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↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

「武甲相州回歴日誌」の小田原周辺の産物の記述

前回明治8年(1875年)の「武甲相州回歴日誌」に書かれた鎌倉の様子について取り上げました。当初はこの1回に留める予定だったのですが、思い直して今回はこの日誌の小田原周辺の産物について書かれた部分を取り上げ、以前取り上げた一連の産物についての記事の補足としたいと思います。

筆者の織田完之(かんし)が鎌倉を出た後の足取りですが、翌日に江の島に渡ったところで暴風雨に見舞われて1日足止めを食っています。その後藤沢を経て北上し、内陸の中田(現:横浜市泉区中田町他)、深谷(現:横浜市戸塚区深谷町)、座間入谷(現:座間市入谷)、礒部(現:相模原市南区礒部)、下溝(現:相模原市南区下溝)、今泉(現:海老名市上今泉・下今泉)といった地域を経て8月13日に厚木に入っています。そして翌日相模川沿いを田村(現:平塚市田村)、一之宮(現:高座郡寒川町一之宮)、小和田(現:茅ヶ崎市小和田)を経て東海道筋に至り、梅沢に一泊しています。今回取り上げるのはその梅沢からの道筋になります。


今回は関連箇所の引用を先に出したいと思います。少々長くなりますが御了承下さい。

十五日 晴。六時半梅澤ヲ出テ小田原ニ到宿。十一時足柄縣廳ニ出テ横參事城多董ニ面會シ、物產調書ト地圖ヲ借リ、又午後四時城多ノ宅ニ到リ管下ノ景況ヲ聞ク。過日慕雨川漲リ曾比村十六戸流亡ス。管下著名ノ產物ハ前川ノ蜜柑、石橋、江浦モ亦然リ。過日宮内省ヨリ機那樹壹株ヲ拜受シテ八丈島ニ移ス、榮枯如何未詳トナリ。談了テ出、城多土山驛松山左平ガ著書茶説ヲ送ル。本日八時梅澤ヲ發シ前川ヲ過ク。北山ノ山腹向陽ノ處、皆蜜柑樹、雲州、唐蜜柑等ヲ雜栽ス。其大樹ハ三十間四方ニ蔓莚ス。高サハ壹丈强ニシテ一株二十俵ノ柑子ヲ得ル。一株十俵ヲ得ル者ハ枚擧スヘカラス。米八ト者(云脱カ)ハ一戸一年千俵ノ柑子ヲ得ルト。國府津、小八幡、酒匂、網一色、三王原ノ海濱ハ沙土甚多シ。里人云ク、鹽燒竈モ以前ハアリシト聞ク。流亡ノ後ハ之ヲ起ス人ナシト。果シテ信ス、細沙ノ堆積昔日ニ倍スルヲミル、之カ鹽濱ヲ起ス妙ナルヘシ。

十六日 小田原ヨリ石橋、江浦ニ南行シ、村落ヲ間テ歸ル。八時早川ヲ渡ル。草綿ノ畑モアリ。此海濱モ鹽ヲ製スヘキ沙場多シ。竹樹類能繁茂ス。石橋村ニ到ル。前後峩々タル岩石ニテ僅ニ海畔小路ヲ通スルノミ。戸数四十戸每戸柑樹ヲ多ク作ル。皆屋上ノ山腹ニ柑樹ヲ栽ス。二十年ヲ經テ初テ所益アリ。五十年ヲ經レハ倍所得多シ。此地東面海ヲ受ケ西南北皆山、其山地質岩上僅ニ砂壚ヲ生シタルモノカ。埆薄ナルヘケレドモ地中赤埴土ニシテ、大石多キヲ以テ樹根ヲ盤曲シテ長大ニ到ラス。却テ培養ヲ以テ繁殖ノ成功ヲミルカ。肥料ニハ干鰯ノ腐汁ヲ洒キ、又積肥ノ腐草ヲ用ユ。柑樹ニ鍋冠(なへかぶ)□ト唱へ幹葉皆黑煤ノ如キモノヲ生ス。之ヲ除クニハ蕎麥ノ湯ヲ冷マシテ洒ク時ハ能ク此ノ病ヲ去ル。此地暖氣ノ盛ンナルヲ以テ雪ノ積ルナク、柑樹ニ霜除ヲ作ラサル也。柑子ノナル時ハ前川ノ名ヲ借テ仕切ヲナス。前川ノ著明ナルニハ若カス。然レドモ五十年以前ヨリ山上山腹皆遍ク之ヲ栽植スルヲ見レハ、誰功ナルヲ唱ルナシト雖ドモ古人ノ注意感スヘキナリ。樹高サ壹丈ヲ過ルハ稀ナリ。里人石切ヲ業トスルアリ、漁利ヲ營マズ、雇錢ヲ仰クノミ。米神、根府川柑樹少ク江浦ニハ多シ。此六村ハ從來石截ヲ以テ業トシ、根府川ノ石品ハ平坦ニシテ敷石ノ用ニ供ス。奇狀ノ石モ尤多シ、著明ナル所以也。

(「日本庶民生活資料集成 第12巻」1971年 三一書房 330〜331ページより、ルビ・傍注も同書に従う))


8月10日に江の島に完之を足止めした豪雨は訪問先の各地でも死者を出す被害を出したことが、上記の前日までの記述に複数見られますが、足柄県(当時)の管内でも酒匂川沿いの曽比村(現:小田原市曽比)で家屋を16軒流失させる被害をもたらした様です。同日の風水害の記録は東京や静岡にもあり、更に遠州長上郡福島村(現・静岡県浜松市南区福島町)ではイギリス船「ジェームズ・ペイトン号」が座礁する事故を起こしています(リンク先PDF)。日本の近代的な気象観測は同年の6月に正式に始まったばかりですから、その2ヶ月ほど後のこの時点ではまだ気象予報を元に風水害に備える体制はまだ全くなかったことになり、そうした中では台風の被害も大きくなる傾向が避けられなかったということになるでしょう。

