【史料集】「新編相模国風土記稿」大住郡各村の街道の記述(その2)

前回の続きで、大住郡の各村の街道の記述を一覧化しています。

前回も書いた通り、当初は各村の記述を拾いながら各街道に割り振るという作業手順を踏んでいたのですが、これだけ記述が混乱しているとなると、この方法では埒が明かないと判断しました。そこで、代わりに別の資料を元に既に道筋が確定している街道について、通過する村々の記述を拾い、それで該当しなかった記述を後から整理するという手順に切り替えることにしました。

幸い、大山道については次の書籍が仔細な部分まで現地調査されていて信頼性が高いため、こちらを中心に各街道の道取りをチェックして沿道の村々を洗い出すことにしました。

  • 「ホントに歩く大山街道」中平龍二郎著 2007年 風人社
  • 「キャーッ!大山街道!!」中平龍二郎著 2011年 風人社

また、ここまでは一覧化する際にその道の記述ではないものを中略する形に整えてきましたが、方針の変更に伴って一覧が細分化されるため、外の街道の記述についても省略せず、必要に応じて該当箇所を強調する形に改めます。これらの記述の中にも、既に大住郡図説では見られない街道の名前が登場することがわかると思います。

今回は矢倉沢往還と田村通り大山道を取り上げます。田村通りは大住郡図説中で取り上げられた5本の大山道では、最初に挙げられていました。これらの街道筋の村々のチェックに使った地図は以下の通りです。念のため、矢倉沢往還については「ホントに歩く大山街道」で指摘されている旧道や抜け道についても図中に表示し、通過する村域を確認しています。

矢倉沢往還:大住郡中の村々の位置(東半分)
矢倉沢往還:大住郡中の村々の位置(東半分)
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

矢倉沢往還:大住郡中の村々の位置(西半分)
矢倉沢往還:大住郡中の村々の位置(西半分)
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

田村通り大山道:大住郡中の村々の位置(東半分)
田村通り大山道:大住郡中の村々の位置(東半分)
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

田村通り大山道:大住郡中の村々の位置(西半分).
田村通り大山道:大住郡中の村々の位置(西半分)
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)


「風土記稿」の説明
矢倉澤往來上岡田村・下岡田村四十五(四)矢倉澤道幅二間、藤澤道幅九尺、の二條係れり、

※この道筋は厚木八王子道と重複しているが、ここでは矢倉澤道の呼称が優先された形。村域の南端で厚木八王子道から分かれて西へと向かう。

酒井村四十五(四)矢倉澤・平塚の二道係る共幅二間、

※北側で岡田村と隣接しており、矢倉澤道はその境を進んだのち、村域に入る。

※ここで愛甲村を経由するため、一旦愛甲郡域に入った後、再び大住郡に戻る。

石田村四十五(四)脇往來二條係る、一は大山道幅二間、一は平塚宿道幅一丈、なり、
高森村四十四(三)村内に矢倉澤道、幅二間、あり、又藤太道と唱ふる小徑あり、幅八尺、是は村内より分れ、愛甲村界迄の道なり、糟屋藤太有季の開きし道と云有季が事は、上糟屋村に見えたり、

※「ホントに歩く大山街道」では、高森村の域内での矢倉澤道が一度付け替えられていることを示唆しているが、どちらも高森村域内に収まっている。

下糟屋村四十四(三)脇往來四條係れり、大山道幅二間下同、矢倉澤道・伊勢原道・田村道等なり、人馬繼立をなす、矢倉澤道は、北、愛甲郡愛甲村へ一里、南、郡中伊勢原村へ十八町、大山道は、西、上糟屋村へ一里、東、戸田村へ一里を繼送る、

※現在の住居表示と比較する限りでは、咳止め地蔵の辻で大山への道と分岐する所までほぼ下糟屋村域内に収まっている。

粟久保村四十四(三)村内に矢倉澤道・大山道・八王子道の三條係れり、共に幅八尺、

※現在の住居表示と比較する限りでは、国道246号線下糟屋交差点西側でごく僅かな距離下糟屋と粟窪の境を進むのみ。但し、抜け道は粟窪神社(江戸時代には第六天社)の北側で村内を通過している。

