなわち椎茸について取り上げます。今回は、江戸時代以降の相摸国域での椎茸生産の実情を見ていきます。

江戸時代から相摸国域内の各地に伝わる文書のうち、椎茸の栽培に直接関わる文書としては、寛政5年(1793年)7〜8月の「津久井県鳥屋村奥野山にて江戸豊田屋安右衛門椎茸作りにつき約定証文」(「神奈川県史」上の名称)が挙げられます。津久井県鳥屋(とや)村(現:相模原市緑区鳥屋)は青根村(現:相模原市緑区青根)の東に隣接していますが、間に丹沢の高い尾根によって隔てられており、青根村が道志川沿いにあるのに対して鳥屋村は中津川渓谷に面する位置にあります。

相定申証文之事

一此度当村奥野於稼山椎茸作度旨御望付、日向通はんの木丸ゟ西郡境迄、東南ゑんさき登尾峯通ゟ宮ケ瀬村境まて、当丑ゟ来ル卯年迄拾五ケ年季相定申候、山代金之儀金拾四両也、只今慥請取申所実正御座候、椎茸作木之儀そろの木壱ケ木限候得共、山内御制木槻・杉・檜・柏右四木之儀、何様之小木・小苗等迄大切可被成旨規定致候上、木伐被(繕)置候場所茸出候時節、村内之者大人勿論、子共・童たりとも決為取申間敷候、若右躰之族御座候ゝ急度吟味可致候事、

一□道具并薪木之儀、御入用次第御伐出可被成候事、

前書之通売渡申候処相違無御座候、若横合ゟ六ケ敷申候者出来致候ハ江御苦労御掛ケ申間敷候、尤此上何用之儀出来仕候共、壱日も休山為致申間敷、為後日村役人・百姓代加印を以売渡申候、仍如件、

寛政五年七月日

相州津久井県鳥屋村

(百姓代2名、組頭7名、名主2名加印署名省略)

江戸両国和泉町

豊田屋

安右衛門殿

相定申証文之事

一此度私共村方奥野稼山内ニ而椎茸作稼致度付、その一ケ木限御望付、村中談事合ニ而、荒川御番所御役人石田八十六様へ御窺申上、其上ニ而及相談、右之木品為御伐取可申筈相極申候、年季之儀当丑ゟ卯年迄十五ケ年季相定、山内道筋等取(繕)草切金として、金子十四両請取申所実正御座候、御入山可被成候、

一御制木之杉・檜・柏・槻四木之□生立之小苗等ニ而も、随分御大切可被成候、

一椎茸出来候荷物御差出被成候節、荒川御番所御窺之上御運上之儀青根村同様御心得可被成候、

一小屋木等之儀御制木之外、何れ木品成共御勝手次第御拵可被成候、

一椎茸木御膳被置候場所へ、村中者一切立入申間敷候、若椎茸出候節姿取申もの御座候ゝ、村役人急度相糺可申候、

右之通規定致候処少相違無御座、為其村役人・百姓代加判、仍如件、

寛政五年八月

(「神奈川県史 資料編9 近世(6)」843〜844ページより、変体仮名は適宜小字に置き換え)


この文書からは幾つか当時の椎茸生産にまつわる事情が見えてきます。まず、この椎茸生産は江戸の商人がスポンサーとなって「山代金」の名目で14両を支払って始められています。この14両は「山内の道筋等を取り繕う草切り金」と説明されていますから、山中に入ってホダ木を伐り出す際等に必要な道を付けるのに使われたのでしょう。当然、産出した椎茸は江戸へ持って行って販売する目的で作っていたことになります。「そろの木」とはイヌシデなどの木の別名ですが、この時はこの木をホダ木として使ったのでしょう。他方、山中では他にケヤキや杉、桧、柏を材木として育てているので、これらには間違っても手を付けない様に取り決めている訳です。また、それ以外の薪木については要望があれば伐り出しても良いこと、ホダ木を置いた場所には関係者以外は近付かせないことが取り決められています。


荒川番所のあった辺りは現在津久井湖の底に沈んでいる
道志川の合流地点よりは下流にあるが
中津川の合流地点よりは上流に当たるので
鳥屋村からここに届け出るには
青野原方面へ峠を越えて行く道筋を経たことになる
また、後段の証文の最初と3番目の項目に荒川番所の名前が出て来ます。そして、その3番目の項目では「青根村と同様に」と青根村の名前が登場します。番所では相模川を下る各種の荷物に対して運上金を課していましたから、鳥屋村で産出した椎茸についても江戸へ搬出する際には番所を通して運上金を支払う様に取り決められた訳です。見方を変えれば、この時には既に青根村も椎茸の生産を行っていて、運上金を荒川番所に納めていたということになります。「風土記稿」の津久井県の稿が八王子千人同心から昌平坂学問所に納められたのが、以前取り上げた通り天保7年(1836年)ですから、40年以上前には既にこの様な運用が確立していた、と言えるでしょう。ただ、具体的にいくら徴収されることになっていたのかはわかりません。

