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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

高座郡沿岸の初茸と松露について:「新編相模国風土記稿」から

前回からまた少し間が開いてしまいましたが、「新編相模国風土記稿」の産物の一覧から、今回は初茸と松露を取り上げます。

  • 山川編(卷之三):

    ◯靑頭菌和名、波都多介、◯高座郡鵠沼・辻堂・茅ヶ崎三村の邊に多く生ず、又松露も此邊に多し、

  • 高座郡図説(卷之五十九 高座郡卷之一):

    ◯靑頭菌波都多介、鵠沼・辻堂・茅ヶ崎三村の邊に多生す、又松露も此邊に多し、

(以下「風土記稿」からの引用は何れも雄山閣版より)


山川編の記述と高座郡図説の記述は初茸の名が「靑頭菌」と記され、松露については初茸の序でに書き添えられている形になっている点まで共通しています。他方、ここで名の上がった3村の記述も
  • ◯鵠沼村(卷之六十 高座郡卷之二):

    村民農隙には魚獵を專とす船役永錢を納む、此邊松露初茸を產せり、

  • ◯辻堂村(同上):

    此地漁獵の利多し又松露初茸を產す、

  • ◯茅ヶ崎村(同上):

    此邊松露初茸を產し、又魚獵の利多し、

この様に完全に共通化しています。

元より、「風土記稿」では高座郡図説で産物として挙げられている品目が少なく、特に陸上に産するものは他に亀井野村の「柴胡」だけという状態でした。「山川編」では更に数点が書き加えられているとは言うものの、そうした中で高座郡の産物として数え上げられた初茸や松露は、なかなか「貴重な存在」ということになりそうです。

坂本浩然「菌譜」初茸
坂本浩然「菌譜」(天保6年・1835年)より
「初茸」(左ページ)
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
坂本浩然「菌譜」松露
同じく「菌譜」より「松露」(左ページ)
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

初茸にしても松露にしても、松林の中で生えるきのこです。現在のきのこの図鑑では概ね
  • ハツタケ Lactarius hatsudake Tanaka(395ページ)

    傘は径5〜10cm、表面は淡紅褐色、淡黄赤褐色などで、濃色の環紋があり、湿れば多少粘性を帯びる。ひだは淡黄色でワイン紅色を帯び、密。柄は長さ2〜5cm、表面は傘とほぼ同色。子実体は傷つくと暗赤色の乳液がにじみ出て、やがて青緑色のしみに変わる。古くなるとほぼ全体が青緑色となる。夏〜秋、アカマツ・クロマツなどの林内に発生。

  • ショウロ Rhizopogon rubescens (Tul.) Tul.(526ページ)

    ショウロ属。子実体は地中生、卵形〜扁球形、白色で径1.5〜3cm、手でこすると淡赤褐色に変色する。また表面には淡紫赤色根状菌糸束をまとう。地上に露出した部分は黄褐色で皮層の厚さ200μm。グレバは不規則な迷路状小室をなし、初め白色のち黄褐色。腔室内壁に子実層を形成する。担子器は4〜8胞子を座生、胞子は長楕円形である。秋と春の2度、主として海岸や湖畔のクロマツ林内の砂地に発生。

(「山溪カラー名鑑 日本のきのこ 特装版」今関六也・大谷吉雄・本郷次雄編著 1988年 山と溪谷社より)

の様に解説されています。

江戸時代にはきのこの図譜が「菌譜」の名で幾つか作られており、「国立国会図書館デジタルコレクション」で「菌譜」を検索すると、当時の写本が複数種公開されています。上掲の坂本浩然の「菌譜」はそれらの中で比較的絵図の状態が良い点を評価して掲示しましたが、掲載されているきのこの点数も豊富で、かなり体系的にきのこを調べていたことが窺えます。

