「玉匣両温泉路記」より箱根からの帰路(その4)

前回に引き続き、今回も「玉匣両温泉路記」の復路の足取りを追います。今回は、鎌倉の宿を出る所から江戸に帰り着くまでの道筋を見ます。

前の晩に鶴岡八幡宮から帰ったあと、夕月が沈み、雪の下の通りの静まった頃には寝入った様ですが、やはり江の島や鎌倉の寺社を隈なく巡って疲れが溜まっていたのでしょうか。翌5月7日(グレゴリオ暦6月17日)の朝は幾らか寝坊した様です。

夏のよ(夜)のふ(臥)すかとすれば、暁のかねに驚き、起出て朝がれ飯(餉)たべ、案内のをとこをたのみて、「きのふ見残したるかた(たづね)ん」と別をつげて出。

(「江戸温泉紀行」板坂 耀子編 1987年 平凡社東洋文庫472 210ページより、ルビも同書に従う、くの字点はひらがなに展開、以下「玉匣両温泉路記」引用の扱いについても同様)


前日には江の島で案内の人を頼んでいますが、鎌倉では段葛に来たところで「さと人に、光明寺の道きゝてたどり行(203ページ)」と最初に光明寺に行く道を地元の人に訪ねていますから、ここでは案内は頼んでいないのでしょう。それに対して、この日は見残した寺を巡るのに宿で案内を頼んでいますから、この日の訪問先はこの案内を頼まれた人が選んだということになるでしょう。

「玉匣両温泉路気」五月七日の鎌倉での訪問先
五月七日の訪問先。括弧は前を通過したのみ
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

ただ、書き出されている訪問先を見ると、大筋で最初に鎌倉西北の扇ガ谷、源氏山、山ノ内の寺社を巡ってから、再び鶴岡八幡宮の境内を抜けて鎌倉東北の二階堂の寺院を見ていますから、恐らくこの後金沢へ向かうことに配慮して巡る順番を考えているのではないかと思われます。もっとも、前日の記述でも訪れた順番の記述に混乱があったのですが、この日の記述でも例えば次の箇所には細かい順序関係に混乱がある様です。

海蔵寺へ行て、弘法の加持の水、十六の井と云を見るに、これも矢蔵の内に五升入の鍋埋(なべうめ)たるごとく、(よつ)づゝ四ッ並べたる。「浅き溜り水なれども、早魃(かんばつ)のとしにても(つく)ることなし」と云。藤ヶ谷(ふぢがやつ)の網引地蔵の前より五丁程山へのばれば、為相(ためすけ)卿のみ墓あり。この卿は冷泉(れいぜい)為家卿の御子なれば、哥読人(うたよむひと)はたづねをがむと(こそ)きゝしか。み墓のちりもはらひて有。をがみて又来りし坂を下り、山の間の細道をゆけば、長寿山(長寿寺)と額打たる寺あり。尊氏将軍のみ像有といへば、浅茅(あさぢ)の露払つゝ入てぬかづき奉る。この寺久しく僧はすまで、狐狸(こり)などの(すみ)けん、軒端も床も(あれ)にあれて物淋し。寺の裏にこの君のみ墓也と云五輪の塔あれども、都にて世をさり給ひたれば、爰に(ある)べきやうなし。みしるしまでに立たるものか。

新居の間魔堂をみて、円覚寺へ行に…

(「江戸温泉紀行」211〜212ページより)


この順序では、冷泉為相の墓を訪れたあと、山道を抜けて長寿寺へ出たことになっていますが、この区間の道の存在が怪しい上に、その次に出て来る円応寺(新居の閻魔)と円覚寺との位置関係で考えると、この区間を行ったり来たりしたことになります。やはり円応寺を見てから長寿寺へ訪れたと考える方が道順としては自然である様です。

他にも、宝戒寺を訪れた順番も荏柄天神社と大塔宮(鎌倉宮)の間に来ているのは、やはり位置関係の点で少々不自然です。正興は途中「小帒坂(巨福呂坂)」の茶屋で休憩した際に、鎌倉の絵図を買い求めている(214ページ)ので、後で位置関係については確認する手段があった筈ですが…。

他方、宿を出て最初に

辰巳(たつみ)の荒神のみ社をがみ、刀作りて世になりたる正宗の家の()と処を過、亀谷山寿福寺に行て、実朝卿の御廟所(ごべうしょ)の前にぬかづき奉る。

(「江戸温泉紀行」210ページより)

