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2種類の蘿蔔について:「新編相模国風土記稿」から(その2)

本草図譜巻46「萊菔」
「本草図譜」より「萊菔」の図
この後複数の品種の図が複数描かれている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)


秦野市西田原の位置
東隣の東田原に飛地が多数存在する


大珠山香雲寺の位置
秦野盆地北辺の山裾に当たる
前回に引き続き、「新編相模国風土記稿」に記された2種類の「蘿蔔」について見ていきます。今回は「波多野大根」について、その記録を探ってみます。

前回掲載した「風土記稿」大住郡の図説では「西田原村香雲寺藏、天文中の文書に、當所萊菔の事見えたり、」と記しており、「山川編」の記述でもこの件に触れています。西田原村(現:秦野市西田原)の記述では産物についての記述は見えませんが、同地の香雲寺の項に「天文中の文書」が掲載されています。

◯香雲寺 大珠山春窓院と號す、曹洞宗 下總國葛飾郡國府臺總寧寺末、…又大藤小太郎某、當寺修理の事を沙汰せし文書あり曰、先日之御返札、披見申候、宗樹長老、豆州御越之由承候、本寺を御取立候得者、一段目出度候、貴老先々其元に御座候得者、心易存候、然者先日之金子にて、早々破損之所計建立可被成候、總而葺直之事は、秋中に可被成候、先日に□□□御指金子あり次第に、今來月之中に、御普請可被成候、其内又便も候はゞ可申入候家數多御座候間、大方に被入御念に者、罷成間敷候、人足の義は、何も用次第、かし可申也、申越候間十ヶ市へ仰可被越候、便も候者、又普請樣子能々可承候、又爰元珍敷候、大根給候、賞翫申候、恐々二月十六日、太小太貞□華押、猶以此者に委敷申越候能々御念被入、御普請可被成候、大方に被成候而者、罷成間敷、我等も夏中罷下申候、さきへ飛脚可申候孫市内藏助所より珍敷大根給候、辱候由賴入候、以上、

(卷之五十二 大住郡卷之十一より、…は中略、強調はブログ主)


天文年間(1532〜1555年)としか記されていないものの、香雲寺の再興は永禄7年(1564年)のこととされていますから、この文書はそれよりも前、従って再興される前の荒れた寺の修理の相談をしていることになります。その文中で、当地の珍しい大根を賞味あれと言っている訳です。この頃は恐らくまだ栽培を行っていなかったのでしょう。

実際、「和漢三才図会」の「相摸國土產」の項に「大根(ダイコン) 秦野自然生」と記しており、正徳2年(1712年)に同書が成立する頃にはまだこの大根が自生種と認識されていたことが窺えます。また、同書の「蘿蔔」の項では

攝州天滿前相州波多野共細長者二尺許周(ハカリ)一寸半而本末(ヒトシク)(ヒモニ)糟糖香物宮前者脆/波多野硬

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、小字中の改行は/に置き換え)

と、「波多野大根」を「宮前大根」と並べて紹介しています。形状はほぼ同一で細長く、白い紐になぞらえている訳ですね。どちらも糟漬にして香物にするとしていますが、「宮前大根」の方が柔らかかった様です。因みに、この摂州天満宮の「宮前大根」が現在「守口大根」と呼ばれているものに当たります。

本草図譜巻46「はだのだいこん」
「本草図譜」より「はだのだいこん」の図
「宮の前だいこん」など数種の名前が併記されている
産地に何故か「相州鎌倉」と記されている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
「波多野大根」については他に「本朝食鑑」にも「和漢三才図会」とほぼ同等の記述が見え、更には「本草図譜」でも右の様に、細長い大根の図の脇に「宮の前だいこん」など数種の名前とともに「はだのだいこん」の名が記されています。産地の表記が何故か「相州鎌倉」とされる点は疑問点ではあるものの、恐らく「波多野大根」の姿を図に描いたものとしては数少ない一例ということになると思います。こうして見ると、「波多野大根」は江戸時代中期には比較的知名度があった大根の1つということが言えそうです。

