【史料集】「新編相模国風土記稿」大住郡各村の街道の記述(その4)

前回に引き続き、「新編相模国風土記稿」中の大住郡の各村の街道の記述を一覧化しています。今回は、大住郡図説で取り上げられた街道のうちの残りの3本、すなわち5本目の大山道と、波多野道、そして厚木八王子道を取り上げます。

5本目の大山道は、足柄上郡図説中で「六本松通大山道」と呼んでいることから、ここでもそれに従って呼ぶことにしました。「キャーッ!大山街道!!」(中平龍二郎著 2011年 風人社)の概略図でも同じ名称が用いられています。但し、この道は以前湘南軽便鉄道を紹介した際に登場した別の大山道と淘綾郡井ノ口村で合流しており、こちらは「波多野道」とも呼ばれていました。もっとも、各村の記述では出発点としては小田原が意識されることが多く、二宮へと向かうことを意識した呼称は少なくとも「風土記稿」では採録されなかったことがわかります。

この大山道についても、前回の「八王子通り大山道」や「蓑毛通り大山道」と同様に、「迅速測図」などを手掛かりに該当する道筋を探し出しました。寺山から尾根筋を越えて子安〜坂本へと降りる道については、「迅速測図」の道筋と比較的重なる区間の長い山路を現在の地形図上から探し出し、大筋でその線に沿う様に線を引きましたが、一部の道筋は失われているものと思います。

厚木八王子道(平塚道)については既に一度取り上げた際に各村の記述を拾い出しましたので、内容的には重複しますが、今回は他の街道の記述などと共に再掲しました。地図もここまでの記述との関連がわかりやすい様に、交差する街道を重ね合わせてみました。

厄介なのが図説で「波多野道」として紹介されている道で、こちらは高麗寺村で東海道から分岐する道であることが淘綾郡図説に記されています。これを手掛かりに、「迅速測図」や大正10年頃の地形図上で比較的主要な道筋として描かれている道筋を追って線を引いてみましたが、幾つか疑問点が残る結果になりました。

例えば、大住郡図説で「淘綾郡出繩・寺坂二村の堺より」と記す箇所については、「迅速測図」上では該当する道筋を見出だせず、出縄村から直接下吉沢村に入る道筋が太めに描かれていて、こちらが主要な道筋であったことを示しています。

また、下吉沢村から曾屋村に至るまでに「四村を経」としていることや、上吉沢村の記述で「金目道」が記されていることから、図説の記述に該当するのは以下の地図の道であろうと推測したものの、その金目道の通る南金目村の記述にも「波多野道」があり、やはり曾屋へと向かっている道があります。この南金目を通る道では通過する村の数が合わないことから、今回は大住郡図説が指摘する道ではないと判断したのですが、上吉沢から土屋へと向かう道筋では迅速測図の「鷺坂」辺りの道が細く描かれており(大正10年の地形図では主要道として描かれている)、字「台吉沢」からこの「鷺坂」までの道筋が迅速測図と大正10年地形図で少なからず食い違うなど、「迅速測図」の描き方からはこの道筋が本当に江戸時代から受け継いだ往還であるとは確実には言えないのも事実です。従って、現時点では南金目村経由の道が該当する可能性がないと言い切れるか、引き続き検証が必要な段階と思います。

ただ、この道筋であれば、東海道筋から曾屋に向かう際に、上吉沢から土屋にかけて多少丘陵地帯の上り下りがあるものの、その先は秦野盆地に金目川の右岸段丘上を進むことになるので、曾屋に着くまで小規模な沢の横断だけで済む点が利点と言えそうです。

さて、大住郡図説で取り上げられた街道についての記述を拾うだけで随分と回数をかけてしまいましたが、これでようやく、これらの何れにも属さない道筋についての記述を洗い出すことが出来ます。それらをひと通り書き上げた上で、どの道筋のことを指しているのかをこれからまとめることになるのですが、流石に時間が掛かりそうなので、数回別の話題の記事を間に挟むことにします。

六本松通り大山道:大住郡中の各村の位置(北半分)
六本松通り大山道:大住郡中の各村の位置(北半分)(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

六本松通り大山道:大住郡中の各村の位置(南半分)
六本松通り大山道:大住郡中の各村の位置(南半分)(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

高麗寺波多野道:大住郡中の各村の位置
波多野道:大住郡中の各村の位置(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

厚木八王子道:大住郡中の各村と交差する街道の位置
厚木八王子道:大住郡中の各村と交差する街道の位置(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)


