【史料集】「新編相模国風土記稿」足柄上郡各村の街道の記述

以前、「新編相模国風土記稿」の各郡の街道の記述を一覧表にまとめたことがありました。今回はそれに続いて、各村の街道の記述を一覧にまとめておくことにしました。

「風土記稿」中の順序に従って、今回は足柄上郡をまとめたのですが、いざ拾い上げてみると「足柄上郡図説」の名称とは異なっているものが思いの外多々ありました。名称が異なるものでも各街道の位置関係と照合して分類を進めましたが、特に「小田原道」と記されたもののうち西大井村から鬼柳村の道筋は、図説中のどの道にも該当するものがないらしいことがわかったため、やむを得ず「小田原道」の後ろに収めました。遠藤村の「小田原道」も該当する道が今のところ不明で、この辺は多少記述が混乱していると考えた方が良さそうです。

また、今回は「川村御関所道」としてまとめた「小田原道(奥山家道)」も、駿河への通路という性格よりも南丹沢の村々の間の連絡道としての趣が強そうで、そのことを反映して途中から各村々への分岐の記述が増えてきます。このため、この道筋の序列も必ずしもこの通りとは言えない側面があります。本当はこれらの結果を元に道筋を地図上に描き起こすべきでしょうが、それは後日の課題としたいと思います。

矢倉澤村の記述はかなりの分量が古代の東海道であった頃の史料の引用が占めていますが、一覧に含めるには量が多過ぎるので割愛せざるを得ませんでした。また、街道に関連する橋や坂などは現時点では明記されているもののみ一覧に含めましたが、今後街道に関する施設であることがわかり次第この表に追加していく予定です。



「風土記稿」の説明
甲州道沼田村十八(七)甲州道村東にありて南北に貫く、幅二間、南隣足柄下郡北ノ久保村に達す、
岩原村十八(七)甲州道南北に貫く、幅二間餘、
塚原村十八(七)甲州道南北に貫く、幅二間、當村夫馬の繼立をなせり、北方關本迄三十一町二十間、南方小田原迄二里、
◯一里塚 甲州道の北側にあり、高二尺、南方は足柄下郡多古村、北方は福泉村の里堠につゞけり、塚上に松一株を栽、
◯狩川 南北に貫きて村の中央を流る、幅十八間、…甲州道に板橋を架せり、長十四間、
◯大刀洗川 西南の方、字たゝらど山より出る淸水一條、…甲州道を貫きて狩川に合す、幅四間、
駒形新宿十八(七)甲州道、村の中程南北に貫く、幅二間、
和田河原村十九(八)甲州道幅二間、、村南より西に達す、
弘西寺村枝鄕→下記弘西寺村参照
關本村二十(九)甲州道村の中程を歷て、東西に貫く、幅五間許、甲州の外、駿信二州の往來となり、殊に六七月の頃は、大山より最乗寺に詣で、富士登山の緇素多し、當村人馬の繼立をなせり、西方矢倉澤村へ、一里十八町、東方塚原村迄、二十八町、是は安永五年十一月より定まれり、其先は東方小田原宿まで、二里十八町、西方は駿州駿東郡竹ノ下村まで、四里十六町を繼送りしと云、又松田惣領まで、二里を送る、この道は和田河原村に至て、甲州道より分る、是矢倉澤道なり、

※その他、関本村の由緒に古来東海道の駅郵を勤めたことなど関連する記述多数

雨坪村二十(九)村の北境に、甲州道係れり、幅二間、
◯一里塚 甲州道南側にあり、今は塚の形もなく、榎樹も枯失せて名のみ殘れり、西、矢倉澤村、東、塚原村の里堠に續けり、
福泉村二十(九)甲州道村の南境に係る、幅二間、
弘西寺村二十(九)甲州道係れり、幅二間、本村の南堺及枝鄕の南方を貫けり、

