スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

相模国の香蕈について:「新編相模国風土記稿」から(その1)

「新編相模国風土記稿」に記された産物のシリーズ、またしても前回から少々間が開いてしまいました。今回取り上げるのは「香蕈」、つまり椎茸です。

  • 山川編(卷之三):

    ◯香蕈和名、志比多計、◯足柄上郡中川村及び愛甲郡角田・田代・煤ヶ谷・宮ケ瀨四村津久井縣靑根村等の山より多く產す、

  • 足柄上郡図説(卷之十二 足柄上郡卷之一):

    ◯椎茸中川村の產、

  • 愛甲郡図説(卷之五十四 愛甲郡卷之一):

    ◯香蕈志比多計◯角田・田代・煤ヶ谷・宮ケ瀨等五村の山に產す、

  • 津久井県図説(卷之百十六 津久井縣卷之一):

    ◯香蕈志比多計、靑根村邊の山より多く產す、

(以下、「風土記稿」からの引用は何れも雄山閣版より)


愛甲郡図説では「五村」と書いていますが、実際に挙げられている村の数は4つです。山川編では同じ村が挙げられて「四村」と書いていますから、恐らく愛甲郡図説のこの箇所は誤記でしょう。因みに「国立国会図書館デジタルコレクション」で確認出来る鳥跡蟹行社版の該当箇所でも同じく「五村」と書いていますので、恐らくは原本となった写本にあるものと思われます。それ以外の記述は山川編と各郡図説で一致しています。また、足柄上郡図説では「椎茸」の表記が用いられていますが、それ以外では「香蕈」で揃えられています。


「新編相模国風土記稿」で「香蕈」の産地とされた村々
「香蕈」の産地として挙げられた村々
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
他方、中川村(卷之十六 足柄上郡卷之五、現:足柄上郡山北町中川)、角田村(現:愛甲郡愛川町角田)、田代村(現:同町田代)、煤ヶ谷村(現:愛甲郡清川村煤ケ谷)、宮ヶ瀬村(以上卷之五十八 愛甲郡卷之五、現:同村宮ケ瀬)、そして青根村(卷之百二十 津久井縣卷之五、現:相模原市緑区青根)の各村の記述には「香蕈」については何も記されていません。先日取り上げた「初茸」「松露」では高座郡の3村何れにも記述が見られましたので、この点で事情が異なります。

「香蕈」の産地として挙げられた村は全部で6つと、ここまで取り上げた産物の中でも比較的多い村数にのぼっていますが、足柄上郡、愛甲郡、そして津久井県と比較的広い範囲に渡っているのが特徴です。ただ、この6村を地図上でプロットすると、何れも丹沢山地の中や麓に位置する村々であることがわかります。

今では椎茸は年中見られる日本の代表的なきのこで、市場に出回るのは大半が栽培されたものになっていますが、まずは江戸時代当時の椎茸を巡る事情を確認しておきましょう。江戸時代初期の代表的な農書である「農業全書」には、「(くさびら)(きのこ)」と題した項に次の様に記されています。

くさびら、きのこの類、是おほし。山林幽谷に立ながら枯、又ハたをれたる朽木などに(おのづか)ら生ずる物なり。椎、かしなどに生ずる物人に毒せず。此外の木に(はゆ)るハみだりに食ふべからず。又園に作るハ、(かぢ)〈かうぞ〉の木(おなじく)葉の肥たるを、湿地の風の吹すかさぬ所にうづミをき、常に米泔(しろミづ)(注:米の研ぎ汁のこと)をそゝき、うるほひを絶すべからす。五七日過れバ、(かならず)(くさびら)(はへ)る物なり。又畠のうねの中に、(こゑ)を多くふり、楮木(かうぞ)〈かミのき〉を五七寸に切、うちくだき、菜をうゆるごとくにならべ置て、土をおほひ、水をそゝき、ながくうるほひを絶さゞれば、先初ハ小き菌生じ、漸々に大きなるが生ずる物なり。もと楮木(ちょぼく)〈かミのき〉なれば、毒にならず。又椎の木の、中までハいまだくちず、皮ハありて、大かたくちたるを、日かげの風の吹すかさぬ所に、横にねさせ置、むしろこもをおほひ、上より米泔(しろミづ)(しき)りにかけ、しめり気を絶さずし置バ、椎蕈多く生ずる物なり。他の朽木にも(たけ)ハ生る物なれど、木の性によりて毒なり。五(ぼく)と、椎橿ハ毒なし。桑(ゑんじゆ)(にれ)(かうぞ)五木是なり。此外榎木(ゑのき)に生ずるハ、常に用ゆべし。

○又楮の古かぶに成て、わか立出ぬあり。是を切て肥地に埋ミをけバ、(くさびら)多く生ず。米泔(しろミづ)などかけをくべし。久しき楮畠(かミばたけ)に多きものなり。

(「日本農書全集 第13巻」農山漁村文化協会 349〜351ページより、ルビは一部を除き省略、括弧内注と強調はブログ主)