田中村四十六(五)往還二條通ず一は矢倉澤道、幅二間 一は日向藥師道、幅八尺、此外村界に大山道二條あれど、當村の地にあらず、
伊勢原村四十六(五)往還四條三條は大山道にて、其一は東海道の内、四ツ谷村より入る、一は大磯平塚邊よりの道、一は下糟屋村より來る、此三路は東南の方にて合し、一條となる、幅三間餘、一は金目觀音道なり、幅一丈、係れり、民戸百六、往還の兩側に連住し、時用の物を鬻ぎ或は旅店をなす、每年大山祭禮の頃は殊に賑へり、當村人馬の繼立をなす乾の方、上子安村へ一里、巽の方田村へ二里、艮の方愛甲郡愛甲村へ一里餘、西の方善波村へ一里繼送る、御鷹匠通行の時は田中・沼目・上下平間・大竹・下糟屋等の村々より人夫を出して是を助く、每月三八の日、市を立立始めし年代詳ならず、諸物を貿易す此時近鄕より穀を商ふ者來りて、定價を商議す、十二月二十三・廿八日の兩日は、往來中に假店を張り、歳首に用ゐる諸品を交易せり市場役錢を地頭に納む、

※継立の記述から見て、三路の大山道のうちの1本が矢倉澤道を指す可能性は高いが、「此三路は東南の方にて合し」は村域の北西を通過する矢倉澤道の特徴と合わない。

板戸村四十六(五)往還三條一は矢倉澤道幅一丈、一は大山道幅二間、此道側に連住する民三十戸許あり、旅店或は諸物を鬻ぎ、伊勢原村市の日は、殊に賑はへり、一は大山道の岐路にして、小田原への道なり、幅一丈、あり、御鷹匠通行には人馬の繼立をなす善波村へ繼送る、粟窪・東西富岡・上糟屋・白根・三之宮・神戸等都て七村より人馬を出す、是を助村と稱す、
白根村五十(九)村の中程を矢倉澤道幅二間、通ず、又西北の村界を通ずる一條は、武州八王子への道なり、幅九尺、
神戸(ごうど)五十(九)往還四條係る大磯道・矢倉澤道・大山道・伊勢原道等なり、各幅二間此所人馬繼立場にはあらざれど、官事には、善波十八町下同、伊勢原・富岡凡一里、等の村々へ繼送る事あり、
◯鈴川 村の中程を流れ、串橋村へ注ぎ、復村内に入れり幅八間、板橋長八間、一を架す、
串橋村五十(九)村北に矢倉澤道幅九尺、係れり、此道に岐路二條あり、一は大山道幅九尺、一は大磯道幅七尺、なり、
坪之内村五十(九)波多野道幅一丈、東西に通ず、此道中程に岐路あり、小田原道なり、
善波村五十(九)往還一條矢倉澤往來、又波多野道とも唱ふ、幅一間半、御鷹御用通行の時人馬繼立をなす、東方伊勢原村、西方曾屋村へ各一里、神戸村へ十八町繼送れり、坪之内・笠窪・串橋三村より人馬を出して是を助く、此繼立は寛政の末、文化の初の頃より勤むと云
◯善波峠 矢倉澤道の係る所にて、一に切通と呼ぶ登廿町許、道幅一間半、此路次所々に老松多くして人の目標に係れり、 ◯坂六 四は善波峠に至る路次にあり、上ノ坂・下ノ坂・石ナ坂・切通坂等の名あり、一は今井坂、一は樋口坂と呼、
名古木村五十二(十一)矢倉澤道幅二間、村の南端に係る、大山道幅一間、西境に在り、
◯山 東北の方に連れり、東の方矢倉往來の係る所を善波峠と呼り、此峠善波村と當村の境なり登三町十二間許、
曾屋村五十二(十一)矢倉澤往來村の中程を通ぜり幅二間下同、人馬の繼立をなす千村へ一里八町、善波村へ一里、足柄上郡井ノ口村へ一里足柄下郡前川村へ三里餘、本郡南矢名村へ一里繼送れり、又南方より大山道入る是も繼立をなせり子安村へ二里餘 蓑毛村へ一里、富士道は西方に在、平塚道は村の中程に在矢倉澤道と十字をなす、
◯金目川 中程を流る幅十二間、板橋四を架す共に長四五間、

※4本のうちの1本が矢倉澤道のものである可能性が高い。

平澤村五十三(十二)大山道幅九尺又富士道とも云、巡檢道幅二間、二條係る、

※2015/08/26追記:一旦「大山道」を矢倉沢往還と指摘したが撤回。天保六年二月の「大住郡渋沢村地誌御調書上帳」(「相模国村明細帳集成 第二巻」所収)で、平沢村から渋沢村を経て千村へ抜ける道を「巡檢道」と呼んでおり、同村で矢倉沢往還の道筋を当時「巡検道」と呼んでいた可能性が高い。恐らく平沢村でも同様であったと考えられる。

