相模国の紫根:「新編相模国風土記稿」から(その3)

梅園草木花譜夏之部卷6「紫草」
「梅園草木花譜」(毛利梅園)夏之部
卷6より「紫草」(左)
「紫草植る人有て曰く此草秋種る者は春花開く
春種る者は秋花開くと云り」と解説されている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
前回に続いて、今回も相模国の紫根について考えてみます。今回は薬用としての紫根について、江戸時代の状況を検討します。

前回引用した「本草綱目啓蒙」中では、「上品の者は染家に送り下品の者を紫根と名けて醫家に賣る」と、上級品の方を染料として使い、薬用にはむしろ下級品の方を使うと記していました。紫根の効能については特に記されていませんが、紫根に含まれる「シコニン(Shikonin)」が有効成分として働いていると考えられており、抗菌・抗炎症作用があるとされています。市販の痔疾治療薬にも紫根のエキスが処方されているものがあるとのことです(リンク先PDF)。

以前「硫黄」を取り上げた際にも「本草綱目啓蒙」の「硫黄」を引用しましたが、この項では黄色や赤みを帯びたものを上級品として薬用などに用い、青みを帯びたものは下級品として火付けの用に用いることを記していました。「紫根」の場合はこの関係が逆になっている点が興味深いところです。

また別の以前の記事では、「近世日本薬業史研究」(吉岡信著 1989年 薬事日報社)の巻末に掲載された「付表」から、柴胡・硫黄・明礬などの処方事例を探してみたことがありました。この付表から「紫根」が処方に含まれているものを探してみたところ、見つかったのは

「紫金膏」(切疵骨達)高橋喜内(両国)①

『袖珍』〔沈香、白檀、紫檀、黄連、地黄、など八味右八味水二升八合入四合バカリニ煎ジ布ニテ漉サテ叉絹ニテ漉念ヲ入焼物ノ薬鍋ニ入煉之

金薄、銀薄、紫根、杏仁 右四味細末シテ前ノ煎薬ノ内ヘ加ヘサテ叉龍脳、壽香、樟脳、焔硝、明礬、廬岩石 右ナホド細ニ粉ニシテ右ノ煉薬ノ火氣ヲサマシテ後ニ加フルナリ〕

(上記書付表25ページより、①は出典文献の番号でここでは「江戸買物独案内」文政7年・1824年を指す、「袖珍」は処方原典で「袖珍醫便」元禄2年・1689年を示す)

江戸買物独案内より高橋喜内「紫金膏」
「江戸買物独案内」より高橋喜内「紫金膏」(左)
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
この1件だけでした。「紫金膏」はもう1種別の文献に登場するものが挙げられており、更に類似の名称の薬としては「紫金錠」「紫金無憂膏」といったものも挙げられていますが、処方が記されているもののうちには「紫根」の名はなく、また処方が記されていないものについては紫根が含まれているかどうかは不明です。何れにせよ、以前まとめた一覧では「硫黄」や「硝石」の出現事例はかなりの件数を確認出来ており、「柴胡」や「明礬」も複数の処方に含まれていましたから、それらに比較すると、「紫根」の処方での出現事例はそれほど多いとは言えない様です。

また、同じく硫黄を取り上げた際には豊前国下毛郡中津(現・大分県中津市)の村上医家に伝わる「薬箱」を紹介しましたが、ここに常備されている薬草類の中には紫根を意味すると思われるものはありませんでした。


こうした傾向からは、江戸時代の処方では紫根はそれほど多用される薬草とは言えなかったのかも知れません。

また、前回引用した「諸問屋再興調」からは、紫根の薬用としての用途について別の側面も見えてきます。前回の引用した文書の書き出しには「紫染屋共拾二人之内茂兵衞里紫根問屋被 仰付候儀」とありました。これが何を意味するのかについては、前回の引用箇所に続いて、次の様なことが記されています。