因みに、「農業全書」の引用を前回掲載しましたが、その中には「はだ菜あり。」と記されていました。「日本農書全集 第13巻」の注では、これを「波多野大根」のことであるとしていますが、これについて秦野市史編さん委員を務めた石塚利雄氏は、「秦野だいこん雑談」(「秦野市史研究 第5号」1985年 所収)の中で、「はだな」の用例として「神前で嫁は波多奈を二本出し」「干大根はだなの前も恥づかしい」等数点の川柳を検討し、更に複数の辞典の記述を列記した上で、次の様に見解を提示されています。

以上の如く辞典の解釈もいろいろだが、Dの江戸語の辞典(注:前田 勇編 講談社刊)はすこし毛色の変った辞典である。同辞典は、寛政の頃の遊里を書いた好色本のなかに、「淫楽な娼婦がでてきて、はだなだいこの名代を出すだろう」とある大根の水分の多いことをからませた語句を参照しているが、どうも、これは当時の川柳に多くある相模下女を連想され、この相模下女と同じ相模国の波多野の呼称がはだなに類似するので、はだな大根は波多野大根とされたのではなかろうか。もっとも、面白おかしい(ママ)落や話は人々に受けるもので、呼称は類似しており、背景に相模下女のあることから、はだなを相模国の波多野に結びつける要素は多分にあると思う。

(同書39ページ下段)

その点では、「はだなだいこん」が「波多野大根」の異名として用いられた可能性はありそうですが、こうした用法は主に江戸市中を中心に広まったもので、当の生産地では用いられなかった様です。

その地元の当時の文書に記された例を他に探すと、西田原村の東隣の東田原村の元禄12年(1699年)の明細帳に次の様に複数箇所にその名が見えます。

一御年頭江戸え名主壱人宛参候。為御年玉当所柿壱束づゝ、百姓御年玉て波多野大根壱抱差上申候。路銭之義は、名主手前て請申候。送馬壱疋、年玉付馬壱疋村中より請申候。

一波多野大根壱駄づゝ霜月に御地頭様え差上申候。

一波多野大根八束指上 但壱年置、此御扶持方米壱升、五合・大豆弐升五合被下候

一波多野大根壱束     但三尺廻り納来り申候

(「秦野市史 第2巻 近世史料1」115、117、119ページより、…は中略)

この村は当時「逸見領」と「鵜殿領」の相給の村であったため、記述も複数に割れているのですが、それにしても領主に波多野大根を献上する機会が多かったことが窺え、当時はそれだけ地元の産物としてもてはやされていたのでしょう。「秦野だいこん雑談」では、この頃には自生するものを採集するだけでは献上に足りないと考えられることから栽培する様になっていたのではないかと考察されています。

しかし、「風土記稿」の記すところでは、同書が編纂された天保の頃には作らなくなっていたとしています。これに対して、意外なことに箱根の「七湯の枝折」に「波多野大根」の名前が登場しており、この関係をどう見るかが課題です。「七湯の枝折」にはこう記されています。

一秦の大根 秦野といふ野に生ス此大根種をまかすして自ら生ス世ニはたな大こんといふハ是なり

(「七湯の枝折」沢田秀三郎釈註 1975年 箱根町教育委員会 71ページより)


「七湯の枝折」の産物に記された品目は、この「秦の大根」以外は何れも箱根の山中で産出するものが並べられています。勿論、箱根の外でも産するものも多数含まれており、例えば「山椒魚」の場合は大山付近で穫れるものも混ざっていたことを既に紹介しました。しかし、箱根の外から来た山椒魚が「旅魚」と称されて地元で穫れたものより値が下がることを書いていた様に、飽くまでも基本は箱根の中で産出するものがメインであったという点には変わりなかったと言えるでしょう。

