「慊堂日暦」より南湖や梅沢の記述をめぐって

先日、原正興「玉匣両温泉路記」中に見える、箱根の温泉宿から外輪山を越えて大雄山最乗寺へと往復した際の道筋について触れた際に、同じ道筋を辿ったと思われる他の例の1つとして、松崎慊堂(こうどう)の「慊堂日暦(にちれき)」を引用しました。この「日暦」中で箱根を経由したり宿泊したりした際の記録に目を通していて、幾つか興味を引く記述が見つかったので、メモ代わりにここに書き出しておきます。

A portrait of Matsuzaki Kohdoh 松崎慊堂像.jpg
渡辺崋山による松崎慊堂像
("A portrait of
Matsuzaki Kohdoh 松崎慊堂像
"
by 渡辺崋山
- 図録「渡辺崋山・
椿椿山が描く人物画」
田原市博物館 2005.
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パブリック・ドメイン
via ウィキメディア・コモンズ.)
松崎慊堂は江戸時代後期の漢学者です。東洋文庫版の「慊堂日暦」(平凡社、全6巻、以下「慊堂日暦」引用は全て東洋文庫版より)で訳注を担当した山田琢氏による「解説」(第1巻335〜341ページ)に従えば、慊堂は肥後熊本の生まれで、11歳の頃から同地の真宗寺の小僧に出されたものの、13歳の時に出奔して江戸へ上り、浅草の称念寺の世話で昌平黌に入塾しました。享和2年(1802年)、慊堂32歳の時に掛川藩の藩校の教授に招かれ、藩政の諮問にも応じるなどの活動によって藩主の覚えも厚かった様です。文化12年(1815年)に家督を子孫に譲って隠居するのですが、「慊堂日暦」はその隠居後、現在残っているところでは文政6年(1823)4月頃から慊堂が没する天保15年(1844年)3月までの「日記」です。

「日記」と言っても実際は慊堂の日々の生活上の記録よりも、彼が見聞きしたものの「備忘録」といった性格が強く、例えば文政9年(1826年)9月19日の記述の中には

柿漆(かきしぶ)は蛇毒を治す。桂山、親験す。

雄黄(いおう)を付け、百虫(ぜき)を治す。門蔵、口授す。

(東洋文庫版第2巻 1972年 27ページより)

と、柿渋硫黄の効能についての記述が見えます。恐らくは「桂山」や「門蔵」といった人物から伝え聞いたものをメモしたのでしょう。この時は掛川へ向かう旅の途上で、他にも薬の処方に関する書き込みが多数見られるのは、一行が東海道を西に進む途上の会話で話題になったのでしょうか。

また、同年10月6日の項には単に「◯シイボルト」とだけ記されています。シーボルトがオランダ商館長の江戸参府に同伴したのが同年1月から6月にかけてで、江戸には3月から4月にかけて滞在していましたから、恐らくその間のシーボルトについての評判が数ヶ月遅れで慊堂の耳にも入ったのでしょう。ただ、具体的にどの様なことが話題になったのか、その一切がここには記されていないので、現在となってはシーボルトの往復した日程と照らして推測する以上のことは出来ません。

この様な性格の「日暦」に見られる幾つかの旅の記録では、一般的な道中記や紀行文とは異なり、記述が大変に簡略であるのが特徴となっています。元より他人に読ませる目的で記したものではないため、判じるのが困難な記載も少なくありませんが、それでも簡潔に記された中に興味深い記録が幾つか紛れているのも事実です。

もっとも、今回は「「湯治の道」関係資料調査報告書」(箱根町立郷土資料館編 1997年、以下「報告書」)中で取り上げられた、箱根に滞在したり通過したりした際の記録を中心に確認をしているため、「慊堂日暦」全体に比べるとまだごく一部のみを読んだに過ぎない点は御了承下さい。今後更に読み進めて、他に同種の道行の記録がないか探してみる予定です。

この「報告書」では次の6回を道行を挙げています(同書69〜72ページ)。

  1. 文政7年(1824年)6月21日〜8月9日:「游豆日記〔伊豆遊記〕」
  2. 文政9年(1826年)9月5日〜10月6日:掛川への往復
  3. 天保2年(1831年)5月8日〜22日:箱根湯治
  4. 天保4年(1833年)6月2日〜18日:再び箱根
  5. 天保5年(1834年)3月20日〜4月7日:箱根で主君を待つ
  6. 天保10年(1839年)8月28日〜9月13日:最後の箱根

このうち、初回の文政7年の往路では江戸・金杉から船を使って伊豆半島へと向かっているために東海道を経ていません。復路では東海道を進んでいますが、その間の記述は次の様になっています。