…其筋相糺候處、奥州南部ゟ出候紫根を山紫根と唱、藥種屋共方ニ而聊藥種相用候品之由、里紫根者、」元來其方共在方紫根差遣し、㝡初作初、追〻近在ニ而作り覚、當時壹ヶ年凡二千俵程ッゝも作出し、染草重相用候由、勿論藥種屋共方ニ而も差支候筋も不相聞候間、里紫根之儀者、以來往古之通、茂兵衛壹人間屋と定、在方ゟ不殘引受、外十壹人之者遣用者、元直段ニ而差遣、紫染屋共遣殘有之節者、他國遣候共、在方ゟ引取候雜費斗割懸ヶ、紫根者元直段ニ而賣渡可遣、右付、御染物無代之冥加金」不及差出、山紫根望之節者、藥種問屋共藥種相用候殘有之候ハゝ、元直段ニ而可買受、尤奥州南部より引取候運送賃者、割合を以別可差遣、藥種屋共ニ而里紫根万一入用之節者、其方共ゟ元直段ニ而賣渡、在方ゟ引取候諸入用者、別割合を以可受取候、右之通り申渡候上者、御用御染物者猶更之義、一躰之紫染代是迠之半金も引下ヶ可申候、右被仰渡之趣、名主支配限不洩樣申聞候様、組〻」可申繼旨、被仰渡奉畏候、以上、

(「大日本近世史料 諸問屋再興調 二」1959年 東京大学出版会 263〜264ページより、」は原文ママで原書の改ページ箇所を示すもの、変体仮名はゟ以外下付きとし、適宜置換え、強調はブログ主)


奥州南部から出る紫根を「山紫根」、そして薬種問屋が扱う紫根を「里紫根」と呼んでいることの確認から話が始まります。そして、里紫根は前々から「茂兵衞」ひとりが一手に取り扱っており、他の11人が染料用途の紫根を扱っていることが確認されています。この12軒のそれぞれの紫根の取扱量にどの程度差があったかはわかりませんので、単純に軒数の比がそのまま取扱量の比とイコールになるとは言えません。しかし、江戸という当時の最大の消費地にあってさえ、薬用の紫根は1軒の問屋で賄い切れたのに対し、染料用途の紫根はその1桁上、あるいはそれ以上の量が必要だったという大凡の目安にはなりそうです。寛政8年(1796年)に紫染屋の問屋結成に際しては、薬種問屋側とも調整の上で、薬用の紫根の余りを紫染屋が望む場合は薬種問屋が元値で売り渡すことなどが取り決められています。

こうした傾向と、上記の処方上の出現頻度の少なさを重ねると、やはり薬用としての紫根の需要はさほど大きいものとは言えなかったということになりそうです。「本草綱目啓蒙」が上品を染料に、下品を薬用とすると書いたのは、あるいはこうした傾向を反映しているのかも知れません。何を以て「上品」「下品」とするのかは明記がないものの、単純に大きさの比較と考えれば、絶対量が必要となる染料の方に大きな根を廻すことになるのは自然なことではあったでしょう。

もっとも、こうした傾向は紫根に限ったことではなく、凡そ薬種問屋で扱う必要がある薬草類は総じて扱い量が小さくなる傾向にはありました。「江戸時代、漢方薬の歴史」(羽生 和子著 2010年 清文堂出版)には巻末の資料として、宝暦6年(1756年)から同9年の「江戸下し海陸荷物書上一件」という、大坂から江戸へ送られた薬草類の荷物の一覧が掲載されています。全体では70ページ以上に及ぶリストになっているため、これを転載する訳にはとても行きませんが、これを見ると、「山帰来(さんきらい)」の多くが「貫」(3.75kg)や「匁」(3.75g)で記されているものの、殆どの荷物が「斤」単位で記されています。興味深いのは時に数千斤から百万斤に及ぶ品物があっても、これらを「貫」(6.25斤)で記すことはせず、薬種によって単位が揃えられていることです。1斤は約600gですから、非常に細かい単位で薬草類を扱っていたことがわかります。


荷物が小口になる傾向があることから江戸への輸送に陸路が使われるケースも少なくなく、上記書による「江戸下し海陸荷物書上一件」の集計を見ると、陸路が238回、海路が203回とほぼ拮抗していたことがわかります。その分輸送コストが薬の価格に跳ね返りやすい傾向にあったことになります。