そうした中で、箱根では産出しない「波多野大根」だけが敢えてこの一覧に含められたのは何故か、がまず疑問点として浮かんできます。「世ニはたな大こんといふハ是なり」と記す様に、箱根山の外から運び入れてくる食品類の中では特に当時の知名度が高かったが故に、敢えてその名を記したのかも知れませんが、ならば他にもこの一覧に記されていても良さそうな品目がある様にも思えます。勿論、「七湯の枝折」にこの様に記されていることから考えると、やはり箱根の温泉宿の膳に「波多野大根」の香物が添えられることがしばしばあったということになるのでしょう。

また、「七湯の枝折」が成立したのは文化8年(1811年)、「風土記稿」が成立するのは天保12年(1841年)でその間に30年の隔たりがあります。大住郡の稿の成立はその前年の天保11年で、「風土記稿」の中では終盤に編纂が終わっていますので、何れにせよ「七湯の枝折」からは多少時間が経っているのは確かです。とは言え、双方の記述が共に正しいとすれば、「波多野大根」の栽培はこの30年の間に急激に縮退したことになります。先述の「秦野だいこん雑談」では、「波多野大根」の生産が終了した理由を煙草の栽培の抬頭に見出していますが、比較的知名度のあった野菜の栽培を中止する程の作付の急激な切り替えがあったかどうかは、そのことを裏付けられる史料の登場を待って検討するより他はなさそうです。

ともあれ、明治10年の「第1回内国勧業博覧会」には、秦野の村々から大根に関する出品があった形跡は見当たりません。「風土記稿」の記す通りであれば、遅くともこの頃までには秦野の産物としての認識が薄れてしまっていた可能性がかなり高そうです。明治時代に入ると、その土壌の特性を活かして落花生等の近代的な作物の作付も行われる様になったため、ますます「波多野大根」が追いやられる状況に陥っていった、ということになるのでしょう。

この大根が元より自生していたということであれば、適切な生育環境を残した山野があればもしかすると生き延びている可能性もないとは言えませんが、こうした山野の多くが別の土地利用に切り替えられていることを考えると、現在の「波多野大根」の自生種を見出すのもかなり難しいと言わざるを得ないでしょう。実際、複数の研究者が現存する自生種を探索したものの、確実にこれと言えるものは見つかっていない様です(例えば「恵泉・野菜の文化史(1) ダイコン」藤田 智(園芸文化研究所)、リンク先PDF)。

因みに、小田急小田原線の「東海大学前駅」は、昭和62年(1987年)に現名称に改称する前は「大根(おおね)駅」と称していました。同地に明治22年(1889年)から昭和30年(1955年)まで存在した村名が「大根村」であったことに由来するのですが、その漢字表記からはつい「波多野大根」と関係があるのではないかと思いたくなります。しかし、これについて「秦野だいこん雑談」では次の様なエピソードを紹介しています。

秦野は煙草の産地として有名だったが、実は、ろくな調査もしないのに、煙草の前にはだいこんが有名だったと話したことがあった。そのとき、「それで秦野にはだいこん(大根)と同じ文字のおおね(大根)という地名があるんですね」といわれ、すこし面くらったことがある。

というのは、大昔はだいこんのことを「おおね」と呼称していたが、当地にある大根(おおね)という地名の起因は、だいこんとは関係がなく、地形からと推察していたからである。

(上記書36ページより)


実際、江戸時代から明治初期までは同地に「大根」の名を冠する村名はなく、周辺の村が合併して新たな村を結成する際に、「大山の根」に位置するという意味で「大根」と称する様になったとされています。その頃には既に下火になっていた「波多野大根」との類似は「偶然の一致」ということになるのでしょう。



その様な訳で、三浦の「鼠大根/高円坊大根」と秦野の「波多野大根」では、同じ様に「風土記稿」に取り上げられていながらその後の経緯は随分と違うものになってしまったと言えます。しかし、他方でこの2種の大根には2点ほど共通項を見出すことが出来ると思います。