七日 玉沢廟に謁す。夜、湯本に宿す(福住九蔵)。

八日 川を渉り、渓流に沿い、三枚橋に()ず。歩々雲根(うんこん)を踏み、頭々雲葉(うんよう)を生ず。酒川は(ちょう)を報じ、伊泉の舟を覆す。駄行して梅沢に憩う。

昨、湯本に於て数人に遇う。一人は下垂木の少年(多吉、年十九)、一色村(吉名の東)成道寺善応和尚の弟子。山師(年十八)を添え、まさに往きて下総米本長福寺主真牛和尚に参ぜんとす。一人は相良の人治兵衛、同宿す。明日、伊泉渡に於て遇い、終にともに行きて藤沢駅西の伊豆屋に宿す。この日は天晴れ、騎行は熱からぎるも、歩行は頗る苦しく、汗流れて背に(あまね)し。

九日 晴、熱。歩いて戸塚駅に至り、山中を騎行す。処々に(むしろ)を張り日を覆い、茶をすすむる女の粉黛緑白(ふんたいりょくはく)は、風気の化を観るべし。一走して金川(かながわ)港にいたり、すさみや長右衛門に宿す。飲薦(いんせん)はほぼ美(この間、ならぶところの台店に頼れり)。

騎行して生麦を過ぐ。本年は梨□極めて佳。大森□に憩い小飲し、泥鰌(どじょう)(あつもの)を食す。油を沸して泥鰌を殺し、須臾(しゅゆ)にして即熟し、豆豉(みそ)を下す。味は久しく煮るものに(まさ)る。昏暮に山荘に帰る。諸子と小酌し、枕に就く。

(第1巻 1970年 139ページより、ルビも同書に従う、…は中略、強調はブログ主、以下同様)


箱根の湯本から三枚橋に出る辺りで「雲根」(雲の生じる場所の意で、高山などの比喩に使う言葉)と書いているのは、この辺りの標高がさほどでないことを考えると些か誇張した表現の様にも思えますが、相当に霧が深かったということでしょうか。湯本で一緒になった若者数人との帰路になった様ですが、暑い最中を汗だくになりながらの帰路になったのは、まだ残暑の続く折だったということになるでしょうか。梅沢で小休止し、藤沢と神奈川で宿泊したことが記されていますが、神奈川が「港」と記されているのは往路では舟で寄港したことが念頭にあったのでしょう。生麦では梨の出来の良さを記していますが、あるいはここでも一休みして梨を口にしたのかも知れません。大森の茶屋で食べたという泥鰌の羹について作り方が記されているのも興味深い点です。


この時には梅沢では小休止した以上の記録がなく、また次の文政9年の際の往復ではこうした立場の茶屋に休んだことについての記録がほとんど見えません。これに対し、その次の天保2年5月の箱根行きでは、この梅沢での宿泊を巡って次の様に記されています。

十日 晴、早冷。境木站を過ぎて行けば、地を焼餅坂と曰う。…藤沢駅(藤屋)にて午飯し、南湖站に憩う。南湖は蓋し南郷の訛なり。この站と海との間には、随所に汙池多し。平塚駅より騎行し、まさに梅沢站に宿せんとせしに、站は近歳逆旅(げきりょ)の事を以ての故に、大磯駅と争訟し、宿すべからず。遂に行きて国府津(梅屋)に宿す。この日、午暑。

(第3巻 1973年 164ページより)


大磯〜小田原間茶屋・渡し場図
大磯〜小田原間の茶屋・渡し場の位置関係
青線は江戸時代の東海道
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
梅沢で宿泊する腹積もりであったところが、大磯宿からの訴えによって梅沢で宿泊することが出来なくなっており、已む無く国府津まで進んで宿泊した、としています。この梅沢と大磯の間の宿泊を巡る争いについては以前まとめた通りですが、慊堂の場合は梅沢で宿泊できなくなった代替地が小田原ではなく国府津という点が興味深いところです。既に梅沢まで来ていて宿泊できないからといって、おめおめ大磯まで2里もの距離を戻る訳にも行かなかったのでしょう。既に国府津が梅沢の代替として使われていたことがわかります。

更にその次の天保4年6月の往路では、

三日 早に発す。朝霞は四散し、或いは雨兆ならんかと疑う。境木にいたれば、津和奈の東覲にて、輿馬は絡駅如(らくえきじょ)たり、十余万石侯なり。戸塚駅にいたり朝飧を食す。游行寺に入り、出でて橋南の青柳店にて小飲す。藤沢にて竹輿に乗り、南郷にて小飯す。輿夫継ぎ大磯にいたる、輿夫の勇吉は(たけ)六尺、郷藩の陸尺(りくしゃく)の亡命してここに在る者(竹田の産)なり。また継いで梅沢にいたる。夜、小八幡の農家(権次郎)に宿す。箱嶺の烟雲は騰々たり、枕上に雨を聴く。

(第3巻 331ページより)