鳥屋村にしてみれば、右の地図に示した様に荒川番所まで一山越えて荷物を運び出す手間が課せられたことになりますから、その点では道志川に沿って下れば良い青根村に比べると若干厳しい道程になったと言えそうです。

一方、椎茸生産に直接関与するものではありませんが、「津久井町史」では椎茸生産について解説する際に、延宝6年(1678年)9月の「青根村きのこ山御林山守厳守請書」という文書を紹介しています。

きのこ山御林之覚

一かんの川きのこ山御林伐荒シぞう木計

一かまたてきのこ山御林くろ木まざり

右之御林堅ク相守可申候、為後日如件

延宝六年午九月

青根村 (以下山守4名、名主1名、組頭6名加印署名省略)

(「津久井町史 資料編 近世2」123ページより、次の注も同じ)


「津久井町史」では、この文書に見える「きのこ山」について

きのこ山 元禄年間(一六八八〜一七〇四)「津久井領諸色覚書」には、かなだて松茸山・神ノ川松茸山、天保年間(一八三〇〜四四)『新編相模国風土記稿』では、釜立山・神之川木之子山とし、二か所の御林を記している。

と注を付し、更に「通史編 近世・近代・現代」で「風土記稿」の「香蕈」の記述を取り上げて「それにちなんだものだったのかもしれない」と記しています。また、鳥屋村にも「松茸山」があり、これも同じく「きのこ山」だったのではないか、と解釈しています(以上210ページ)。

この考察の通りなら、この地域での椎茸の生産は江戸時代の比較的早い時期から行われていたことになりますが、当初は「半栽培」でさえなく自生するものを採集していただけだったかも知れません。また、「きのこ」という名称では必ずしも椎茸に限定されていたのかもはっきりしませんが、前回取り上げた様に、椎茸が比較的識別しやすいと考えられていた点では、「きのこ山」で産出するきのことして考えられる候補としては椎茸が最有力ということになるのでしょう。

もっとも、荒川番所に運上金を納めていたと記すにしては、これらの村で収穫された椎茸に対して、領主が何らかの貢税を課した痕跡が、同村や津久井県全域に伝わる明細帳上に見出だせないのが気になります。また、この2点の史料と「風土記稿」の記述以外に、江戸時代の相模国の椎茸生産を裏付けるものが見つけられませんでした。無論、未公開・未発見の文書に当時の椎茸について何らかの情報が盛り込まれているものがまだあるのかも知れませんが、私が調べることが出来た範囲ではこの2点が全てでした。これまで見てきた様に、足柄上郡・足柄下郡や津久井県の様な山がちな村々には漆や柿渋をはじめ、様々な産品に貢税が課されていました。そうした中で椎茸が貢税を免れていたのは、いささか不自然です。

更に、文政9年(1826年)3月の「愛甲郡田代村地誌御用取調書上帳」には

一土地相応之産物 蚕・麦・小麦・粟・稗芋ニ御座候、

(「相模国村明細帳集成 第二巻」青山孝慈 青山京子編 岩田書院 449ページより)

と記されていて、同村の産物として挙げられている品目中には椎茸を意味するものが含まれていません。この「地誌御用取調書上帳」とはまさに「風土記稿」の編纂の初期の段階で各村から提出させ、昌平坂学問所が現地での地誌探索を行う手掛かりとした文書です。そこに椎茸を意味するものが記されていないにも拘らず、完成した「風土記稿」では田代村が椎茸の産地の1つとして挙げられている訳です。そうなると、どの様な経緯で昌平坂学問所が田代村を椎茸の産地の1つとして挙げるに至ったのかが、江戸時代の相模国の椎茸生産を考える上では課題になってきます。

そこで、もう少し時代を下って明治時代以降の史料も点検してみることにしました。まず、例によって明治10年(1877年)の「第1回内国勧業博覧会」では、相模国域からは「足柄上郡矢倉澤村」から「香蕈」が出品されたことが確認出来ます(他に武蔵国多摩郡域と横浜で仕入れられた遠州の椎茸が出品されています)。そして、この矢倉澤村の椎茸は花紋賞を受賞しており、