と、巽神社の前を過ぎた辺り、寿福寺の手前に正宗の工房があったとする点については、現在も鎌倉で続いている正宗の店の位置とは順序関係が合わない様に見えるものの、そのホームページには先々代の頃に現在地に移転してきたことが記されています。実際、寛政11年(1799年)2月の「鎌倉惣図江之島金澤遠景」(石渡八十右衛門、「鎌倉市図書館デジタルアーカイブ」へのリンク、リンク先PDF)では、「立山第三/壽福寺」と「辰巳荒神」の間に「マサム子ヤシキ」が記されており、この位置関係が正しいことがわかります。


あるいはもう少し鎌倉に留まって十二社辺りのの寺社まで見て廻るつもりだったのかも知れませんが、大塔宮まで来たところで天気が崩れて雨が降り出したので、鎌倉見物はここで打ち切って金沢への道を急ぎます。

あした(朝)より空くもり、「ふらまし」とおもひしに、北風さと吹て雨ふりきぬ。案内のをとこはこゝより戻し、をしへたる道をいそぎ行に、小川ありて橋をわたせり。道行人(ゆくひと)にとへば、「滑川(なめりがは)なり」と云。青砥(あをと)(藤綱)ぬしのふるごとおもひ出し、このあたり見まほしくおもへども、雨風強ければ、只いそぎに急ぎ行に、朝比奈(あさひな)の切通しにいたる。

切通(きりどほし)は、極楽寺・小袋坂とは違ひ、十町あまり登り、同じほど下る。登り(つめ)たる処にはふせ家あれども、麓の里より昼(ばかり)来り物うる家にて、雨風の強ければとく帰りさりしと見えて人も居ず。休むべきやうなく、杖を(ひき)つゝ、かたみ(互)にものもいはず。

(やうやう)金沢の里近く来り、をりには家もあれども、門の戸さして音もなし。(六浦藩主)米倉殿の御陣屋の前を左にして行。追手は岩山に作り道して、十杖あまりものぼりて門をかまへ、枝しげりたる松生立(おひたち)て、見こみはいとよろし。又五六丁ゆきて帆かげみゆれば、「この里の入海ならん」といよいよいそげば、道の右に海をうしろにして作りたるよき家あり。かごのをとこの来るにとへば、「こなたは千代本、つぎなるは扇屋」と云。「東屋まではいか程あり」といへば、「左の家こそ東屋なれ」と、いひ捨てゆく。

(「江戸温泉紀行」219〜220ページより)


「玉匣両温泉路記」鎌倉→金沢の道筋
鎌倉→金沢の道筋
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

朝比奈切通の頂上付近には茶屋があったものの、昼間だけ麓から人が上がってきて営業している所だった様で、雨で店じまいしていて休憩することも出来なかった様です。お互いに会話もなく金沢まで降りてきて、六浦藩の陣屋の角を左に折れて町屋まで辿り着いても、そこでもどの家も門を閉ざしてしまっていて、通りすがりの駕籠かきに「東屋」の場所を尋ねると「その左の家だ」と言って去ってしまった、という訳です。

Kanazawa8 Hirakata.jpg
歌川広重「金沢八景」より「平潟落雁」
当時の金沢はこうした干潟が多数存在する内海だった
("Kanazawa8 Hirakata" by 歌川広重.
Licensed under パブリック・ドメイン
via ウィキメディア・コモンズ.)
六浦藩の陣屋の辺りは現在は住宅街となってしまい、その一角に米倉家の子孫の方が今でも暮らしているとのことです。図ではポイントがやや北寄りになってしまいまいましたが、ここから六浦道の曲がり角辺りまでが大筋で陣屋の敷地だったと考えて良いでしょう。「東屋」は時代が下って後に明治憲法の起草作業が行われた場所ですが、現在残されている石碑に東屋の位置を「金沢八景駅から100m」と刻まれている点をヒントに、「道の右に海をうしろにして作りたるよき家」という正興の記述を手掛かりにポイントしてみました。現在は金沢付近は大きく埋め立てられて当時とは全く様子が異なりますので、当時の海岸付近の地形のヒントに「明治の低湿地」の地図を重ねてあります。肌色になっている場所は干潟(一部塩田)で、当時は現在の国道16号の脇まで遠浅の海であったことがわかります。東屋はその海を背にして建っていたことになります。

正興が何故「東屋」の名を出したのかはわかりませんが、後で「てうりも江戸にまされるとて、それがためにとひ来る人多しときけば、(221ページ)」と書いているところを見ると、前々から評判を聞き知っていたということでしょうか。ともあれ、この東屋で雨宿りすべく門を叩きます。

