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「玉匣両温泉路記」より箱根からの帰路(その3)

前回に続き、「玉匣両温泉路記」の復路の足取りを追います。今回は原正興一行が江の島へと向かう様子から見ていきます。

旧暦天保10年5月6日(グレゴリオ暦1839年6月16日)のこの記述は、一部を「江島道」を取り上げた際に引用しましたが、その部分も含めて昼食の様子までを改めて引用します。

海辺へ出て、波打際をゆくに、色いろの小貝、砂にまじりて(ある)を拾ひつゝ、五丁程ゆけば江嶋なり。むかしはこの嶋、はなれ嶋なりしとかや。いつのころよりか、みぎり(右)左より砂打あげ、岡となりたれば、今はゆきゝのたよりよし。嶋の入口より家ゐ(たち)つゞき、道はゞはいとせばく、居ながら(むかひ)の家へことばかはす程也。花紅葉(そめ)たるのうれん、軒には家の名しるしたるてうちん掛けつらね、共さま江戸の堺丁などのごとし。左のかたなる恵美須屋と(いふ)高楼にのぼり、昼の飯たうべたるに、広もの・狭もの(魚類)いだす。「この嶋は、うを多く、てうり(調理)もよろし」ときゝしにたがはざれば、酒なくてはことた(足)らぬやうにおぼえて、いださせたれども、め(目)あしければ、ひと銚子(てうし)もつくさゞりけり。

(「江戸温泉紀行」板坂 耀子編 1987年 平凡社東洋文庫472 197ページより、ルビも同書に従う、くの字点はひらがなに展開、以下「玉匣両温泉路記」引用の扱いについても同様)



明治20年測図の江の島付近の地形図にも
江の島に続く砂嘴が描かれている
(「今昔マップ on the web」より)
正興の書き方では当時は終日陸続きであった様にも読めます。江の島と対岸を繋ぐ砂嘴は時期によって消長があり、比較的長時間水面上に出ている時期と、水没している時間の方が長い時期があった様です。「新編相模国風土記稿」は「玉匣両温泉路記」の書かれた天保期に編纂されていますが、ここでも

片瀨村の南にあり、彼村落より島口迄十一丁四十間許退潮の頃は徒行して到る【名所方角抄】にも汐干は徒歩にて通ふなり云々とあり潮盈れば船を用ひ【東国紀行】にも鹽滿つれば渡し舟坊より言付られておりたり云々とあり或は背負て渉れり此間一町餘あり里俗負越場と呼ぶ、

(卷之百六 鎌倉郡卷之三十八)

と記していることから、やはり当時も時間帯によって徒歩で島に渡れる時間帯とそうでない時間帯があった可能性が高いと思われます。しかし何れにせよ、正興らが江の島に到着したこの日の昼時には、ちょうど潮も引いて徒歩で問題なく渡ることが出来た様です。

ここで「恵美須屋(現:恵比寿屋)」に入って昼食を取るのですが、評判に違わぬ料理に、目(というより恐らくは高血圧)に障らない様に気を遣いながらも銚子を付けさせています。

その後、一行は「下之坊」、「上之坊」(と記しているのですが、「下宮」「上宮」のことでしょう)を順に詣で、稚児ヶ淵を経て「奥の院」のある岩屋へと向かいます。

この岩岸を少し廻れば、岩屋の宮居也。われもひともをがむ。宮居の脇より岩穴に入。これを奥の院と云。案内の男、松明(たいまつ)ともして先に立行(たちゆく)。穴のうち、腰かゞめてゆく処もあり、手(のば)して岩に付ほどの処もあり。清水(しみづ)したゝる処多し。板橋渡したる処(ある)は、清水の溜りたる也。火の光りに見れば、岩に彫付たる神のみ像、石にて(つくり)たる仏など、多く有。行留りまで弐丁あまりと云。穴の口へ戻りきたれば夜明のごとし。俎岩(まないたいは)の辺には、くだものなどうる也。又、破籠(わりご)など(もた)せきたりてゑ(酔)ゝうたふもあり。若き海士(あま)の「海に入て(あはび)取来らん」と云。銭出せば、波をかづきて入、たちまちに蚫取来る也。

「水底の岩の間に、蚫を(かご)に入て隠しおき、銭出す多き少きにて取きたる」

とかたる人の(あり)しが、()(ある)べし。又、海士の子の、波をかづき、波にうかみて、銭を乞ふ。其さま、()と云鳥のごとし。

(「江戸温泉紀行」198ページより)


Hiroshige Pilgrimage to the Cave Shrine of Benzaiten.jpg
歌川広重「相州江の島 弁才天開帳詣 本宮岩屋の図」
左下で裸の子供が海に飛び込む様子は
海人の子供の様を描いたものとも取れる
("Hiroshige Pilgrimage to the Cave Shrine of Benzaiten"
by 歌川広重 - here..
Licensed under パブリック・ドメイン
via ウィキメディア・コモンズ.)
ここに来るまでの間にも貝細工などを売る店が幾つかあったことを正興は記しているのですが、稚児ヶ淵付近にも果物を商う人がいたことが記されており、海人の鮑取りの実演には、海中の仕込みで早業に見せかけていたのではないかという説を唱える人がいて、正興もその意見に賛成だった様ですが、真偽の程は定かではありません。何れにせよ、江の島がこうした参拝客相手の稼業で成り立っていたことは確かでしょう。