澁澤村五十三(十二)往來二條一は小田原道一は道共に幅一丈、係れり、

※明らかに後者の道の名を書き損じているが、「国立国会図書館デジタルコレクション」で確認出来る鳥跡蟹行社版でも状況は変わらない。足柄上郡図説で渋沢村から篠窪村へ抜ける道が「小田原道」と記されているため、恐らくはこの名称を書き損じた方が矢倉澤道を意図しているものと思われる。

()五十三(十二)矢倉澤往來係る幅二間半人馬繼立をなす西、足柄上郡松田惣領、北本郡曾屋村へ繼送る共に一里八町の里程なり、但近隣十三村より人馬を出し是を助く
◯坂 西に在、矢倉澤往來の係る所なり、屈掛坂と唱ふ登八町餘
大山道㈠ ※田村通り田村四十三(二)大山八王子の二道幅各二間、係る、人馬の繼立をなせり、大山道は、東南、高座郡一ノ宮村へ一里、西北、郡内伊勢原村へ二里、八王子道は西南、淘綾郡、大磯宿へ二里九町、北方、愛甲郡、厚木村へ二里を繼送れり、
◯小名 △横内本村の西にありて、二區をなし、宛も別村の如し、 △上宿 △下宿 △横宿

※横内は現在平塚市横内として町名に残っており、田村通りはこの中を抜けていく。3つの「宿」の小名と街道との位置関係は不詳

◯渡船場 相模川にあり、大山道の係る所なり、當村及高座郡一ノ宮・田端三村の持、船四艘を置、往來に便す、渡頭より雨降・二子山等の山々、及富嶽を眺望し、最佳景なり、
大島村四十六(五)大山道幅一丈二尺、村内を通ず、
◯玉川 村東を流る幅八間、土橋を架す高橋と唱ふ長八間、 ◯澁田川 村の中程を流る幅二間、東方にて玉川に合す、
下谷村四十五(四)往還二條一は大山道、幅一丈餘、一は傳馬往來と呼ぶ、幅二間、係れり、

※小鍋島村との境を進む。

小鍋島村四十六(五)大山幅一丈一尺、中原幅九尺下同、平塚等の道、三條係れり、
上平間村四十六(五)往還二條係る一は大山道、幅二間、一は中原道、幅九尺、

※沼目村との境を進む。

沼目村四十六(五)大山道幅二間下同、中原道・日向道大山道の岐路なり、幅九尺、の三條係れり、
大竹村四十六(五)村内に大山道三條一は田村通幅二間、一は大磯平塚邊よりの道幅一丈、下同、一は伊勢原道なり、及小田原道幅二間、等係れり、

※現在は一部が新番地表記に伴って「桜台」と称しており、田村通りはこの中を抜ける。なお、大住郡中に大竹村が2箇所存在するため、明治時代に入って伊勢原側の大竹村は「東大竹村」と称する様になった。

伊勢原村四十六(五)往還四條三條は大山道にて、其一は東海道の内、四ツ谷村より入る、一は大磯平塚邊よりの道、一は下糟屋村より來る、此三路は東南の方にて合し、一條となる、幅三間餘、一は金目觀音道なり、幅一丈、係れり、民戸百六、往還の兩側に連住し、時用の物を鬻ぎ或は旅店をなす、每年大山祭禮の頃は殊に賑へり、當村人馬の繼立をなす乾の方、上子安村へ一里、巽の方田村へ二里、艮の方愛甲郡愛甲村へ一里餘、西の方善波村へ一里繼送る、御鷹匠通行の時は田中・沼目・上下平間・大竹・下糟屋等の村々より人夫を出して是を助く、每月三八の日、市を立立始めし年代詳ならず、諸物を貿易す此時近鄕より穀を商ふ者來りて、定價を商議す、十二月二十三・廿八日の兩日は、往來中に假店を張り、歳首に用ゐる諸品を交易せり市場役錢を地頭に納む、

※田村道と平塚道が村の東南で合流するという特徴は合っている。

板戸村四十六(五)往還三條一は矢倉澤道幅一丈、一は大山道幅二間、此道側に連住する民三十戸許あり、旅店或は諸物を鬻ぎ、伊勢原村市の日は、殊に賑はへり、一は大山道の岐路にして、小田原への道なり、幅一丈、あり、御鷹匠通行には人馬の繼立をなす善波村へ繼送る、粟窪・東西富岡・上糟屋・白根・三之宮・神戸等都て七村より人馬を出す、是を助村と稱す、
田中村四十六(五)往還二條通ず一は矢倉澤道、幅二間 一は日向藥師道、幅八尺、此外村界に大山道二條あれど、當村の地にあらず、