この項の題が示す様に、ここでは特に最初の方では「きのこ」があまり細かく分類されずに総じて呼ばれていることに気付きます。そして、椎の木を切ってきて土の上に寝かせ、米のとぎ汁を注いで湿り気を逃さない様にしてきのこが生えてくるのを待つという、言わば「半栽培」の方法が記された後になって、はじめて「椎蕈」の名前が出て来ます。

こうした傾向は、「本草綱目啓蒙」の記述にも見られると言えそうです。初茸や松露の記述が「香蕈」の項から独立しない形で記述されていることは前回既に紹介した通りですが、その「香蕈」の記述は次の様になっています。

香蕈

シイタケ

〔一名〕…

柯樹に生する菌なり紀州の熊野名產なり他國にも各名產あり熊野にて取る者(シイノ)樹に拘はらず麫櫧(シラカシ) ハビロガシ ソウノキガシ シデの木等に生するを採る又右件の木を伐り置きほどよく朽たるを秋雨の候槌にて擊つ時は多く生す採て串にさし逺火にて炙り乾す是作りシイタケなり漢名家蕈廣東新語餘木にも生すれとも毒ある木に生するは採らず ブナの木に生する者尤毒あり其菌の形莖旁らより出て飯鍬(しやくし)形の如し方言ヲメキ誤り食へばをめきさけび止ずして死すと云

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、名称以外のカタカナをひらがなに置き換え)


特に後半の記述は椎茸と誤認されそうなきのこの識別について書いていますが、「毒ある木に生するは採らず ブナの木に生する者尤毒あり」といった表現に、それぞれのきのこを別種のものとして考えるよりも、木によってきのこの毒性が変わるという見立てをしていた傾向が窺えます。


本草図譜巻五十六「しいたけ」
「本草図譜」では別途「しいたけ」の図と
解説が掲載されている(右)
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
現在では、菌類としてのきのこを個々の種として分類する方向になっていますから、その点は江戸時代には違う見方をしていたということになるのでしょう。前回の「本草綱目啓蒙」や「本草綱目草稿」に見られた項目の未分化も、こうした傾向から説明が出来そうです。また、「本草図譜」では「香蕈」について

此條ハ一物を指すにあらず総て香氣あるところの菌の総称なり

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

と、「香蕈」が椎茸のみを指すものではないとしており、その中で別途椎茸の図を示しています。この辺りの分け方はまだ流動的であったと言えるかも知れません。

坂本浩然「菌譜」香蕈
坂本浩然「菌譜」より「香蕈」(左)
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
但し、そうした中でもきのこ類を食用とするに当たって毒きのこを回避する必要があったことから、江戸時代にも「菌譜」として多数のきのこを採録した図譜が作成されていたのも事実です。坂本浩然の「菌譜」の序文では、ツキヨタケを食べて斃れた人を看取った際の様子なども書き付けられており、「三百余種」に及ぶ有毒無毒のきのこを分類して世に問う意図を書き記しています。

とは言え、江戸時代初期の農書に既にシイタケの半栽培の方法が記されていることから、椎茸が江戸時代初期から既に食用として広まっていたのは確かな様です。「農業全書」や「本草綱目啓蒙」の書き方からは、樹種によって椎茸を見極めている分には、毒のあるきのこと誤認する可能性が少ないと考えられていた節が窺えます。そうした「安心感」と「半栽培」の手法の普及が、椎茸の食用としての地位向上に一役買ったのでしょう。

「大和本草」では

(タケ) 山中の樹に生す松蕈椎蕈の二物蕈類の上品とすへし乾たるは香多くして彌佳なり蔥蒜の惡臭を去る同く煮て食し或蒜蔥を食して後シイタケを食すれはよく臭を去る◯其莖一方に偏なるは毒あり本草に香蕈と載たり椎蕈も香蕈の類なるへし◯俗說椎蕈と酒と同食すへからす酒と相忌むしはしは其證ありと云

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、名称を除きカタカナをひらがなに置き換え)

と、松茸とともに椎茸をきのこの中でも上品として挙げています。「本草綱目啓蒙」でも触れられていましたが、ここでも乾した椎茸が香りを増すことが記されています。もっとも、この香りについては当時も好みが別れていた様で、「大和本草」はこの香りを良いとしており、「和漢三才図会」でも「晒乾セバ者黑色裏黃味甘香氣最美ナリ」と評しています。これに対して、坂本浩然は「菌譜」で

蕈中の佳品香味両つながら全し自生のものあり人造のものあり大なるものは葢五寸餘黒褐色[衤蕳]及ひ茎白色なり生にて食すれば味ひ勝れり乾くものは味ひ劣れり然れとも常にこれを蓄へて酒殽の一助となすべし又魚毒湯毒を解す