梅沢まで駕籠に乗ったと記しているところから見ると、この時も改めて宿泊できるかどうかを確認しているのかも知れません。まだ諍いのほとぼりが覚めないと見るや、今度は更に歩を進めて小八幡で農家に泊めてもらったとしています。国府津では宿の空きが見つからなかったのでしょうか。早めに大磯で宿を探さなかったのは、朝方の雨の予感があったために酒匂川の渡しが渡れなくならないうちに先を急ぎたかったのかも知れません。

ところで、藤沢と平塚の間の南湖については「南郷の訛りだろう」としてしばしば「南郷」の表記を使っていますが、慊堂はここを良く使っていた様です。その南湖について、天保5年4月の復路に大変興味深い記録を残しています。

六日 大晴。駕に従って発して酒匂川(さかわがわ)にいたれば、天はすでに明けたり。酒匂川の水夫は二人にて一人を渡す。深き時の渉銭は六十二文、浅き時は四十六文。大磯駅にて憩い、石窓と歩行して南湖店にて華臍魚(あんこう)を食す、なお佳し。戸塚駅の伊勢屋にて食す。夜、君は宴を賜い、城竪(じょうじゅ)の宗甫・善甫・春斎、今一人はその名を忘れたり、及び轍外これに(あずか)る。別に金三方を賜う。

(第4巻 1978年 88ページより)


Fujisawa on the Tokaido LACMA 16.14.12.jpg
歌川広重「五十三次名所図会」より
「藤沢」に描かれた南湖の左富士
南湖の茶屋はこの手前に位置していた
("Fujisawa on the Tokaido LACMA 16.14.12"
by Utagawa Hiroshige (Japan, Edo, 1797-1858)
- Image: LACMA Gallery:
http://collections.lacma.org/node/189374.
Licensed under
パブリック・ドメイン
via Wikimedia Commons.)
鮟鱇と言えば当時は梅沢の茶屋の名物でしたが、以前この鮟鱇について紹介した際には、南湖ではおはぎを「あんこう」と称して供していたことを書き添えました。何かと南湖が梅沢にあやかろうとしていたことが窺える旨書き添えましたが、慊堂によればその南湖で鮟鱇を食べたとしています。

既に4月(因みにここまでの日付は全て旧暦です)のことですから、鮟鱇の水揚げがそろそろ止まる時期で、春先で味が落ちるとされている鮟鱇を、それでも梅沢の鮟鱇の名声にあやかるべく供していたことになるのでしょうか。慊堂もこの時期が鮟鱇の味が落ちる時期であることを知ってか知らずか、「なお佳し」と高く評価しています。梅沢が何月頃まで鮟鱇を供していたかは不明ですが、こうした記録を踏まえ、同様の記録が他にないか、更に探してみる必要がありそうです。また、大磯で昼食を食べ、戸塚で夕餉と宴になっていますから、南湖の鮟鱇はそれほど多量に食べたとは思えず、どの様に料理されて出て来たのかも気になります。

因みに、天保10年8月の往路では

二十九日 晴朗。午、南郷店にて鯉膾(こいなます)(一朱)を食す。勉強して行き、昏後に小田原小清水に宿す。夜雨。

(第5巻 1980年 298ページより)

と、南湖では鯉膾を食べています。流石に8月では鮟鱇が出る季節ではなく、夏場ということもあって涼し気な洗いにしたのでしょう。もっとも、この年の箱根の湯治では早々に体調を崩してしまっています。鯉膾を食べてから多少時間が空いているので、これが中ったためではないとは思うのですが…。

「慊堂日暦」については、他に興味深い記述が見つかったら改めて取り上げたいと思います。




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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

この記事へのコメント

- たんめん老人 - 2015年06月01日 21:13:58

いつも興味深い記事を有難うございます。松崎慊堂は鴎外の「安井夫人」のなかに名前が出てきたと記憶しています。また森銑三のエッセーでも松崎に触れたものがあったように思いますが、あまりはっきりしません。どうもたよりない知識ですが、お役に立てばということで一報まで。

Re: たんめん老人 さま - kanageohis1964 - 2015年06月01日 21:28:05

こんにちは。コメントありがとうございます。

森鷗外の作品はかなりの程度「青空文庫」に収められていますので、戴いた情報を元に「安井夫人」を検索してみました。次の箇所に出て来ますね。

「その後仲平は二十六で江戸に出て、古賀侗庵の門下に籍をおいて、昌平黌に入った。後世の註疏によらずに、ただちに経義を窮めようとする仲平がためには、古賀より松崎慊堂の方が懐かしかったが、昌平黌に入るには林か古賀かの門に入らなくてはならなかったのである。」

少なくとも鷗外が、松崎慊堂の昌平黌時代の経歴を意識していたのは確かでしょうね。

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