※枝郷の位置は和田河原村と関本村の間に来る。

苅野岩村二十(九)甲州道村の中程を貫く、幅八尺より二間に至る、當村人馬の繼立をなせり、東、關本へ十九町五十二間、西、駿州駿東郡竹下村へ三里半餘繼送る、但三村組合にて每月上十五日は矢倉澤村、中十日は當村、下五日苅野一色村にて繼送る、按ずるに、村内矢倉明神社地の西北に、流鏑馬の馬場と唱へ、兩側に老松列立せし所長一町許、又南方に古松七株並たる小徑、裏大門と云、共に足柄古道の遺蹟にて、往昔矢倉澤町の古道に、續きたる路次と覺ゆ、又村南にも、松並木二所あり、是彼古道の殘れるならん、
苅野一色村二十(九)甲州道村の東西に貫く、幅二間餘、當村人馬の繼立をなせり、西、駿州駿東郡竹ノ下村迄三里十一町、東、關本村迄廿九町許、但當村も三村組合て繼送る事は、前村[苅野岩村]に詳なり、
矢倉澤村二十一(十)東西に亘りて甲州道通ず、幅二間餘、足柄峠を踰て、駿州駿東郡竹ノ下村に達す、此道卽往古の足柄官道なり、今は甲州及び駿信二州への通路となる、當村人馬の繼立をなせり、東方關本村迄一里八町、西方駿州駿東郡竹ノ下村迄二里廿九町を送る、但し苅野一色・苅野岩二村と組合なり、月每に上十五日は當村、下十五日は、十日は苅野岩村、五日苅野一色村、
◯足柄峠 西方足柄山にありて駿州駿東郡に跨れり、彼郡内竹下村まで、二里二十九町二十間の里程なり、登一里二十九町二十間、降一里、幅六七尺、…※以下古事記等古代の史料の引用が長く続く
◯御關所 小名關場にあり、惣構二十間許、領主大久保加賀守忠眞預りて番士を置く、番頭一人、常番二人、先手足輕一人、中間一人、總て五人を置て守らしむ 往来繁き時は番頭一人、先手足輕一人を加ふ、建置の始詳ならざれど、土人の傳によれば、大庭又五郎と云もの、天正小田原落去の後、始て常番人となると云、村内江月院の鬼簿に、又五郎の法名を錄して、慶長十五年八月死すと見ゆ、其子又五郎慶長十九年、小田原御城番近藤石見守秀用の手に屬し、寶曆の頃に至り、子孫大久保氏の藩士となりしとぞ、全く御入國の時、始て置れし所と見ゆ、小名本村西方の山道に、裏番所あり、常番一人を置く、又足輕一人、本番所より兼勤す、
◯足柄古關 足柄峠の頂上より此方に字明神といふ處あり、其邊其舊址ならんと云ど、未慥かなる證を得ず、…※以下将門記等古代〜中世の史料の引用多数
矢倉澤道(篠窪村)十五(四)村南字榎本にて、西方に[小田原道より]岐路を分つ、矢倉澤道なり、幅九尺許、
◯坂(雄山閣版では「板」になっているが誤植)二 …一は西方矢倉澤道にあり、長二町餘幅九尺、長坂と云ふ、

※篠窪村域には「矢倉沢往還」は通っていない。この記述は村域から西隣の神山村へ降り、そこで「矢倉沢往還」の道筋に合流する間道を指しているものと推察され、実際「迅速測図」上でもこの道筋が確認出来る。