雨風()つよく、この家も戸ざして(ある)を、おどろかせば、はしための三たり四人出きたり、

「さぞかしなづみ給ひつらん。雨衣ぬぎ、藁沓とりて上り給へ」

(たち)さわぎ、清らかに作りたるひとまへ案内したり。ぬれたる衣ぬぎ捨、茶たう(食)べたれば、すこしこゝち(心地)は直りたれども、

「このとこやみ(常闇)をば、いかにせん。おのれ、手力(たぢから)を(男)のおほみ神にならひ、岩戸引明(ひきあけ)ん」

とたわぶれつゝ、戸少し明て見れば、弐杖斗はなれて大川ながれ、板橋ふたつわたせり。継橋ともいふべきさま也。橋の下は波高く(ながれ)早し。この流を見て水上を考るに、程ケ谷、戸塚の間を流るべきやうにおもへども、

「さきにかの(うまや)通りたるころ、かほどの大川(あり)とはおもはざりし」といへば、光興ぬしの、「我思ふも同じことなり」とて、通ひに出たるをとめにとへば、

「川にはあらず。橋のこなたも同じ入海にて、今引汐(ひきしほ)なれば、あなたへ流行(ながれゆく)也。あげ汐の時を見給へ、あのごとく、こなたへ流れ来る」と云。

「けふは朝より時こそしらね。何どきならん」といへば、

「まだ(ひつじ)の下り(午後三時)なれども、このさきは山道なれば、かごならでは(こえ)がたし。其かごだに、けふはなければ、早くとも泊り給ひて、雨やまば所の八景見て、明日とく程ケ谷へ越給へ」といふ。

「何さま、(かはき)たる衣又くたし、しらぬ山道、夜をこめてまよひゆかんより、爰に宿からまし」と、こゝろさだめぬ。

(「江戸温泉紀行」220〜221ページより)


この「東屋」に入って茶を啜ったところで多少落ち着いたところで、多少部屋が暗かったので光を入れようと障子を開けてみれば、窓の下に大きな川が流れている様に見え、保土ヶ谷宿を貫流する帷子川や戸塚宿と並行して流れる柏尾川の下流だろうかと考えた訳ですね。しかし、ここまでの道すがら、これほどの大きな川が流れる土地ではなかったことから、その疑問を宿に問いてみたところ、「川ではなく、引き潮の入海です」という答えが返ってきた、という流れです。

これも、前回同様に「潮汐計算」や「潮汐グラフ - 高精度計算サイト」のページで潮位を計算してみました。どちらも「金沢」という項目がなかったので、比較的至近にある「横須賀」や「横須賀長浦」を選択しています。「潮汐計算」のページでは干潮時刻が15時44分、「潮汐グラフ - 高精度計算サイト」では14時07分と、計算結果がやや大きく開きましたが、基本的には干潮という点では一致していると見て良さそうです。勿論、金沢は江戸時代末期以降大きく埋め立てられたり、付近では長浦で運河が開削されるなど、潮位変化に少なからぬ影響を与える地形の改変が数多く行われていますので、計算結果には少なからず影響があると考えるべきでしょう。

時刻を聞かれて「未の下り」という答えが返ってきましたが、当時は不定時法で時刻を見ますので、夏至に近いこの時期は現在の15時よりはもう少し遅い時間を指していたと見るべきでしょう。その時分になってもまだ引潮であったことになります。

まだ日が高いとは言え、雨の中を歩いてきてようやく落ち着いたこともあって、この先能見堂の辺りの山越えを夜通しで進む気にはならなかったのでしょう。この日はこのまま東屋に泊まり、称名寺の鐘を遠くに聞きながら一献を上げています。翌朝は八景を見て廻っていますが、

「案内なり」とて、「こゝにみゆるは何のけしき、かしこは何」とて、八景をしへたれども、月、(かり)、或は雪など、其をりに見るならば、けしきこと(異)ならましを、青葉しげれる時に「雪よし」といふも、ふさはしからぬ心地す。

(「江戸温泉紀行」223ページより)

確かに、夏至の近い頃に「瀬戸秋月」や、まして「内川暮雪」などと言われても、さっぱり風情が違ってしまってピンと来なかったのは仕方のないところかも知れません。

この後早めの昼食を済ませ、金沢から保土ヶ谷への道を経て東海道に復帰し、川崎で一泊して江戸へと帰り着いています。「浦島寺」に立ち寄ったのはこの日の途上でした。

ひと通り「玉匣両温泉路記」の道筋を追ってみましたが、一部には記憶違いかと思われる順序の混乱なども見られ、著者の素性がはっきりしないことも相まって、他の史料と擦り合わせて検討する必要は少なからずあると言えそうです。しかし、沿道の各地域の記述には興味深い点も少なからず含まれており、引き続き当時の地域史料の1つとして読みたい紀行文であると思います。
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