1つは生育環境です。「農業全書」では大根の栽培に適した土地について、

○うゆる地の事。大根細軟沙(さいなんしや)〈こまくやハらかのすな〉の地に宜しとて、和らかなる深き細沙地を第一好むものなり。河の辺ごミ砂の地、又ハ黒土赤土の肥たる細沙まじり、凡かやうの所大根の性よき物なり。

日本農書全集 第13巻」農山漁村文化協会 216ページより、ルビは一部を除き省略

と記しています。

現在も大根の栽培が盛んに行われている三浦半島南部の台地は、「黒ボク土」と呼ばれる箱根・富士山由来の火山灰土が覆う土地で水捌けが良いのが特徴です。他方、秦野盆地の土壌も砂礫層の上に厚く堆積した火山灰土で、双方の土壌は良く似通っています。双方の大根の品種は特徴が大きく異なるとは言え、基本的には大根が生育するのに適した土地であったと言えるでしょう。実際には大根の適作地は火山灰土に限らず、例えば平塚の砂丘地帯で第二次大戦前に大根の栽培が行われていたことが「神奈川県園芸発達史」(富樫常治著 1944年)にも記されています。しかし、「風土記稿」に記された2つの大根の産地が共に火山灰土の土壌を特徴としていることはなかなか興味深い事実です。

もう1点は「風土記稿」がこの2種類の大根をその土地の産物として取り上げた理由です。「波多野大根」の場合は江戸でも知名度が高かったこともさることながら、香雲寺の文書がその由緒を語る根拠として重視されていることが、その記述から窺えます。他方、「高円坊大根」については前回記した通り、「三崎誌」や「三浦古尋録」に記述されていることを紹介しました。これらの先行する地誌を「風土記稿」の編纂に当たって昌平坂学問所が参照していたとする明確な裏付けは今のところ見出せていませんが、「七湯の枝折」に見られた参照関係の例から見ても、箱根以外の地域でも同様に既存の地誌を参照していた可能性は考えて良いでしょう。そして、そうであるとすれば、三浦郡の産品を挙げるに当たって、これらの地誌に紹介されていることが1つの目安として考慮された可能性は少なくないと思えるのです。



追記(2016/03/28):国立国会図書館からの「国立国会図書館近代デジタルライブラリー」終了のアナウンスに従い、同サービスへのリンクを「国立国会図書館デジタルコレクション」へのリンクに切り替えました。

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この記事へのコメント

- かんみ - 2016年08月22日 20:33:27

※上手くコメント投稿できなかったため再送しています。重複の場合はお手数ですが削除お願いします。

毎度長文で失礼致します。

“波多野大根”については他に『大和本草』、『物類称呼』、『本草綱目啓蒙』、『古今要覧稿』に記載があります。『大和本草』、『物類称呼』、『本草綱目啓蒙』では相州波多野の産であることを紹介しており、すでに記事で挙げられている文献に加えて波多野大根の知名度があったことを示す補足資料になるかと。また、波多野大根の異名として江戸では「はだな大根」と呼ばれていたこともこれらの資料が裏付けます。

大和本草
ttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2557467/5

物類称呼
だいこんはだの大根相州波多野ノ名産也江戸にてはだなと云是也これ転語也京にてながね大根と云大坂天満にてほそね大根といふ又宮の前の大根と云河州守口にて是をもつて粕漬とす西国にて小大根と云はだの大根は小大根よりはすこし大也又畿内にてなかぬき大こんといふを江戸にてをろぬき大こんと云