街道「風土記稿」の説明
大山道㈤ ※六本松通り大竹村五十三(十二)此村正保後尾尻村より分村せし事、彼村の條に辨ずる如し、故に地境錯雜して分別し難ければ、四隣町數往還の如きは尾尻村條に合載す、合せ見るべし、
尾尻村五十三(十二)隣村大竹はもと當村より分れたる村なり、正保國圖には大竹村を載せず、元祿圖に至て始て兩村を載たれば正保後分村せしなり、されど元文の頃土人は猶一村とし村高も分たず、都て當村の名主の指揮たりしが、四年小田原宿助鄕の事に依て既に分村せし事を知り、官に訴へ村高を分ちて全く二村とす、されば境界錯雜して各村に辨じ難し依て二村を合載す、…小田原道係る幅九尺、

※現在の住居表示上で確認する限り、大筋で足柄上郡井ノ口村から大竹村に入り、尾尻村へと移る筋であった様である。なお、尾尻村の中心地は新住居表示に伴って「大秦町」と町名を変えている。

(上大槻村)四十九(八)波多野道村の中程に係る幅一丈、

※現在の住居表示上で確認する限り、この道は尾尻村と上大槻村の村境を進む区間があった筈だが、上記の「村の中程」という特徴とは合致しない。少なくとも六本松通りの記述ではないと考えられる。

曾屋村五十二(十一)矢倉澤往來村の中程を通ぜり幅二間下同、人馬の繼立をなす千村へ一里八町、善波村へ一里、足柄上郡井ノ口村へ一里足柄下郡前川村へ三里餘、本郡南矢名村へ一里繼送れり、又南方より大山道入る是も繼立をなせり子安村へ二里餘 蓑毛村へ一里、富士道は西方に在、平塚道は村の中程に在矢倉澤道と十字をなす、
◯金目川 中程を流る幅十二間、板橋四を架す共に長四五間、

※4本のうちの1本がこの道のものである可能性が高い。

落合村五十二(十一)小田原道幅九尺、村の中程に在、伊勢原道幅六尺、東界に在、
◯坂 北方にて小田原道にあり、上松坂と唱ふ登二町許、 …◯金目川 西南の村境を流る幅九尺より十二間に至る、長五間、を架す、
(名古木村)五十二(十一)矢倉澤道幅二間、村の南端に係る、大山道幅一間、西境に在り、

※現在の住居表示では、秦野市名古木の西境の辺りを県道70号が通り、曾屋から蓑毛へと向かう主要道となっている。この道筋を六本松通りと判じた書物もあるが、「迅速測図」を見る限り、この位置に該当すると思われる道筋は落合村を経由する道筋よりも細く描かれており、こちらが六本松通りの主要道であったとは判じ難い。但し、「風土記稿」のこの記述から考えると、あるいは名古木村を抜ける道筋が六本松通りの抜け道として機能していた可能性はあるかも知れない。

寺山村五十二(十一)大山道坂本道共に幅九尺、係れり、

※この道の分岐は寺山村域にあるが、坂本道が坂本村へ向かう道を指すことから、大山道は蓑毛に向かう道を指していることになる。

蓑毛村五十二(十一)往還二條あり、一は富士道幅九尺下同じ、一は小田原道と唱へ村内にて合し、大山に通ず、

※実際は寺山から坂本へと向かう尾根道は蓑毛村との境に位置しているが、ここではその点に触れられていない。

上子安村五十(九)上下二村の地域犬牙して、廣袤四隣、小名山川徑路の如きは各村に辨じ難し、故に二村を爰に合載す、…小田原道幅九尺、大山道幅二間、の二條係れり、大山道は人馬の繼立をなす東は伊勢原村、西は大山へ繼送る共に一里、

※寺山村から尾根を越えて坂を下り始めるまでの区間が子安村の域内にあるものの、ここが上下どちらに属していたかは不詳。曾屋村の記述では、子安村に向けての継立が営まれていることが示唆されているが、当の子安村側にはその様な記述がなされていない。

坂本村五十一(十)往還二條あり共に富士道なり、一は小田原道とも呼ぶ、幅六尺、一は日向越とも呼ぶ、

※2本の大山道(富士道)がそれぞれ「小田原道」「日向越」と別称されていたとなると、田村・柏尾方面からの「大山道」はこの中に含まれないことになる。

◯大山川 大山谿間の淸水、及山中瀧水等落合て一流となり、人家の背後を流る石川なり幅四間、橋十一を架す内二は長六間、二は五間、其餘は小橋なり、

※この橋のうちの1つが、この道の渡る橋と考えられる。

波多野道下吉澤村四十九(八)波多野道或は伊勢原道とも唱ふ、幅九尺、中程を貫く、又東方より入、前路に合する一條あり、是も波多野道と呼ぶ、

※淘綾郡図説では国府新宿〜生沢〜寺坂を経由する道筋が「伊勢原道」と称されていること、出縄村からの道筋が「東方より」とする特徴と一致することから、この記述では後者が該当することになる。

上吉澤村四十九(八)巽より乾に通じて、波多野道係れり、幅九尺下同、此道より分るゝ一路は金目道と唱ふ

※金目道は恐らく南金目村方面に出る道筋。南金目村で曾屋へ向かう道筋と落ち合うことが出来るが、この道が「金目道」と呼ばれていることから、波多野道はそれとは別の道筋を指すことになる。

