「玉匣両温泉路記」より箱根からの帰路(その2)

前回に引き続き、今回も「玉匣両温泉路記」から帰路の足取りを追います。

駒留橋を過ぎた原正興一行は、程なく小田原宿に入ります。

山坂下り終れば、程なく小田原の里也。ひとつの番所を入ば、両側皆、足軽などゝ見えて、(かしら)(おの)が名を札に書て出したる家あまたあり。引つゞきて町家なり。この里も、軒端ごとにかや(茅)さして、菖蒲はなし。(のぼり)かざりたる家もあり。外郎(ういらう)うる家は、この町にては目立てみゆれば、用にはなけれども、立よりてもとめぬ。宮の下よりこの里まで、僅に三里半の道なれども、心の駒のゆくにまかすれば、道はかゆかず、はや(うま)のとき(十二時)に近し。「物く(食)わするよき家もがな」と尋るに、いづこもいづこも出来合たるはなし。せんかたなく、尾張屋とかしるしたる家に入て、(あはび)に(煮)させ、飯くひたり。あるじに、

「この里は海辺なれば、狭もの・広もの(魚類)多かるべしとおもひしに、いかなれば少き」ととへば、

「この浦は網引ても、よきいを(魚)はとれず。ことうら(異浦)より廻り来るうをなれば、をりによりてはなし。されば、ひとのあざけりて、精進うらと云也。けふは節句の祝ひ日なるに、わきて、よきうをすくなく、まゐ(進)らする物なし」といふ。

(「江戸温泉紀行」板坂 耀子編 1987年 平凡社東洋文庫472 193〜194ページより、ルビも同書に従う、くの字点はひらがなに展開、以下「玉匣両温泉路記」引用の扱いについても同様)


東海道名所図会「小田原外郎透頂香」
「東海道名所図会」(龝里籬嶌 編・寛政9年)より
「小田原外郎透頂香」図
独特の屋根の形はここでは小さ目に描かれている
正興はこの屋根が街中で際立っていることを
記している
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
小田原の街に入って、端午の節句の飾りとして菖蒲ではなく「茅」が軒先に差してあったとしています。調べた限りでは西日本にこの様な風習があるという記事を見つけることが出来ました(リンク先PDF)が、同種の風習が小田原をはじめとする相模国域にあったかどうかについては、今のところ、これに類する風習の記録を見つけることが出来ずにいます。この点についてはもう少し調べてみる必要があると考えています。「幟」というのはやはり「鯉のぼり」だったのでしょうか。

外郎の店に立ち寄ったところで昼時となったのは、宮の下からの道程を考えると随分と時間をかけて降りてきたと言って良いでしょう。小田原の様な宿場町を抱える大きな城下町なら、昼餉(ひるげ)の場は容易に見つけられるだろうと正興一行は踏んでいたでしょうが、思いの外適当な店が見つからずに難儀した様です。仕方なく入った「尾張屋」という店で料理させたのがアワビというのが、今では高級品と看做されることが多いこの食材に対する見方の違いがあるのかも知れません。店の主が「この浦では網を引いても良い魚が穫れない」と言っている部分については、後日「風土記稿」の記す海産物を検討する際に改めて取り上げる予定ですが、字義通りに受け取って良いかはもう少し慎重に見る必要があると思います。

「端午の節句なので取り分け良い魚が廻って来なかった」という店の主の説明は、当日が休漁気味だったからなのでしょうか。温泉場を引き上げるのを早めた結果は、ここまではあまり良い方向に出なかった様です。

昼食後、酒匂川を渡り、東海道を東へと進みます。大磯に近付いた辺りで、周囲が祭礼で賑わう様子を書き記しています。

この辺、門の幟はれやかにかざる。又きのふけふは、六所の祭とて、多く幟たて、唐人のねりなど出す所もあり。

大磯を過て、平塚の駅にきたるは(さる)の時(午後四時)なれども、足つかれたれば、山本と(いふ)脇本陣にやどりさだめぬ。都の加茂のみあれのくらべ馬にならひけん、この里の祭も、馬(のる)ことを、はれとする也。其さまは、乗掛馬(のりかけうま)のごとく、色いろの布団(ふとん)つみ重ね、のるもあり。肌背(はだせ)馬にのりて、はしらするもあり。この里人にゆかりある近き里びとは、馬引て来ることを、其家のほまれとするとて、冨たる家などへは、二十(ぴき)も引つどへば、馬いと多し。又遊まれびと女の、常は格子戸(かうしど)の内に並び居て稀人(まれびと)(客)をまてども、きのふけふは、七八人、或は十人ばかりづゝ打つどひて、大路をたわぶれあるくにぞ、夜ふくるまで賑ふ。宿にも、旅人の外に稀人ありて、かしがましく、()・うし(深夜十二時・午前二時)のかねもきゝたり。

(「江戸温泉紀行」195ページより)


東海道と国府祭関連社・神揃山の位置関係
東海道と国府祭関連社・神揃山の位置関係
(「地理院地図」)上で作図したものをスクリーンキャプチャ

拝殿
大磯町・六所神社拝殿
("Rokusho jinja Haiden"
by ChiefHira - 投稿者自身による作品.
Licensed under CC 表示-継承 3.0
via ウィキメディア・コモンズ.)
正興が「六所の祭」と記す「国府祭(こうのまち)」は、現在では新暦の5月5日に催されていますが、これは相模国内の一宮(寒川神社、高座郡)、二宮(川勾神社、淘綾郡)、三宮(比々多神社、大住郡)、四宮(前鳥神社、大住郡)、そして五宮格の平塚八幡宮(大住郡)と総社である六所宮(淘綾郡)が「神揃山(かみそろいやま)」に会して行う祭です。「神揃山」については以前大磯の「化粧坂」を取り上げた際にも出て来ました。