神山村十五(四)矢倉澤道、乾方より小名淸水の中程を貫きて、西南に達す、幅二間、…當村人馬の繼立をなせり、坤の方關本村へ二里、乾の方大住郡西田原村へ二里半、
◯河音川 村北より西境を流る、幅五十間より七十間に及ぶ、㵎川なり、里俗是を四十八瀨と呼ぶ、其流矩曲して、川瀨多きが故に此稱あり、平水の時は人馬此河原を通ず、故に彼曲流に數所板を架して往來に便す、
松田惣領十五(四)矢倉澤道東西に貫く、幅七尺、他村にて富士道と唱ふる是なり、當村人馬の繼立をなせり、西は關本村へ二里、東は大住郡千村へ一里十四町、同郡曾屋村へ三里、又東方同郡西田原村へ三里を送る、是は大山往來なり、
◯酒匂川 西南村境にあり、幅百五十間より二百間に至る、…◯川音川 東西に貫き流る、幅六十間より七十間餘に至東境にて、菖蒲川合してより四十八瀨と云、平水の時は、此河原を往來す、神山村の條合せ見るべし、西南の方酒匂川に合す、此所を十文字渡しと云、…土橋七を架せり、各長五間餘、
◯渡船場 十文字渡と云、往古は川音川、酒匂川を衝て奔流し、其勢十字の形を成せしよりかく唱へしと云、今は酒匂川に壓却せられて、纔に丁字をなすのみ、平常土橋三一は長三十間、一は六間半、一は六間、を架して人馬を通ず、洪水の時は渡船あり、此邊頗る勝地なり、南は足柄山・狩野山・平山等近く聳え、富嶽其間に突出し、飛瀑平山瀧、其下に澎湃たり、稍西北は川村岸・皆瀨川・松田諸村の林巒高低環抱せり、其他最乘の深樹、吉田島の村落一瞬して盡すべし、水路の如きは、風雨に變遷して、景狀定まらずと云、
吉田島村十三(二)矢倉澤道東方より西南に係れり、幅九尺許、
◯酒匂川 東北村境を流る、幅百四十間許、
◯渡船場 十文字渡と唱ふ、富士道係れり、平常は土橋三一は長三十間、一は六間半、一は六間、を架して、人馬を通ず、洪水の時は、橋悉く落る故、船にて往來す、其地形勢名義濫觴は、對岸松田惣領の條に辨じたれば、併せ見るべし、
牛島村十九(八)村の中央を貫きて矢倉澤道係れり、幅九尺許、
宮ノ臺村十九(八)村の中程、東西に貫きて、矢倉澤道係れり、幅一丈許、
竹松村十九(八)村内に矢倉澤道係れり、幅二間、
◯洞川 西南二方の村境を流る、幅三間半餘、矢倉澤道の係る所、板橋を架せり、長六間、
和田河原村十九(八)矢倉澤道幅七尺許、村北より西方に達し、甲州道に合す、


村御關所道
弘西寺村
(枝鄕)
二十(九)又谷ヶ村・川村兩御關所道通ず、幅同上[甲州道と同じく二間]、枝鄕の東和田河原村の界にて、甲州道より分る、
怒田(ぬだ)十九(八)東北の方、谷ヶ村・川村兩御關所道係れり、村北にて二條となり、一は西行し、是谷ヶ村御關所道なり、…幅各二間、
◯一里塚 谷村・川村兩御關所道の古道今畑にて字原と云、にあり左右共今崩れて其形を失ひ、榎一樹圍一丈、存す、小田原高札場より三里の塚なりしと云、
内山村二十一(十)東南より北に達して、谷ヶ御關所道係れり、幅九尺許、
平山村二十一(十)東西に亘りて、谷ヶ御關所道係れり、幅八尺許、
谷ヶ村二十一(十)東南より西に亘りて往還あり、幅八尺許、是小田原より村内御關所を歷て、駿州御厨邊に到る裏道なり、西方駿州駿東郡小山村に達す、
◯御關所 東南にあり、構内方十間、o大久保加賀守忠眞預かれり番頭一人、常番二人、輕卒壱人を置て警衛す、
川村御關所道弘西寺村
(枝鄕)
二十(九)又谷ヶ村・川村兩御關所道通ず、幅同上[甲州道と同じく二間]、枝鄕の東和田河原村の界にて、甲州道より分る、
怒田(ぬだ)十九(八)東北の方、谷ヶ村・川村兩御關所道係れり、村北にて二條となり、…一は北行す、是川村御關所道なり、幅各二間、
◯一里塚 谷村・川村兩御關所道の古道今畑にて字原と云、にあり左右共今崩れて其形を失ひ、榎一樹圍一丈、存す、小田原高札場より三里の塚なりしと云、
小市村二十一(十)川村御關所道、西南怒田村境に係れり、
班目(まだらめ)十九(八)南境より西北の方、文明堤を歷て、川村御關所道係れり、
◯酒匂川 西北村境を流る、幅二百廿間許、川村御關所道の係る所、土橋長三十間、を架せり、
川村岸十六(五)村の中程に川村御關所道係れり、幅二間、
川村山北十六(五)東南より西に亘りて、川村御關所道或は奥山家道とも云ふ、係れり、
◯御關所 西方にあり、川村御關所と云、奥山家及び駿州への往來なり、小田原領主の預るところにして、警衛の士番頭一人、定番二人、足輕二人、を置けり、建置の年代詳ならず、
(皆瀨川村)十六(五)村南に川村御關所道係れり、幅六尺、