品質厚くして香氣强し眞に上等の香蕈なり

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

と高く評されています。矢倉澤村は「風土記稿」では椎茸の産地としては挙げられていませんでしたから、「風土記稿」の完成以後に生産を始めたのでしょう。それに対して、「風土記稿」で挙げられた6村の名前は「第1回内国勧業博覧会」の出品者の中に見出すことは出来ませんでした。

一方、明治初期に手掛けられて未完に終わった「皇国地誌」の残稿のうち、愛甲郡田代村の分に「物産」の項があり、そこでは明治9年(1876年)の調査結果が網羅的に記されています。実はこの一連の「皇国地誌残稿」では、少なくとも神奈川県下で残っているものに関する限り、その大半で「物産」の項が空欄になっていたり欠落したりしているため、これまで私が「風土記稿」の産物を検討する際には殆ど参照してきませんでした。空欄化しているのは恐らく、元から物産の項には別途行われた産物調査の統計を転用する予定であったからで、この田代村の稿はそれが実施された時の状態が表されていることになります。実際「風土記稿」で挙げられた椎茸の産地の6村のうち、「皇国地誌」が残っているのは田代村の他には宮ヶ瀬村、煤ヶ谷村、角田村ですが、この3村については後欠などによって「物産」の項が含まれていません。

この田代村の「物産」では、単に農産物だけではなく、草鞋や釘、鍬といった道具類までおよそ村で1年間に生産された全てのものが入っていると見られ、しかもその終わりには

但大抵村内各家の自用に消費す 其内繭絲織物竹木薪炭米穀茶川魚等は武州八王子驛及高座郡上溝村或は東京厚木町等へ輸送す

明治九年一月一(ママ)調

(「神奈川縣皇國地誌殘稿(下巻)神奈川県図書館協会郷土資料編集委員会編 604ページより)

と、村外へと販売されたものだけではなく村内で自家消費するものまで含んだことが付記されています。しかし、その様な一覧であるにも拘らず、この中には「椎茸」を意味するものが含まれていません。この明治9年の調査の質によっては遺漏の可能性もないとは言えませんが、素直に受け取ればこの年の田代村の椎茸の収穫はゼロであったことになります。「愛甲郡田代村地誌御用取調書上帳」の記述と合わせると、あるいはこの村の椎茸生産はあまり継続的なものではなかったということになるのかも知れません。

更に時代を下って、大正14年(1925年)に著された「愛甲郡制誌」(愛甲郡教育会編)では

木炭燒製の外樹皮、柴草、蔓、椎茸、山葵等の產出も相當ある其の產額は別表に示す通である。

(千秋社1987年復刻版 209ページより)

と、椎茸を山野の産品の有望な品目の1つとして挙げています。しかし、その別表である「林野産物 大正十二年現在」では「椎茸(乾燥シタルモノ)」の生産高が「六八斤/二二〇円」と記されています。同じ表では」柴草(生ノモノ)」は「七〇、〇〇〇貫/二、一〇〇円」となっており、柴草の方が生産高が遥かに大きくなっています。

この傾向は「足柄上郡誌」(大正12年・1923年 足柄上郡教育会編)でも同様で、

林產物の主たるものは木炭にして年額二十五萬圓餘に達す、產地としては三保村を第一として寄村、北足柄村、淸水組合之に次ぐ。其の他杉、扁柏松等なり。以上の外食用品としては椎茸山葵の栽培を奨勵しつつありて北足柄村神繩村淸水村寄村方面に栽培せられつつありて、其の成績も亦良好なり。

(名著出版1975年復刻版 356ページより)

とやはり椎茸を奨励しているとしながら、大正10年の統計では「菌類 椎茸 一五七斤 一三二圓」に対して「柴草 一一、二五〇〇(ママ)貫 一、七八六圓」と、椎茸の生産高は柴草に遠く及ばない量に留まっています。

実は神奈川県の林業統計で椎茸の生産量が記録される様になるのは戦後間もなくになってからで、それ以前の椎茸の欄は何れも空白になっていました(「神奈川の林政史」神奈川県農政部林務課編 1984年)。今の椎茸栽培ではホダ木に種菌を植え付けて繁殖させる方法を採りますが、こうした手法が開発され始めるのは明治の末頃から、現在と同じ手法が編み出されたのは昭和18年(1943年)まで時代を下ってからです。つまり、こうした技術開発が進んで各栽培家に普及してくるまでは、椎茸栽培の成果がなかなか上がらなかった訳です。上記の「愛甲郡制誌」や「足柄上郡誌」の統計はそうした状況を示しており、各地で期待はかけられていても、質はさておき量の面では乏しいものだった、と言って良いでしょう。