上の地図に示した通り、梅沢から平塚にかけては、これらのうち総社と二宮、五宮格、そして神揃山が東海道に比較的近い場所に位置しています。また、四宮も神揃山への往復の途上では東海道を経由していた可能性が高そうですし、上の地図では位置を示すことが出来ませんでしたが、四宮の北東に位置する一宮も大磯の辺りでは東海道を経ることになりそうです。つまり、神揃山の北方に位置する三宮以外は多かれ少なかれ東海道を練り歩くことになったのではないかと思われ、この日の東海道周辺が「国府祭」一色になるのも当然のことではあったでしょう。正興の一行は結果的にその只中を歩いてくることになった訳です。

現在の「国府祭」では馬が神事に引き入れられてくる局面はなくなった様ですが、正興の記すところでは当時はかなりの頭数の馬が、鞍や布団を乗せられて参加していた様です。富のある家は馬を多数参加させていると書いていますから、恐らくは大磯宿や平塚宿の本陣家などがその様な役回りになったのでしょう。また、これらの馬がともに東海道を往来することになれば、道幅5間を誇る東海道といえどもこの日は相当な交通量になったのでしょう。箱根から降りてきたとは言えそれ程の距離を歩いた訳ではない正興の一行が、足が疲れたからとまだ日の高いうちに平塚で宿ることにしたのは、あるいはその混雑を避けながら長距離を歩くことになったことも影響したのかも知れません。もっとも、宿場は遊女を連れ込む客で深夜遅くまで祭の余韻が消えなくなっていた様で、正興らも脇本陣をこの日の宿に定めたのはそうした喧騒をある程度念頭に追いたからなのかも知れませんが、それでも深夜なかなか寝付けなくなったのは想定外だったでしょう。

とは言え、江戸時代の「国府祭」の様子を記した文章自体があまり多いとは言えませんから、その点でもこの「玉匣両温泉路記」の記述は貴重です。特に端午の節句の当日にここを通り掛かった江戸時代の道中記・紀行文の類という点では、他になかなか例がなさそうです。



「玉匣両温泉路記」車田→江の島の足取り
車田→江の島の足取り
境川の流路は江戸時代とは異なっているため
「石上の渡し」の位置は旧流路上に記した
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
翌朝、夜明けとともに平塚宿を出て馬入川を渡り、車田から江島道へと逸れていきます。その先で石上の渡しを越えたところで駒立山の鉄砲場について触れている箇所については、以前江島道について紹介した際に「玉匣両温泉路記」を引用しましたが、改めてその箇所を引用します。

片瀬川の上、石亀の(わたし)は、両岸に小舟をつなぎて、舟より舟ヘ板をわたしたるもの也。これをわたりて少しゆけば、駒立山と云。麓に茶うる家あり。立よりて休む。この山は、頼朝公の駒とめ給ひし処なりと云。今、鉄炮丁打(てつはうちゃううち)(射撃練習)の場所也。山の上より片瀬川越え、江嶋のこなたの浜へさげ(うち)にする也。十八丁の見わたしと云。此外、江嶋より南に丁打の場あり。辻堂の浜と云。辻堂村と云ある故に、浜をも(いふ)(こそ)あらめ。おのれも、大筒(おほづつ)丁打の場所は鎌倉とのみ思ひ居たりしに、今きけば鎌倉にはあらず、高座郡(たかくらこほり)のうち也。

(「江戸温泉紀行」196ページより)

途中馬入の渡しがありますので多少余分に時間が掛かっているとはしても、平塚宿から駒立山の麓まで約4里ほどの道程ですから、夏至の近い頃であればまだ朝のうちに茶屋に着いたことになるでしょう。この付近の鉄砲稽古場の当時の実情については、原正興の知識は必ずしも正確ではなかった様ですが、それでも何かしらの情報を持ってはいた様です。彼がどの様な立場でこの様な知識を有していたのかについては、残念ながら原正興について委細が知られていない現状では不明と言わざるを得ません。


「玉匣両温泉路記」からは更に、西行の戻り松洲鼻の江の島に向かう道についての記述を引用しました。江の島へ渡る前に龍口寺にも立ち寄っているのですが、

片瀬村竜口(りゆうこう)寺、寂光山と云。(あれ)たる寺也。日蓮、竜口(たつのくち)にて切られんとして、ゆ(許)りたり。これを竜口の御難と云て、其宗旨のもの、九月十二日に多くきたると也。日蓮を入おきたる牢の跡と云所あり。七面堂は寺より三十杖ほど上の山なり。見はらしよろし。このあたり、てうり(調理)するよき家も見ゆ。

(「江戸温泉紀行」196〜197ページより)

正興が「荒れた寺」と表現しているのは、この時期は参拝者があまり多くはなかったということになるでしょうか。とは言え七面堂の辺りからの眺望が良かったことについては、以前引用した「江ノ島参詣之記書写」でも江の島はもとより大山・箱根・富士・伊豆の山々や大島までの眺望が利くことを書いていました。正興らもそこまで登ってみた様です。

彼らが江の島に着くまでの道筋は基本的に当時の一般的なもので、恐らくは正興らもこの辺りでは基本的に出発前に立ち寄る場所をある程度決めていたでしょう。龍口寺の門前にも料理屋が色々とあった様ですが、彼らはそこではなく、江の島に渡ってこの日の昼食を取っています。その箇所から先は次回改めて取り上げたいと思います。




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