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相模国の紫根:「新編相模国風土記稿」から(その2)

本草図譜巻六「紫草」
「本草図譜」より「紫草」(右)
「南部より多く出づ」とする
南部藩は紫根の一大産地だった
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
前回に引き続き、今回も相模国の紫根について見ていきます。

前回引用した「玉匣両温泉路記」では、宮城野村の紫根は「江戸へいだす。」と書いていました。そこで、この紫根が江戸でどの様に用いられていたのかを考えてみます。

前回引用した幾つかの資料にも既に見えていた通り、江戸時代の紫根は主に染料として用いられていました。その名が示す通り、紫色の染料が取れます。「跡見群芳譜」は
和語むらさきとは、本来この草の名。語義は、叢咲であろう。のちに、この草の根で染めた色をも、むらさきと呼んだ。

とし、むしろこの草の名前の方が先にあったとする説を掲げています。

当時の本草学の書物のうち、「大和本草」にはこの草に関する項目が見当たりませんが、「本草綱目啓蒙」では次の様に解説されています。

紫草

ムラサキ ムラサキ子 子ムラサキ江戸

〔一名〕紫果増訂致冨奇書 璚茅事物紺珠 紫茢正字通 芝草鄕藥本草

諸州に多く栽ゆ春分後種を下す長じて苗高さ二尺許葉は細長にして旱蓮草(タカサブラウ)葉の形の如く互生す夏月枝梢葉間ごとに白花を開く五出形梅花に似て大さ三分許内に蕊なし外に蕚あり亦五出にして細長し花謝して實を結ぶ蕚ごとに一二實形圓尖にしてにして紅藍花の實に似て小し熟して白色或淡褐を帯て光あり京師の山に自生なし奥州羽州豫州播州江州甲州總州 (「信州」の追記あり)にはあり (「今國々にうゆ」の追記あり)その根直にして皮深紫色皮汁を採て布帛を染む藥舗には薩州奥州南部羽州最上より出るを上とし (「染用には諸州より出者の中に最上第一とす」の追記あり)讃州豫州より出るを次とし和州江州河州を次とす上品の者は染家に送り下品の者を紫根と名けて醫家に賣る用ゆるもの宜しく揀ぶべし

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、書き込みは一部ルビとして取り込んだもの以外は省略)


「大和本草」が「紫草」についての項目を加えなかった理由は良くわかりませんが、染料としての紫草は古くから知られているものではありました。「延喜式」では第23巻民部省下の「交易雑物(こうえきぞうもつ)」の項に

甲斐國…紫草八百斤。

相摸國…紫草三千七百斤。

武藏國…紫草三千二百斤。

(「新訂増補 國史大系 第二十六卷「交替式」」1968年 吉川弘文館 592ページより)

と記され、相模国が周辺の国々共々紫草の産地であったことがわかります。また「万葉集」にも

『万葉集』に、

紫草を草と()く別く伏す鹿の/野は異にして心は同じ

(巻十二・三〇九九)

とある。紫草を一般の雑草とはせず、鹿でさえも区別しているというのである。当時から高貴な色を染めだす特別な植物であったことがわかる。

『万葉集』に、紫草を詠んだ歌は多い。

あかねさす紫野ゆき標野ゆき/野守は見ずや君が袖振る

(巻一・二〇)

これに対して、大海人皇子(後の天武天皇)の返歌は、

紫のにほへる妹を憎くあらば/人妻ゆえにわれ戀ひめやも

(巻一・二一)

がよく知られる。この歌に詠まれている紫野は、紫草の自生地を指す。また、標野とは皇室・貴人などの所有する原野で、猟場にも使川された。みだりに他の者がはいることを禁じたので番人(野守)がいたのである。この歌から紫草の自生地に、縄などを張りめぐらして紫根を採収していたとも考えられている。このように原野に群がって自生している紫草を「山紫根」と呼び、栽培した紫草を「里紫根」という。