※「当村の地ではない」大山道のうちの1本は西端の田村通りを指すと思われる。現在の住居表示では、該当する道筋の東側は伊勢原市田中。

(下糟屋村)四十四(三)脇往來四條係れり、大山道幅二間下同、矢倉澤道・伊勢原道・田村道等なり、人馬繼立をなす矢倉澤道は、北、愛甲郡愛甲村へ一里、南、郡中伊勢原村へ十八町、大山道は、西、上糟屋村へ一里、東、戸田村へ一里を繼送る、

※ここでの大山道は柏尾通りを指しており、継立もそちらへ向かっている。現在の住居表示や迅速測図などと照らしても、田村通りは下糟屋村域の西側かなり離れた場所を通過しており、飛地の存在も「風土記稿」中で指摘されていないことから、この記述が田村通りを指すものとは考え難い。あるいは別の田村へ向かう道筋を指していた可能性もあるが、不詳。

上糟屋村四十四(三)往還五條を通ず、其二は大山道、一は田村通と唱ふ、幅二間、一は長後通と云、小名石藏にて田村通に合す、幅一丈、一は八王子武州、道、幅一丈、一は荻野愛甲郡、道、幅八尺、下同一は藥師日向村、道と唱ふ、
◯小名 △子易 △石藏伊之久良 △七五三引之女比喜 △峯岸

※現在は「石倉」「〆引」「峰岸」と表記するが、地形図上で田村通り沿いにこの順で北西から南東にかけて並んでいるのが確認出来る。

上子安村五十(九)上下二村の地域犬牙して、廣袤四隣、小名山川徑路の如きは各村に辨じ難し、故に二村を爰に合載す、…小田原道幅九尺、大山道幅二間、の二條係れり、大山道は人馬の繼立をなす東は伊勢原村、西は大山へ繼送る共に一里、
◯小名 △二ッ橋大山の麓、銅鳥居の前に板二枚を架せる橋あり、其邊を唱ふ、按ずるに、…
◯坂二 諏訪坂・這子坂の名あり、共に大山道の係る所なり、
下子安村五十(九)小名山川往還等は皆上村に合載す、民家五十一大山道に住して旅店をなす、當村も大山道の人馬繼立をなす事、上村に同、

※「風土記稿」の記述が上下合わせてのものになっているため、ここでは「風土記稿」中の順序を維持した。位置関係の点でどちらが伊勢原寄りにあるかは不詳。

坂本村五十一(十)土人は大山町と稱し、村名を唱へず、…家數三百十一内大山寺師職の者、百四十九、皆往來の左右に連住す、…往還二條あり共に富士道なり、一は小田原道とも呼ぶ、幅六尺、一は日向越とも呼ぶ、

※2015/08/27追記:一旦「小田原道」を該当の記述としたが、その後「小田原道」が寺山村方面から降りてくる道であることが明らかとなったため撤回。2本の大山道(富士道)がそれぞれ「小田原道」「日向越」と別称されていたとなると、田村・柏尾方面からの「大山道」はこの中に含まれないことになる。

◯大山川 大山谿間の淸水、及山中瀧水等落合て一流となり、人家の背後を流る石川なり幅四間、橋十一を架す内二は長六間、二は五間、其餘は小橋なり、

※この橋のうちの1つが、大山道の渡る橋と考えられる。

(大山)五十一(十)

※大住郡図説では田村通りについて「大山に達す」と記すものの、実質的に坂本村から先は大山の参道と見られ、「田村通り」としての記述は見当たらない。

注:

※何れも雄山閣版より

※巻数中、括弧内は大住郡中の巻数。

※本文中、…は中略。なお、複数の街道について記述している場合、該当する箇所を強調表示とした。

※村の配列は、「大住郡図説」で掲載された各街道の記述の順に合わせた。なお、一部順序については要検証。特に疑問点の大きいものは注を付した。

※街道中の坂、橋、一里塚等の施設は、文中にその名が現れる場合は含めた。明記がないものについても街道に関連すると思われるものは含めたが、遺漏の可能性はなしとはしない。




追記(2015/08/25、26):平沢村の項に修正を加えました。
(2015/08/27):坂本村の項に修正を加えました。

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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

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