もっとも、江の島に足止めされて恐らくは当初の計画よりも旅程が順延されることになった手前、必要最低限の事情を本庁に報告する必要はあったのでしょうが、完之の本来の任務は飽くまでも農業の実情を視察することにあったことから、これらの記述も必要最低限に留めたものと見られます。恐らくは実際の被害はここに記されている以外にもあったと見て良いでしょう。

「武甲相州回歴日誌」小田原付近関連図
「武甲相州回歴日誌」小田原付近関連図
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)
この2日間の記事で大勢を占めているのは、前川を中心とした蜜柑を中心とした記述です。前川では日当たりの良い斜面が一面蜜柑で埋め尽くされ、その中にはかなり大柄に育った樹が多かった様です。同様の風景は翌日石橋や江浦でも見られた一方、その間にある米神や根府川では蜜柑栽培はあまり行われていなかった様です。ただ、これらの地域で作られた蜜柑は全部「前川」の名で流通していたとする点は、当時の市場での知名度を考える上では大事な指摘と思います。

完之はこの地の蜜柑栽培の適性を温暖で雪や霜の心配の少ない土地であることと、更に「(そね)」つまり石の多く混じる土地であることが却って良かったのではないかと判じている様です。

蜜柑の生産量などについては地元の人との面談で聞き出したものでしょうが、中にはかなりの生産量を誇る蜜柑農家が存在していた様です。石橋では肥料に干鰯(ほしか)の腐汁や堆肥を使っていることが記録されていますが、干鰯の方は近隣に漁業を営む家も多いことが影響しているのでしょうか。また、蜜柑に生じる病気として「鍋冠□」(□は判読出来なかったものと思われます)が記録されていますが、「黒煤の如きものを生」ずると書いているところから見ると「黒点病」として一般的に知られているものでしょうか。これにそば湯を冷ましたものが効くと書いているのが目を引きますが、同様の事例があったのかどうかが気になります。

一方、完之は国府津を過ぎた辺りから砂浜の広さに注目し、これを塩田として活用すべきと考えた様です。以前「相模湾の塩田」を取り上げた際に、これらの地域の塩田は宝永噴火の後に廃止されたことを紹介しました。また、同様に宝永噴火後に廃止された小田原の塩田については、塩田が潮を被る様になったためと「新編相模国風土記稿」に記されていることを別の記事で取り上げました。完之と面会していたのは地元の有料者ですから、彼らもこうしたかつての塩田については伝え聞いていたのでしょう。

一方の完之は相模湾の河口に堆積した砂を見て、これを付近の浜に持って行って塩田を開く可能性についてまで書いている程ですので、少なからず塩の生産に興味があったのでしょう。また、完之は最後に簡潔にこの一帯の石材の産出について触れています。もっとも、「植物取調」と書いていた彼の任務から考えると、塩田や石材の話は多少任務の範囲を逸脱している様にも見え、石材の話はその点で簡略に触れて終わっていますが、塩田については他の箇所での記述も多いので、少なからず彼の中で農政と繋がる案件であったのかも知れません。

また、16日には石橋村を経由していますが、ここでは「青芋」については触れられていません。完之は中田や深谷で「青芋」が栽培されていることを記していますから、この視察中で全く注意を払っていなかった訳ではない筈ですが、少なくとも石橋村では青芋を気に留めることはなかった様です。地元の人も「青芋」については完之に伝えなかったのでしょうか。


翌17日と18日は引き続き小田原に留まっており、記述も手短なものになっています。

十七日 晴。小田原滞留。

評云ク、大久保加賀守農政ニ注意シ、山腹ヲ開拓シ小峰卜唱フル處ニ梅樹ヲ多ク栽植シ、今梅干トナシ賣ル、皆人ノ知所ナリ。他國ノ梅トハ酸味少ナシ。是土用中夜陰庭中ニ筵ヲ布キ、押廣ケテ三兩夜ヲ經レハ酸味減スト云ヘリ。

十八日 晴。小田原滞留。

出テ紫蘇畑ヲミル。其畦壹尺程ニテ高二尺許、一齊ニ生長シ莖葉豐肥、紫色朝暉ニ掩映シ酸蘇ヲ吐キ人ヲ健スルニ似タリ。小田原近在西瓜ノ多キ驚クナリ。

(上記同書331ページより)



小田原城西北の「小峰」の地名は
配水池などの施設名称に取り込まれて残っている
(「地理院地図」上で
「火山基本図「箱根山」(陰影段彩)」を表示)
小田原の「梅干」については、以前江戸時代の由緒についてまとめました。明治初期にはこの功績が小田原藩時代の藩主に帰されて理解されていることが窺えます。以前の記事では明治時代以降の歴史については殆ど立ち入りませんでしたが、明治初期には文化文政期に確立された「小田原の梅干」の知名度が引き続き維持されていたと見て良いでしょう。ここで登場する「小峰」は小田原城西北の尾根筋に当たる地名で、ここには堀切の遺構が現在も残っているのですが、この部分の記述が「評云く」と始められていることから、この部分は地元の人の証言を書き写していて、恐らく自身では小峰に訪れてはいないと考えられます。一方、翌日の紫蘇畑は自らの目で見ている訳ですが、小田原の梅干に使用する紫蘇が比較的近傍で栽培されていたことがわかります。

完之は翌19日に箱根に入って山中各所の様子を窺うのですが、これについては他日改めて取り上げたいと思います。




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