この「菌譜」にも様々解説が掲示されていますが、ここでは例によって本草学の書物が初茸や松露についてどの様に記しているかを見てみましょう。「大和本草」では

[和品]初タケ 秋山野の松樹ある地に生す味よし脆鬆にして毒なし其うら綠靑の色の如し

[和品]松露 松林の中白沙に生す冬春の間雨後に生す松氣あり味美く性かろし毒なし病人食して無害然生物なれは瀉痢には不可食ほしたるは無害其形圓し大なるは如梅子傘莖なし黃白三種あり皮の中純白にして柔軟なるを上品とす俗に餠松露と云其次は淡白脆鬆なるあり其次は黃黑なり是下品なり一日をへては味をとる新をよしとす歷日易敗れ不可食白き新く大なるをとり洗て沙を去煮てもやきても食す又沙ともに切て爲片と日に干し遠きに寄す味よし鹽に藏るも佳し山に生するは毒あり不可食或曰松露は猪苓茯苓の類也と非なり菌類なり一說に麥蕈とす松露は松林に非れは生せす是與麥蕈不同麥蕈は不生松林且非有松氣者

(どちらも「国立国会図書館デジタルコレクション」より、名称以外のカタカナをひらがなに置き換え、返り点は省略)

どちらも「和品」、つまり日本独自のものと判じている点が特徴です。但し、松露も初茸も実際は日本国外にも分布していることが確認されていますので、この点は必ずしも正しくない様です。

一方、「本草綱目啓蒙」では、松露について次の様に書き記されています。

麥蕈シヤウロ 中山にても松露傳信録と云ふ一名麥丹蕈菌譜地腎広東新語松乳淸俗松菰同上海邉松下砂中に生す故にハマシヤウロと云形圓にして馬勃の如にして涎あり春末より夏に至り盛に生す白色にして柔軟なるを上とす米シヤウロと云又子バリとも云卽モチシヤウロなり乆を經て黑くならず粉となりて飛ぶ乾す者は其肌甚だ密なり一種外黑く内黃なる者を栗シヤウロと云ふ一名麥シヤウロ豫州雲州乆を經れは色黑く堅くなる黑色に變したる者は食ふべからず

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、名称を除きカタカナをひらがなに置き換え、以下も取り扱いは同一)


実際に「国立国会図書館デジタルコレクション」の該当ページを見るとわかりますが、通常は各項目の表題が1文字分上に繰り出された状態で書き始められるのに、この項に関してはその様になっておらず、前項の香蕈(しいたけ)から繋がっている様に書かれています。更に初茸に至っては、玉蕈(白しめじ)(この項も明確に別項として書き始められていませんが)について論じている中途から

紫蕈ムラサキシメジ…シメジの色深紫なる者なり ハツタケに充つるは穏ならず ハツタケは雲南通志の靑頭菌吳蕈譜の青紫なり一名ア井ダケ備前備中ア井ヅル勢州ア井ヅリ江州アヤヅリ同上マツナバ周防マツミミ北國松樹下草中に生す黃赤色にして微紫を帯ぶ手に觸るれば藍色に變ず尾州の産は蓋に青斑あり方言アヲハチ

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、弟子によると思われる書き込みについては省略、…は中略)

この様に続けて記されています。

本草綱目草稿「香蕈」付近
「本草綱目草稿」より「香蕈」等の記述のあるページ
(「国立国会図書館デジタルコレクション」の画像に
矢印・傍線等追記)
「本草綱目啓蒙」は小野蘭山の講義録を弟子がまとめて世に送り出したものですが、その講義の元になったと思われる「本草綱目草稿」でも、初茸や松露の項は香蕈の項から独立していない節が窺え、蘭山自身がその様に講義していたものを弟子が忠実に書き取ったと考えられます。ただ、何故蘭山が初茸や松露をその様な扱いにしたのかはわかりません。「草稿」のこうした書き方からは、きのこの各種に対してまだ十分に分化したものとして捉え切れていなかった様にも見受けられますが、この辺りは蘭山がきのこについて他に書き記したりしたものを更に検討する必要がありそうです。

とは言え、江戸時代には既に初茸や松露が食されていたことは確かです。寛永年間に初めて出版された日本初の料理専門書と言われる「料理物語」でも

〔はつたけ〕汁、に物、やきて…〔せうろ〕汁、さしみ、に物

(寛文4年・1664年版の翻刻、「雑芸叢書 第一」大正4年・1915年 国書刊行会 編、「国立国会図書館デジタルコレクション」より、…は中略)