本草綱目啓蒙
ttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2555484/15

古今要覧稿 草木部菜蔬七
ttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/897551/489

『新編相模国風土記稿』の年代に「七湯の枝折」よりも更に近い資料として、『古今要覧稿』(1821~42年)の「大和本草云野蘿蔔今按に西土の小蘿蔔なり波多野大根と一類別種にて波多野大根は「コホオ子」より大なり江戸に多く出づ共に野圃に生ず(後略)」の記載がありますが、これは単純に『大和本草』を引いていて、必ずしも当時の状況に沿ったものとは限らず、疑問が残ります。

むしろ従来の文献に記載のない『新編相模国風土記稿』の「今は絕て播殖せず」は、当時の事情をよく反映している可能性が高いと言えるのではないでしょうか。『新編相模国風土記稿』が波多野大根を取り上げたのは、由緒がある産物で知名度がありながらも往時の勢いはないという、近年の状況の変化を記すことに重きを置いたのではと推測します。


となると、いよいよ波多野大根栽培の急激な衰退の理由が気になるところですね。一考の余地はあるのではと思うことが、1916年(大正5年)の『四季収穫蔬菜栽培法』に挙げられています。細根大根の細く小さい形は収穫と荷造りに手間がかかるため、味こそ互いに勝るとも劣らぬものの、その辺りの手間がかからない亀戸大根に自然と圧倒される形で栽培を縮小していったというのです。

四季収穫蔬菜栽培法 細根大根
ttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/948355/14


亀戸大根の栽培が始まったのが文久年間(1861~64)とされていますから、『新編相模国風土記稿』とは20年程開きがあって検討が必要ですが、少なくとも幕末には波多野大根の需要は亀戸大根に取って代わられたと考えられます。

味は劣らずにより収穫しやすい手間隙のかからない品種が登場、しかも亀戸という近郊の産で消費地での流通の面でも良いとくれば需要を失うのは当然で、波多野大根が知名度があっても作付を切り替えられてゆく理由には足るのかな、と思いました。

蔬菜と関連して、馬酔木の葉茎の煎じ汁が殺虫剤となることは知られ、蔬菜作り等に利用されていた可能性があります。『本草綱目啓蒙』以前すでに『農業全書』に大根の葉に虫がついた時や、牛や馬の虱取りにも有効なことが記されています。

農業全書
ttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2557375/7

「七湯の枝折」の馬酔木の紹介は賞玩目的のものでしょうが、箱根の蔬菜作り等に馬酔木の殺虫剤が用いられていた資料が出てくれば、箱根の植生を有効利用したものと言え、厚みが出て面白くなりそうですね。

暑さはまだまだ続きそうです。どうかくれぐれもご自愛ください。

Re: かんみ さま - kanageohis1964 - 2016年08月28日 09:07:06

お返事遅くなりました。昔の記事にコメントをいただきましてありがとうございます。

亀戸大根の件、「四季収穫蔬菜栽培法」の考察が1世紀ほど後年のものですし、確かに御指摘の通り江戸での普及時期と波多野大根の衰退時期が噛み合うかどうかは検証の必要がありそうですが、より近郊地の類似の品種に圧される形で販路が縮小した可能性は考えてみたいところですね。箱根の様な、より秦野盆地に近い消費地に波多野大根が運ばれていたのも、あるいは江戸での「伸び悩み」が背景にあった、とも考えてみたくなります。

馬酔木の殺虫剤としての用途ですが、箱根に結び付く形での紹介は今のところ見かけていません。箱根に特有の植物で同様の用途が考えられるものとしては「くさめ草(ハコネハナヒリノキ)」が挙げられると思います。「七湯の枝折」などでは鼻に入れるとクシャミが出るという戯れた用途しか書かれていませんが、明治10年の第1回内国勧業博覧会にこの草が出品された際には柴胡などの薬草類と同じカテゴリーに入れられていますので、あるいはこの頃には殺虫剤としての用途に着目していたのかも知れないですね。馬酔木も同様の用途に使っていたかも知れませんが、必ずしも箱根固有のものではないためにあまり着目されていなかったのかも知れません。

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