そうなると、翻って江戸時代の「風土記稿」に記された各村の椎茸生産についても、少なくとも量的にはあまり多くを期待できないものだった、と見る方が良さそうです。ここまで「農業全書」に記された様な江戸時代の椎茸の生産を「半栽培」と書いたのは、当時はまだ椎茸をはじめとするきのこが胞子で増える菌類であることが理解されておらず、飽くまでも椎茸が生えそうな木を伐ってきて湿気に晒す方法しかなかったことを反映する意図でした。この様な技術的な制約がある中では、安定した収量を確保するのはやはり困難であったのでしょう。それであれば、領主が椎茸に対して何らかの貢税を課さなかった理由も説明が付きます。

もっとも、そうした状況にあっても江戸の商人が14両の「山代金」を払ってでも鳥屋村に椎茸の栽培を依頼した事実からは、そこまでしてでも椎茸を確保したかった意図が感じられます。私見ですが、丹沢の山奥に位置する村にこうした依頼が来た理由は、恐らくは江戸からの「近さ」にあるのではないかと考えます。「本草綱目啓蒙」では他にも産地は各国にあるとしながらも、椎茸の名産地として紀州熊野の名を挙げていました。「日本山海名産圖會」では

香蕈(しいたけ) …

日向(ひうが)の産をを上品とす多くハ熊野邊ゟも出せり

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、変体仮名は通常のひらがなに置き換え、ルビは一部を除き省略、…は中略)

と、熊野の他に日向産を良品としています。何れも江戸からは遠く、特にこれらの地域から生椎茸を江戸に届けるには、陸路、海路何れでも日数が掛かり過ぎて相当に難しかったでしょう。

これに対して、丹沢の山中からであれば、荒川番所の通過などにかかる時間を考えても一両日程度で江戸に届けることが可能ですから、そういう地域で少量でも生椎茸が出れば江戸で希少品として商売する機会が望めます。依頼主の「江戸両国和泉町 豊田屋安右衛門」については詳しいことを掴めませんでしたが、恐らくはその可能性に賭けたのではないかと思います。「風土記稿」に記された各村についても状況は似たようなものだったのではないかと思われます。もっとも、約40年後の「風土記稿」には鳥屋村の名前が椎茸の産地としては挙げられなかったところを見ると、その「賭け」の成果もあまり思わしくなく、結局撤退を余儀なくされたのかも知れません。他方、「風土記稿」に青根村の名が載ったということは、そうした中で比較的継続的に椎茸生産が行われていたことになります。

こうなってくると、「風土記稿」が何故こうした品目を相模国の産物の1つとして挙げたのかが疑問として浮かんできます。その裏打ちになりそうなものとして、以前桃を紹介した際に取り上げた、八王子千人同心の塩野所左衛門轍(適斉)が編んだ「津久井県紀行詩集」(天保6年・1835年)を確認してみました。あるいは彼の賛美した光景の中に椎茸生産の様子が入っているかも知れないと推測したためです。その「青根山」の項では

大室(オゝムレ)山頭高萬尋、暮春三月雪猶㴱、西北都留南足柄、更雙州タリ百岑

青根村最是山村也、官山釜立山・神之川・子山矣・高峰ニハ袖平峯・君谷峰・切橋峰・糠又峯・及沢塞山・神之川山・燒山嶽等、総青根山、最タル者謂太室山、南足柄上郡、西神之川、続甲州都留郡道志村、巽鳥屋村、联、北牧野横峯亘峯、実山村

(八王子史談會翻刻版 1928年 39〜40ページより、送り仮名を上付、返り点を下付文字にて表現、強調はブログ主)

と、「木の子山」の名前を挙げていることから、「津久井町史」の指摘するこの山の名称については塩野適斉が伝え聞いていたことは確かです。また、この村が周囲を高い山で囲まれた只中にある様に感銘を受けていることも窺えます。しかし、青根村で産する椎茸についての記述はありませんでした。

八王子千人同心の一行が青根村での椎茸生産について何らかの情報を得たのは、恐らくはこの地に地誌探索で訪れた折である可能性は高そうですが、それを具体的に裏付けることは今のところ出来ていません。ただ、他の郡に先行して完成し、昌平坂学問所に届けられた八王子千人同心の手による津久井県の稿が、その後の昌平坂学問所の地誌編纂に際して多少なりとも影響した可能性は考えられ、青根村以外の5村の椎茸生産についても、津久井県の稿を点検した後に調べ直して追記したのかも知れません。田代村の書上には入っていなかった椎茸生産が「風土記稿」では書き加えられたのも、そんな影響によるものではないかという気がするのです。「風土記稿」に取り上げられた産物の一覧を考える際には、そうした経緯も加味して見る必要があると言えそうです。
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この記事へのコメント

管理人のみ閲覧できます - - 2015年09月09日 17:58:06

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