と、大まかではありますが初茸や松露の調理法が記されています。また、幕末の江戸・京都・大坂の風俗を書き記した喜田川季荘の「守貞漫稿」には、

松茸賣 山樵直に賣之或は八百屋商人も賣之江戸は松茸甲州より出るのみ稀なる故に此商人無之

初茸賣 是は亦山樵及び菜蔬賣能く賣之京坂はつたけ無之江戸のみ賣之京坂の松茸盛にして江戸初茸は小行也

(「類聚近世風俗志 : 原名守貞漫稿」明治41年・1908年 国学院大学出版部、「国立国会図書館デジタルコレクション」より、原著も同コレクションにて公開済み、強調はブログ主)

とあり、初茸が江戸では入手困難な松茸の代わりにもてはやされていたことが窺えます。

では、相模国高座郡の3つの村で採れた初茸や松露は、何処でどの様に消費されていたのでしょうか。「続江戸砂子 温故名跡志」(菊岡沾涼 纂、享保20年・1735年)の卷之一「江府名産」の項には

◯小金初茸 下総國葛飾郡小金の邊所々より出ル…相州藤沢戸塚邊より出る初茸ハ下総よりはやし…

早稲田大学古典籍総合データベース」所収の影印PDFより翻刻、森林総合研究所 九州支所 旧特用林産研究室「ハツタケの話」を翻刻の参考として使用、…は中略

とあることから、どうやら相模国で採れた初茸の多くは江戸へと送られ、「初茸売」の様な街商の手よって売られていたのでしょう。松露についても同様のことが言えるかも知れません。

上記の3村は何れも東海道に接する位置にあり、更に鵠沼村の付近には藤沢宿や江の島の様に参拝客が多く訪れる地がありますので、これらの宿泊地で旅人相手に提供されていてもおかしくなさそうに思えます。しかし、「藤沢市史料集(31)旅人がみた藤沢(1)」(2007年 藤沢市文書館編)にまとめられた90編あまりの道中記・紀行文では、これらの地域で初茸や松露を使ったと思われる料理が提供されたことを示すものは見当たりません。無論、他の道中記や紀行文に記載事例が見つかるかも知れませんが、旅人にこれらのきのこを使った料理を提供することは稀であったのかも知れません。

その様なこともあり、「風土記稿」以外には、鵠沼・辻堂・茅ヶ崎で採れたという初茸や松露について委細を伝える史料がなかなか見つからないのですが、藤沢宿にはかつてこれらを使った銘菓がありました。この銘菓は「三品漬」と呼ばれ、藤沢宿に幕末の嘉永年間に開業した豊島屋本店が製造・販売していたものでした。

何時頃から作られ始めたものか、服部清道氏によると

かつて東海道旅行物語は藤沢名物として三品漬と防風、松露、初茸、甘藷をあげたが、それは明治、大正時代のことである。防風、松露、初茸は鵠沼や辻堂の名産として江戸時代以来ひろく知られていた。わけて松露と初茸とは海岸の砂地に繁茂した墨松林のたまものである。豊島屋の「松露ようかん」はそこに着目した産物であったろうが、いま地産の松露は絶滅してしまった。防風もほとんど見られず、初茸もはえなくなっている。喜多屋の銘菓「砂雅美」は、このように荒廃した湘南海岸の往昔をしのばせるものがある。

三品漬は、その名だけが残って、その実体は伝わっていない。古老の幾人かにたずねたが、明答は返って来なかった。ところが、先人はそれを明瞭に書き残して置いてくれた。

平野孫七郎は享和、天保(一八〇一〜一八四三)のころ、藤沢宿坂戸町の年寄として町政につくしたが、記録の上でも多くの手記を残している。「東坂戸町内記録帳」はその一つであるが、その中に三品漬の一項がある。それによると、三品漬は文政の末(一八二九)ころ、伊勢屋久左衛門が松露、初茸、防風の三品を砂糖漬に仕出して売り出したもので、その当座は殊のほかよく売れたということである。これなどは名物の二重奏として賞賛にあたいする江戸時代藤沢商人の智恵であった。