以上を踏まえた上で、以下はほぼ私個人の推測に属する話になります。それでは、相模国の紫根は薬用としてはどの様に流通していたのでしょうか。特に、小田原をはじめとする相模国内の各地域に所在していた薬屋が紫根を必要とした時に、何処からそれを求めていたのでしょうか。

考えられる可能性は2通りあります。1つは他の大半の薬草類と同様、江戸の薬種問屋から仕入れるというルートです。実際問題として、当時の薬草類の大半は中国からの輸入に頼っており、その経路が長崎に限定されていたことから、江戸には長崎から大坂を経て運び込まれていました。当然、江戸周辺の各町の薬屋も、それらの薬草を必要とする場合には、江戸から送ってもらう以外に入手する経路が存在しなかったことになります。とすれば、紫根についてもそれらの薬草類と一括で送ってもらった方が、結果的には手間やコストを省ける側面もあったのかも知れません。

ただ、動力を生み出す機械による輸送がまだ存在しなかった時代にあっては、人馬や船頼みの輸送コストは今よりも割高につく傾向があることから、果たしてその様なルートを経ることが本当に得策だったのか、という懸念もあります。小田原から見れば底倉は3里弱、矢倉沢でも精々3里半の距離しかありません。また、「風土記稿」には記されていないものの、明治時代の「第1回内国勧業博覧会」の記録では久野村からも紫根が出ているので、ここからなら小田原まで1里もありません。紫根の産地がこれほど小田原の至近にありながら、陸路で20里(小田原宿の江戸方の一里塚が日本橋から20番目)も離れた江戸から果たして取り寄せていたものなのだろうか、ということです。

また、江戸時代には今の薬事法に当たる制度はなく、基本的には薬種問屋などの自発的な取り組みに委ねられているのが実情でした。例えば、薬の品質確保については

享保7年(1722)、幕府は大坂、京都、堺、駿府における薬種問屋の代表を、江戸に招集した。さらに本町薬種問屋仲間を加え、和薬についてその真偽・品質検査をおこなうための「和薬改會所(和薬真偽吟味所)」の設置を指示した。

審議は、山歸來、鬼舊、真細辛、馬蘭葉、海桐皮葉、真升麻葉根、牡仲葉、白薇、白頭翁、威霊仙、辛葺、大戟、をはじめ、各種の生薬に及んでいた。とくに山歸來については、唐物の払底'から和産の山歸來が出回っていることについて、両者品質の比較、琉球産・薩摩産も唐産と同様に使うべきなどの上申書が出されている(6月18日)。このほか、会所において「吟味に及さる薬種」「吟味可致物」などについて、その区分けなども行われたようである

江戸における和薬改會所は、伊勢町表河岸に設置され、享保7年6月19日、その業務を開始した。大阪にあっては淡路町一丁目に設置され、同年8月25日より開始されたとある。

和薬改會所においては「和薬種六ケ條」に準拠して検査が行われていた。これは和薬の品質統一確保のために用いられたもので、「真正和薬を指示して、その使用を奨励し、同効代用薬を公認して偽物を排除しようとしたものであった」と宗田は述べている。現在、この記録は大阪側のみに残されており、他の地区の場合は不明であるという。このようにして和l薬改會所は、薬物のチェック機関としての機能を持ちながら、同時に流通の整備なども目的としていたことがうかがわれる。

いらい、和薬の買入れは必ず改會所を経て行うこと、さらに薬草を採集して納めるのも、かならず改會所に売らねばならなくなったのであった。…

和薬改會所は、享保7年(1722)、江戸をはじめ五か所に設置され、和薬吟味の仕事をはじめた。しかし、時代が進むにつれて、“きぐすりや”たちのクスリ知識もだんだん高まってきたので、元文3年(1738)、幕府はこれを廃止したのであった。

(上記「近世日本薬業史研究」172〜174ページ、注参照番号は省略、…は中略)