※現在の山北町皆瀬川の域内に、かつての川村御関所道とされる道筋は掛かっていない。当時は別の道筋であった可能性も否定は出来ないが、その場合は南隣の都夫良野村の記述に「村南」とある点が整合しなくなる。

都夫良野村十六(五)村南に奥山家道係當村にては小田原道と云、れり、幅四尺、
湯觸村十六(五)北境より東境に達して、小田原道係れり、
川西村十六(五)村の東より西方駿州駿東郡生土村に通ず、に達する往還あり、幅五尺許川村御關所道と唱ふ、
仙石原御關所道宮城野村二十一(十)村の西方に一路を通ず、幅五尺許、足柄下郡底倉村より入、小田原より仙石原御關所を歷て、駿州御厨に到る往還なり、此道村南にて岐路を分つ、蘆ノ湯足柄下郡の屬、道と云、幅三尺、西行して足柄下郡底倉村に達す、
◯臼井峠 駿州道にあり、
仙石原村二十一(十)御厨駿州の屬、路村北を通ず、
◯御厨峠 或はうとふ峠と云、登二十一町、駿州駿東郡御厨道にて、同郡深澤村に達す、
◯御關所 東方にあり、𤄃一段一畝二十九歩、小田原領主より番士を置き、非常を警しむ、起立の年代詳ならざれど、元和年中と傳ふ、始は御番所と唱へしが、寛永三年御上洛の時此所駿・甲二州に通ずる間道たる由、縣令八木次郎右衛門重明言上に及びしかば、卽台命ありて、更に嚴を加へ、御關所と定められしと云、
曾我道上大井村十三(二)又東方より此道[小田原道]に合する一徑あり、曾我道なり、幅各九尺、
曾我大澤二十一(十)東南に亘りて往還あり、幅二間、曾我道と云、
上曾我村二十一(十)村西より東南に通ずる一徑あり、曾我道と云、幅二間、足柄下郡曾我岸村に達す、
酒匂道下大井村十三(二)すのこ橋の下にて、東南に通ずる[小田原道からの]岐路あり、酒匂道と云、幅各九尺、[小田原道と]共に足柄下郡西大友村に入
富士道岩原村十八(七)富士道北境にあり足柄下郡小臺村より入字坂下にて甲州道に合す、
六本松通大山道田中村十四(三)東南の方坤方より東に亘りて大山道足柄下郡曾我別所村より入、係れり、幅二間、
◯山 一は南西にあり、六本松山と云、登十二三町許、往昔松樹六株ありし故此名ありと云、今一株を有す、山巓を郡界とす、隣村足柄下郡曾我別所村にて山彦山と云ひ、字して六本松と云是なり、山頂を曾我山峠と唱ふ、登十八町、曾我別所村迄凡て一里餘、故に土俗是を打越一里と云、此山越大山道なり、曾我別所村にて往昔是を中村通と唱ふ、是當鄕に達するが故此名ありと云、今は唱えず、此名目古書に徒々見ゆ、委は彼村の條に注せり、
遠藤村十四(三)西北に小田原道…係れり、幅[大山道共に]各二間

※この小田原道が恐らくは六本松通大山道を指すと思われるが、村域が細かく分散している中で「西北」と判断した根拠は不詳。

久所(ぐぞ)十四(三)西南より東北に亘りて大山道係れり、幅九尺、

※難読度が高いため村名にルビを振ったが、これは現在の読み方。「風土記稿」では「具之與牟良」と読みが記されており、これに従えば「ぐじょ」と読んでいた可能性がある。

藤澤村十四(三)村南より北方に亘りて大山道係れり、幅二間、
井ノ口村十五(四)西方より北に達して、小田原道係れり、大住郡大竹村に達す幅[大山道(波多野道)共]各二間、

※この道は「小田原道」と記されているが、その経路から「六本松通大山道」に続くものであることがわかる。

羽根尾道大山道遠藤村十四(三)東の方南北に亘りて大山道南方足柄下郡小竹村より入、係れり、幅[小田原道共]各二間
北田村十四(三)南方より北に亘りて大山道係れり、幅二間、
◯御塔坂於多布左加 大山道にあり、小坂なり是は傍に古き五輪塔あり、凡三基許、皆頽廃して全からず、何人の墳たるを識らず、土人尊敬して御塔塚と稱す、故に此稱あり、
◯一里塚 大山道にあり、雙堠なり、一は高四尺、一は高一尺五寸、塚上に榎樹あり、
久所村十四(三)又南方より入一條あり、東北に達して前路[六本松通大山道]に合す、
大山道井ノ口村十五(四)又南隣淘綾郡一色村より入道あり、字宮ノ前にて前路[「小田原道」と記す大山道]に合す、幅[「小田原道」と記す大山道共]各二間