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、カタカナをひらがなに置き換え、字母を拾えなかった文字については[ ]内にその旁を提示、強調はブログ主)

と記しており、乾したものより生を上等と見ていたことを記しています。

その料理方法については、江戸時代初期の「料理物語」で

〔しいたけ〕汁、に物、やきて、なます、さしみ、ほして

(寛文4年・1664年版の翻刻、「雑芸叢書 第一」大正4年・1915年 国書刊行会 編、「国立国会図書館デジタルコレクション」)

と記しています。最後の「ほして」は乾椎茸のことを指すのでしょう。また、同書の「第二十 萬聞書之部」には

〔ほしたるしいたけをなまになす事〕いかにもうらの白きを、さたう水につけ候へば、なまになり申候

(同書、「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

と、乾椎茸の戻し方が記されています。

因みに、椎茸が採れるのは春と秋ですが(現在は栽培方法によってはそれ以外の季節でも出荷が可能になっています)、以前紹介した初物解禁の時期を指定した触書である「魚・鳥・野菜等売出時節定につき触書」(寛保2年・1742年6月付)では、「一 生しい竹 正月節(より)」としていました。確かに御節料理の「陣笠椎茸」で必要となる食材ではありますが、乾椎茸ではなく生の椎茸の初物の解禁が何故正月と定められたのか、腑に落ちないところではあります。

さて、こうした椎茸が相摸国ではどの様な地域に分布していたのかを確認しようと文献を探したのですが、植物類については「神奈川県植物誌 2001」(神奈川県植物誌調査会編 2001年 神奈川県立生命の星・地球博物館刊)の様に、神奈川県内の植生について体系立ててまとめられた書物が存在するのに対して、きのこをはじめとする菌類については植物に比肩する様な分布域についての調査があまり進んでいないのが実情の様です。神奈川県のレッドデータブックでは2006年の版から初めて絶滅危惧種の判定が行われたのですが、その菌類の概説中で「おわりに」と題した文章に

本稿を執筆するに際して、可能な限り客観的な判定をするように努めたかったが、結果的には、その大半において、やむを得ず恣意的な判定をせざるをえなかった。他生物に比較して、菌類は、未だ分類学的研究自体が遅れており、個々の種の生態的特性の把握も、多くが推定段階を越えていないことを痛感させられ、菌類という生物が、そもそもレッドデータの趣旨にそぐわないのではないかと悩まされることも多かった。

(「神奈川県レッドデータ生物調査報告書 2006」2006年 神奈川県立生命の星・地球博物館 150ページより)

等と記されています。このレッドデータブックではシイタケについては特に何も記されていないことから、今のところ神奈川県内の分布が多少なりとも危機的な状況にあるとは認識されていない様です。しかし、それも過去のシイタケの分布実績との比較が行われた上での判定という訳には行かなかったというのが本当のところでしょう。江戸時代当時と比較して分布域が縮小したり個体数が減少したりしているのかどうかは、今のところは良くわからないとしておくのが妥当な様です。

ただ、「平塚市博物館資料46 キノコ類標本目録」(1997年 平塚市博物館)では、シイタケの標本が5例掲載されており、そのうちの4例が神奈川県下で採取されています(7ページ)。もっとも、その採取地はそれぞれ「平塚市土屋」「松田町寄」「真鶴町真鶴」「南足柄市足柄」となっており、「風土記稿」で挙げられた地域とは重なっていません。採集地の傾向からは、神奈川県下では海岸近くの丘陵部でも条件が揃えばシイタケの発生が見られる可能性がありそうで、その点では必ずしも山地に限定された産物という訳ではなかったのかも知れません。

次回はこうした点を踏まえて、江戸時代以降の相摸国の椎茸の生産の実情を見てみます。




スポンサーサイト
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

この記事へのコメント

- 椎たけ夫 - 2015年09月01日 20:09:03

こうした資料がしっかりあるんですね。
江戸時代の半栽培は菌の実態がよくわからなかったためかなり博打要素が高かったらしいですが、
当たれば大儲けとなればやる価値はあったのかもしれませんね。
この時代からツキヨタケとの間違いもあったとは・・・

Re: 椎たけ夫 さま - kanageohis1964 - 2015年09月01日 20:21:54

こんにちは。コメントありがとうございます。

「菌譜」の序文は漢文で読みにくい(私も読み下し文を書ける程の読解力が十分ではなかったりするのですが)ですが、字面を負うだけでもツキヨタケを食べてしまった人の容態がかなり悲惨だったことが窺えますね。ただ、裏を返せば「きのこ食べたや」という願望は当時から強かったのかも知れません。危険な目には遭いたくないが美味なものには巡り会いたいということでしょうね。

椎茸そのものについての史料は何とか集まったのですが、こと相模国内の実情となると…というところで、その辺は次回お見せできればと思います。

トラックバック

URL :

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。