最後に海人の子供たちが、海に潜ってみせたりして小遣い稼ぎをしていたことが書かれています。以前江の島に向かう道筋でも子供たちが旅人にまとわり付いて小遣いをせびっていた例をいくつか紹介しましたが、この海人の子供たちにもそれらと通底するものがある様です。どのくらいの金額を撒いていたのか、もう少し時代が下った安政5年(1858年)の道中記「江之島鎌倉金沢之旅行日記」では、5人の一行が江島道で撒いた金額を

百文    江之嶋道/子供幷ほどこし/とも

(「相模国紀行文集:神奈川県郷土資料集成 第6集神奈川県図書館協会編 1969年 157ページより、改行を「/」で置き換え)

と記録しています。この時はひとり当たり20文程度を撒いたことになるでしょうか。もう少し他の例を見てみたいところですが、正興らも海に潜ってみせる子供たち相手にその程度の投げ銭を施したのかも知れません。

江の島の他では茅ヶ崎や吉原付近の「宙返り」の例も以前に取り上げましたが、江戸時代にこうした例が他にどの地域に残っているのか、もう少し掘り下げて調べてみたいところです。

稚児ヶ淵の上で少し休んだ所で恵美須屋へと戻り、置いてきた荷物を受け取って江の島を出ます。恵美須屋の主人が「嶋の入口まで送りきぬ。(「江戸温泉紀行」199ページ)」と記しているところから見ると、その時分にもまだ歩いて島を出ることが出来た様です。江の島を出た時刻については記されていませんが、これから説明する通りこの日はこの後日没までに鎌倉の寺社をかなりの数巡っていますから、そのために必要な時間から逆算して、あまり江の島に長い時間留まってはいなかったと考えられます。

試しに1839年6月16日の江の島の潮位変化を、「潮汐計算」のページで計算してみました。これによると、この日は小潮で干潮時刻は14時06分、その時の潮位は33cmと、それほど大きな潮位変化のある日ではなかったものの、確かに昼時には潮が引いていたことがわかります。


江の島付近はその後関東大震災の際に大きく隆起したことが知られている上、現代に入って砂嘴に人工的な改変が加えられるなど、江の島付近の地形が天保の頃とは少なからず変わっているため、具体的に砂嘴が水面上に出ていた時刻を計算することは殆ど不可能に近いと言って良いでしょう。しかし、正興らが正午ごろに江の島に入った時分には既に砂嘴の上を歩くことが出来た訳ですから、その後2時間ほどで干潮のピークが来ているのであれば、確かに復路でも問題なく砂嘴を歩いて島を出ることが出来たと見て良さそうです。



江の島を出た正興一行は続いて腰越の「万(満)福寺」に立ち寄り、義経の腰越状を見ています。万福寺を出た一行は七里ヶ浜を鎌倉へと向かいます。

里はなれより七里が浜也。これは六丁壱里のつもりにて、六七、四十弐丁あり。今の道、壱里六丁也。汀の波の行たる跡をゆけば砂かたく、ふみこむことなし。波をおそれて遠くゆけば、砂乾て藁沓(わらぐつ)の間に入、跡(後)戻りしてあゆみがたし。左は二十杖或は三十杖ほどづゝはなれて芝山也。二十(はた)とせ程前に、この浜通りし人の、「牛にのりて行しが、ゆたかなるもの也」とかたりしこと思ひいだし、里人に「牛はいかに」ととへば、「此ころ()ひとまれなれば、多くはこの浜へもきたらず」と云。汀の茶・くだものうる家にていこふ。こゝを出てゆくに、道の左に枝ふ(古)りたる松ひと木(たて)り。日蓮のけさかけ松と云。こゝよりは、まもなく極楽寺にきたる。寺の門入て見るに、住僧もなく荒たり。観世音の堂前に桜木多し。この寺の前の坂を、極楽寺の切通しと云。越れば稲村が崎也。

(「江戸温泉紀行」200〜201ページより)


以前江島道について取り上げた際にも紀行文・道中記の引用を数点出しました。正興によれば、こうした波打ち際を進むには波が掛かるのを恐れず、砂が湿ったところを歩く方が良いとしています。砂が乾いた所を歩くと足下がしっかりしないために却って歩き難いから、という訳です。こうした知恵は当時の人達に共有されていたということでしょうか。

正興は20年ほど前に、ここを牛に乗って行く人のことを人伝に聞いたことを思い出して、地元の人に「牛はいないのか」と訪ねています。「江戸温泉紀行」の注ではこの部分について、「東海道名所図会」巻六の「七里浜」の項の