※この道は一名「波多野道」とも称されていることが淘綾郡図説に記されている。

小田原道㈠栃窪村十五(四)小田原道村の中程を貫く、幅九尺、東大住郡平澤村より入、西同郡澁澤村に達す、

※この道は篠窪から渋沢を経て北へ向かう道筋からは外れており、枝道と考えられる。但し、平沢村から直接栃窪村へ入る道筋は確認出来ていない。

篠窪村十五(四)北方より南方に亘りて、小田原道係れり、幅二間、大住郡澁澤村より入、
山田村十三(二)小田原道北方より東南に達す、幅二間、
◯坂 西南の方小田原道にあり、赤坂と云、登二町半餘、
(金子村)十三(二)

※同村の「小田原道西南を通ず、」は、その位置関係からは「蓑毛通り大山道」を指すとは思えない。一方、同村の東側、山田村との境をこの道が進んでいたと考えられる。

上大井村十三(二)小田原道、村北より南に達す、…幅各九尺、
下大井村十三(二)小田原道村北より通ず、幅七尺許、[酒匂道と]共に足柄下郡西大友村に入
◯石橋 小田原道用水渠に架せり、長四尺許の小橋なり、すのこ橋と云、傍に石を立て、其名を標し、延亨元年子八月吉日と刻す、名義傳はらず、
*小田原道㈡金子村十三(二)小田原道西南を通ず、
西大井村十三(二)小田原道、南北に亘りて、村の中程を貫く、幅九尺、

※この道は「足柄上郡図説」で「小田原道」として紹介されている道筋とは別の道で、南で鬼柳村へと抜ける道筋と考えられる。

鬼柳村十三(二)村の中程南北に貫きて、小田原道係れり、幅九尺、足柄下郡桑原村に達す、

※この道は「足柄上郡図説」で「小田原道」として紹介されている道筋とは別の道で、北の西大井村から続いているものと思われる。

*奥山家道川西村十六(五)…此道[川村御関所道]より小名大藏野にて、岐路を分つ、奥山家道幅六尺許、と云、
山市場村十六(五)村の中央を貫き、西山家より小田原へ出る道係れり、幅五尺、
神繩村十六(五)新山三ヶ村世附・中川・玄倉より通ずる、小田原道三條係れり、幅各五六尺許、
世附村十六(五)南方に小田原道通ず、幅三尺許、
(中川村)十六(五)

※神縄村の項に、同村から世附・中川・玄倉の3村に向けて道が分岐することが記されているが、世附村以外の項にはこの道に関する記述がない。

(玄倉村)十六(五)

注:

※何れも雄山閣版より

※街道名のリンクは地図へ。

※街道名に「*」を付したものは足柄上郡図説には現れない街道。

※巻数中、括弧内は足柄上郡中の巻数。

※本文中、…は中略。なお、複数の街道について記述している場合、「前道」などの表現で先行する記述を受けた表記になっているケースが多々あるため、その場合は[]内にその道の名称等を補った。殆ど同一の文章になっている場合も、それぞれの街道毎に同一文章を掲げた。

※村の配列は、「足柄上郡図説」で掲載された各街道の記述の順に合わせた。なお、一部順序については要検証。特に疑問点の大きいものは注を付した。

※街道中の坂、橋、一里塚等の施設は、文中にその名が現れる場合は含めた。従って、実際は街道に関連するものであっても明記がないものはここに含まれていない。





追記(2015/09/18):矢倉澤道の各村に、四十八瀬や十文字渡に関する記述を追加しました。また、一覧表のレイアウトに一部手を入れて、他の一覧表と統一しました。
(2015/09/25):川村御関所道の記述を一部修正し、奥山家道に属する村の記述を分離しました。
(2015/10/01):小田原道の一覧を道筋に応じて分割し、遠藤村の記述を六本松大山道に移しました。また、久所村に読みに関する補注を追記しました。
(2015/10/08):各街道の名称にそれぞれの地図へのリンクを埋め込みました。

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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

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