土屋村四十九(八)波多野道幅九尺、梅澤道幅四尺、曾屋道幅六尺、梅澤道の岐路なり、小田原道幅六尺、の四條係る、

※波多野道、曾屋道の何れもこの道筋を指す可能性を含んでいるが、道幅が上吉沢と一致している点を考慮して前者を当該とした。

◯坂三 鷺坂登三町、關口坂登一町下同、長坂と呼ぶ

※鷺坂はこの道の沿道の小名として大正10年の地形図上で確認出来る。

下大槻村四十九(八)往還二條係る、一は小田原道幅九尺、下同、一は波多野道なり、
上大槻村四十九(八)波多野道村の中程に係る幅一丈、
◯小名 △中里
(尾尻村)五十三(十二)

※迅速測図などから推定した道筋では、波多野道が合流するのは尾尻村を通る六本松通り大山道であるが、尾尻村の街道の記述ではこの大山道を指す「小田原道」が挙げられているのみである。

(曾屋村)五十二(十一)

※大住郡図説では「曾屋村に達す」としているが、実際に合流する地点は尾尻村域であり、曾屋村の街道の記述にも該当するものは見当たらない。

厚木八王子道平塚新宿四十八(七)本宿の東に續けり、此地は慶安四年、八幡村を割きて本宿に加へられ、宿驛の事を勤めしめらる貢税等其地に係る事は、おのづから別にして、本宿には與らず、されば當時は八幡新宿或は新宿村と稱す、今の唱へに改めし、年代詳ならず按ずるに、正保國圖に、八幡新宿、寛文五年の水帳、及元祿國圖は、新宿村と載せ、元祿十六年の割付の書に、始て今の唱を記せり、…東海道は東西に通じ、其左右に民戸百十九内二十四戸は本宿に住す、連住す家並長四町五十七間、脇往還二條あり、一は厚木愛甲郡、八王子武州幅一間下同、一は大山、及曾屋村邊への道八幡社大門より入、字比丘尼御林中にて岐路となり、右は大山、左は曾屋道なり、なり、海道中に市立り、歳首に用ゐる諸物を鬻ぐを以て、餝市と稱す、
◯小名 △西町 △東町
八幡村四十三(二)八王子道幅二間、に係れり、
四ノ宮村四十三(二)八王子道係る、幅二間、此道の左右に一里塚、各高四尺五寸、上は中原上宿に塚あり、下は戸田村邊にありしならん、今廢して詳ならず、あり、
田村四十三(二)大山八王子の二道幅各二間、係る、人馬の繼立をなせり、大山道は、東南、高座郡一ノ宮村へ一里、西北、郡内伊勢原村へ二里、八王子道は西南、淘綾郡、大磯宿へ二里九町、北方、愛甲郡、厚木村へ二里を繼送れり、
◯小名 …△上宿 △下宿 △横宿

※3つの「宿」の小名と街道との位置関係は不詳

◯駒返橋 八王子往來中の石橋長六寸二尺、なり、東照宮此邊御放鷹ありしに、通御の路ありしかば、土人疊莚など鋪くを、御覧ありて、民の煩となる事を思召され、此橋より御馬を返させ給ふ、因て名づくと云、又鷹落シ橋と唱ふるあり、是も同じ御代、御鷹翦て、此橋に落しより名づけしと傳ふ、
大神村四十三(二)往還二條係れり、一は八王子道、一は大山道、共に幅二間、
戸田村四十五(四)大山及駿州富士山への道長後通と唱ふ、幅二間、下同、あり、又東海道平塚宿より武州八王子道も係れり、共に人馬の繼立をなす大山道は東高座郡門澤橋村へ十八町、西、下糟屋村へ一里、八王子道は南、田村へ一里、北、愛甲郡厚木村へ一里を繼送れり、
酒井村四十五(四)矢倉澤・平塚の二道係る共幅二間、
上岡田村・下岡田村四十五(四)矢倉澤道幅二間、藤澤道幅九尺、の二條係れり、

※この道筋は厚木八王子道は矢倉沢道と重複しているが、ここでは矢倉澤道の呼称が優先された形。村域の南端で分かれて平塚道はへと向かう。

注:

※何れも雄山閣版より

※巻数中、括弧内は大住郡中の巻数。

※本文中、…は中略。なお、複数の街道について記述している場合、該当する箇所を強調表示とした。

※村の配列は、「大住郡図説」で掲載された各街道の記述の順に合わせた。なお、一部順序については要検証。特に疑問点の大きいものは注を付した。

※街道中の坂、橋、一里塚等の施設は、文中にその名が現れる場合は含めた。明記がないものについても街道に関連すると思われるものは含めたが、遺漏の可能性はなしとはしない。





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