こうした幕府による規制が一時的には存在したものの、僅か16年で廃止されており、以降は基本的に問屋などのチェックに委ねられていたことがわかります。こうした中で、江戸を離れた各町の薬屋が、果たしてどれほど江戸の薬種問屋に仕入れを縛られていたものか、今ひとつ実情が良くわからない面もあります。

つまり、今1つの可能性としては、紫根の様な近傍に産地のある薬草類は、江戸からではなく産地から直接仕入れるルートが考えられるということです。無論、江戸でさえ問屋が1軒で賄う程しか需要のない紫根を小田原が必要とするとしても更に微量となる可能性が高く、それを僅かな距離とは言え運んでもらうとなれば、他の荷物と混載するなどしてコストを浮かせることを考えなければならないでしょう。しかしそれでも、この距離の差は無視し難いものがあります。

但し、以前見た「明礬」では、箱根で産出した明礬を全量豊後へ送り、そこで再精製されたものが再び江戸へ送り返されるという、非常に長大な移動が行われていた事例があるのも事実です。もっとも、この場合は高品質を維持するという目的があったことと、明礬が比較的需要の多い品であったことが背景にありそうで、紫根の事例に当て嵌めて考えることが出来るかどうかはまた微妙な部分もあります。


現在の小田原・小西薬局本店
ストリートビュー
今のところはどちらも推測の範囲に留まっており、その点でどちらも可能性は全く同等と言うべきです。それを解き明かすには、小田原などに江戸時代にあった薬屋に伝わる文書類を紐解いてみるしかないのですが、誠に残念ながら、小田原に江戸時代に存在した2軒の薬屋、すなわち外郎と済生堂薬局(現:小西薬局本店)に伝わる古文書類は大半が非公開とされており、私の様に特に何処かの研究所などに所属する訳ではない人間が、容易に閲覧できるものではないのが実情です。無論、どの様な文書が伝わっているのかも不明なため、上記の様な疑問点を考える上で手掛かりとなり得る文書が含まれているのかどうかもわかりません。これらの文書が公開された折に改めてこの問題について考えてみたいところです。

なお、同様の問題は以前取り上げた「柴胡」の流通に関しても言えることを申し添えておきます。
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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

この記事へのコメント

ムラサキとソバ - 東屋梢風 - 2015年05月18日 23:03:16

ムラサキについて、『鈴木藤助日記』の記述が気になっています。
嘉永6年11月7日、藤助のもとに、知人が病気になったという報せが届きました。
それに続け、「紫ヲ作り候跡へそはヲまき候て其そはヲ食候と毒之由承る、程ヶ谷辺ニて右を食し即死七人、不為死者は紫色之腫物出来らい病之如くニ御座候由」とあります。
知人の病気との関連性がはっきりしませんが、藤助らは関係があると考えている様子です。
この知人は10日に亡くなりました。

ムラサキにはピロリジジンアルカロイドが含まれるとはいえ、土壌に残留して後に栽培したソバに影響を及ぼすのかどうか…。
ただ、当時このような情報が流布したのは事実のようです。

Re: 東屋梢風 さま - kanageohis1964 - 2015年05月19日 06:52:17

こんにちは。貴重な情報をありがとうございます。

仰るとおり、実際に紫草の栽培がその後の耕作に影響を及ぼすかどうかは何とも言い難いところと思います。ただ、「程ヶ谷辺ニて右を食し」と記しているということは、保土ヶ谷宿で供された蕎麦がその様な土地で栽培されたことがわかっていたということで、そういう情報が詳らかになっていたということは、比較的近隣の土地で紫草や蕎麦の栽培が行われていた可能性が高そうですね。

- りえてつ - 2015年05月19日 14:20:09

こんにちは。

紫根についてとても勉強になりました!
遅くなりましたが、
リンクさせていただきました。
今後もどうぞ宜しくお願い致します。

Re: りえてつ さま - kanageohis1964 - 2015年05月19日 17:14:25

こんにちは。

コメント&リンクありがとうございます。こちらのリンク集にも追加させていただきました。

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