此浜砂道にして、歩する事煩し。農家の牛に乗りて往来する旅人もあり

(「江戸温泉紀行」295ページより)

という記述を紹介しています。「東海道名所図会」は寛政9年(1797年)の刊行ですから、「玉匣両温泉路記」よりは40年ほど前の様子を書いていることになります。実際、「東海道名所図会」の編者である斎藤幸雄が同じ寛政9年に記した「江島紀行」にも

それより藤沢のすくにしれる人の此ほどよりまち居けるよしなればいそぎ行に其里に牛翁といへる老人あり 常に牛を愛しつゝみづから行ことあるときは此うしに乗てあゆむにぞ おのづから牛のおきなといへるよし

(「藤沢市史料集(31)旅人がみた藤沢(1)藤沢市文書館編 20ページより)

とあり、江の島や鎌倉ではこの「牛翁」と道中を共にしています。「東海道名所図会」の記述はこの時の経験が元になっている訳です。また、同じ頃に玉川舟調の描いた「新板相州江嶌之図」にも、七里ヶ浜を人を乗せて歩く牛の姿が描かれています。しかし、天保の頃にはこうして牛を飼う人もいなくなってしまった、ということでしょう。

日蓮の袈裟掛けの松を過ぎて、極楽寺を覗いてみたものの、この時には無住の寺になって荒れていたとしています。ここから一行は鎌倉内の寺社を順に巡っていくのですが、この日のうちに巡った寺院や経由した橋などの位置を地図上でプロットしてみました。

「玉匣両温泉路記」5月6日に訪れた鎌倉の寺社
「玉匣両温泉路記」5月6日に訪れた鎌倉の寺社、経由した橋などと共に
「常楽寺(「胡麻粉寺」と記されている)」は前を通ったのみのため、括弧に収めた
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ後、リサイズ)

江の島で奥の院まで往復してから七里ヶ浜を経て鎌倉入りしていますから、極楽寺に着いた時点で既に昼下がりになっていたと思われるにしては、かなりの軒数の寺を精力的に巡ったことが窺えます。流石に鶴岡八幡宮には日が落ちて「大沢屋」という宿にこの日の宿りを求め、入浴と晩餐を済ませた後に出かけているのですが、それ以外の寺院には日没前に訪れています。旧暦では5月が夏至の時期ですから、日が長い分だけ時間に余裕があるとは言え、事前に訪れる腹積もりを決めていなければ、これだけの寺を短時間に廻り切るのはかなり難しそうです。日程に余裕が出来た分、少しでも多くの寺を廻ろうと考えたのか、それとも湯治の出発前から帰路には数多くの寺社を巡ろうと決めていたのかは定かではありません。因みに、この間で駕籠などを利用したことについては記されていません。

鶴岡八幡宮を訪れた正興は、「近きころ火の災ありて、改て公より作り給ひにしことなれば、まばゆきほどにて(206ページ)」と書き記しています。鶴岡八幡宮は文政4年(1821年)正月の雪の下の大火で上宮はじめ多くの建物が焼失し、文政11年(1828年)に幕府の援助を得て再建を果たしています。正興が訪れた時には竣工後10年以上が経過している筈ですが、まだ充分に新しく見えたということでしょう。

次回、金沢を経て江戸へ帰り着くまでの区間を見たいと思います。




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この記事へのコメント

- 白竜雲 (はく りゅう うん) - 2015年06月24日 10:11:00

おはようございます!

>1839年6月16日の江の島の潮位変化を、「潮汐計算」のページで計算してみました。

資料を詳細に 検証されますね!
驚愕です!♪(^^)♪

Re: 白竜雲 (はく りゅう うん) さま - kanageohis1964 - 2015年06月24日 11:55:31

こんにちは。コメントありがとうございます。

この、史料に登場する景観の検証に潮位の計算結果を使う手法は、私は「中世の東海道をゆく―京から鎌倉へ、旅路の風景」 (榎原 雅治著 中公新書)で見て覚えました。今はこうした計算もネット上で比較的手軽に出来ますから、海沿いの景観を書いたものを読む際に活用できると思います。あまり細かい精度は、本文でも書いた通り地形の改変などの影響がありますので期待すべきではありませんが。

なお、この手法は次回もう1度使う予定です。

- はしかわ - 2015年06月24日 20:33:12

こんばんは、
江ノ島から鎌倉へ抜けるルートは、当時の観光黄金ルートであったと何処かで見ましたが、いつも深く掘りさげて調べられているのに感心しています。

Re: はしかわ さま - kanageohis1964 - 2015年06月24日 20:45:23

こんにちは。コメントありがとうございます。

仰るとおり、この区間を書いた紀行文・道中記や、錦絵などが多数残っていることから見ても、江戸時代の鎌倉や江の島の人気ぶりが現れていますね。こうした記録に登場する産物や風習などを集めてみることで、当時の周辺の様子が多少なりともわかってくるのではないかと思います。多少なりともその一端が紹介できればと思います。

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