(「藤沢名物今昔」より、「藤沢風物」No.20(1973.12)藤沢風物社 所収 18ページ下段より)


この記事はかつて刊行されていた藤沢のミニコミ誌に掲載されていたものですが、服部氏は藤沢市の市史編纂と並行して藤沢に伝わる史料の収集と整理を行い、「藤沢市史資料」(全40卷、1957頃〜1990年 藤沢市教育委員会刊)という形で刊行していた人ですから、この「東坂戸町内記録帳」もその一環で見たのでしょう。残念ながらこの史料はまだ翻刻されたものがなく、私も未見ですが、この史料の伝える通りとすれば、「伊勢屋久左衛門」が最初に三品漬を作ってから豊島屋本店が創業するまで約20年経っていますから、その子孫が後に豊島屋本店を興したということになるのでしょうか。何れにせよ、江戸時代後期に始められたものである様です。


この三品漬と思われる品は明治10年(1877年)の「第一回内国勧業博覧会」でも出品されていたことが確認出来ます。「三品漬」という名前ではありませんが、初茸の砂糖漬けと共に松露・防風、そして冬瓜の砂糖漬けを出品した「久保田善助」氏は、当時の豊島屋の主人です。この初茸の砂糖漬けが並んでいるのは素麺や食パンなど加工食品類の部であり、この初茸の砂糖漬けが加工食品として認識されて分類されていることがわかります。


「三品漬」の名前はその後「大日本鉄道地誌」(大河内亀松編 明治43年・1910年 大成社)や「鎌倉・江の島名勝旅行の友」(武藤琴美 大正10年・1921年 旅行之友社)といった明治から大正にかけての旅行案内書に、藤沢の代表的な銘菓の1つとして挙げられているのを確認出来ます。服部氏の挙げる「東海道旅行物語」(村田峰次郎 昭和7年・1932年 博美社)もそうした案内書の1つと言えるでしょう。

更に「藤沢郷土誌」(加藤徳右衛門 昭和8年、復刻版:昭和55年 国書刊行会刊)では、「藤沢の名物」として
藤沢郷土誌「豊島屋本店」広告
「藤沢郷土誌」に出稿された
「豊島屋本店」の広告

◆藤澤名物 三品漬/藤澤東坂戸 豊島屋本店/久保田喜助

(上記書419ページ、一部改行を/にて置き換え)

と紹介され、豊島屋本店については

豊島屋本店

東坂戸に在り、久保田喜助氏の經營たり。同家は藤澤斯界の老舗にして藤澤名物三品漬の創始者たり。また菓子料理の鼻祖たるものたり。

(同書425ページより)

と記されています。更に巻末には右の様な豊島屋本店の出稿した広告も掲載され(広告4ページ)、この頃にはまだ「三品漬」が作られていたことがわかります。なお、豊島屋「本店」と名乗っているのは、暖簾分けして同じ屋号を名乗る菓子店が鎌倉にあるからで、そちらは今では「鳩サブレー」などで有名になっていますね。

鵠沼・辻堂・茅ヶ崎村の位置
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャし、リサイズ
「明治期の低湿地」と「数値地図25000(土地条件)」を合成)


現在の藤沢・豊島屋本店(ストリートビュー
これら3つの村が展開していた地域は、以前も紹介した様に、海岸付近の砂丘が広がる地帯であり、そこで消長を繰り返す松林が初茸や松露の産地でした。更には「三品漬」で使われたもう1つの植物である防風(恐らくハマボウフウのこと)も、そうした砂丘環境を好む生態を持っており、「三品漬」はそうした「白砂青松」の生んだ銘菓ということが出来るでしょう。

しかし、今ではこれらの地域も宅地化が進み、砂丘上の松林が消えたことで、これらのきのこや植物が発生する環境が失われてしまいました。こちらのブログによれば、「三品漬」も戦時中の砂糖の配給化や、初茸の入手が困難になったことなどから作られなくなってしまったとのことです。今でも豊島屋本店では松露を練り込んだ「松露羊羹」の製造を続けていますが、これがかつての白砂青松だった頃の、藤沢から茅ヶ崎にかけての海辺の砂丘の姿の名残ということになりそうです。




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