(「ものと人間の文化史148 紫」竹内 淳子著 2009年 法政大学出版局 80ページ及び85〜86ページより、…は中略、短歌中の改行は/に改め)

の様に「紫草」の名が登場する歌が様々に見られます。ただ、この時代の紫根染は、これらの歌などに見られる様に専ら位の高い人のためのものと言って良いでしょう。

こと江戸時代の紫根染めという点では、享保期に徳川吉宗が推奨したことがその興隆の切っ掛けとなった様です。

江戸時代に八代将軍吉宗が紫根染を奨励して盛んになる。藍で染める染屋は紺屋だが、紫根を用いて染める職人を紫屋と呼んだ。

うっちゃって看板にする紫屋

という川柳がある。紫を染めるために必要なものは紫根だが、染料をとったあとの根を捨てるために、とりあえず店の前に積みあげていたのだ。色素を含む部分は根の表皮に近い部分と細いヒゲ根のため、捨てる部分が多いのである。

優雅な紫色に似合わず、江戸で染める紫には江戸っ子らしい気風が感じられたらしい。色も、やや青みがかった紫だったという。

紫と男は江戸に限るなり

ならべると京都とちがう紫屋

鴨川の水でもいかぬ色があり

京都ではえもん江戸では式部なり

京都で染める紅色は、より華やかに染まり、江戸で染める紫色は青みがかって渋かったので、京の紅染、江戸の紫染とはやされ、赤染衛門と紫式部にかけたのである。

(上記書90〜91ページ、ルビも同書に従う)


吉宗の時代に武蔵野で紫草の栽培が奨励されたのは、元文4年(1739年)に南北武蔵野新田世話役となった川崎平右衛門による、一連の新田保護政策によるものの様です(「徳川歴代将軍事典」大石学編 2013年 吉川弘文館 397〜398ページ)。また、「徳川実紀」では吉宗が古代の染色の再現に努めるべく、享保14年(1729年)に吹上に「染殿」を設けて紫をはじめ各種の染色の再現に成功したことが記されており、吉宗が位階制度にも関係の深い染物に少なからず興味を持っていたことは確かな様です(「有徳院殿御實記附録卷十七」)。何れにせよこの時期から紫根が増産される様になり、紫根染は次第に町民たちにも手が届く様になっていった訳です。

因みに、東京都の都旗の色が「江戸紫」と制定されていることが、上記の「ものと人間の文化史148 紫」に紹介されています。「江戸紫」がどの様な色か知りたい方は、東京都旗をご覧になるのが一番手っ取り早そうです。


紫草が栽培される様になるのは武蔵野に限ったことではなく、「本草綱目啓蒙」の書き込みに見られる様に、各地で栽培が行われていた様です。幕末の農書である「広益国産考」には

紫草ハ本草綱目に其形状の説あれども、今我国にて作る所の種とハかはれると見えて、其説合ず。按ずるに甘蔗に紫茎など種々あるといへども、我国にて作る所ハたゞ一種のミ也。是等と同じものにて、漢土にてハ種々あるも知るべからず。依て爰にハ専ら我国にて作る所の紫草の形状を模し、其作り方を自ら植試ミたるを左にのぶる也。農家に普く作り覚てひろく行れなバ、利を得ること常の作物とハ大ひにまさるべし。則国産ともなるべき一種なれバ、詞を賤くして有しまゝをのぶる也。

紫草を作る土地の事

○湿地の北うけあるひハ山陰の陰地ハ忌べし。随ぶん日あたりよき地に作るべし。

○砂真土の水気の滞ふらざる地宜し。

○黒ぼこと至つての赤土ハあしゝ。

○ねば土あしゝ。

○流水場などの極砂土ハ宜しからず。

○綿麦などの能できる地ならバ生育せずといふ事なし。

(「日本農書全集 第14巻」農山漁村文化協会 147〜149ページより、ルビは省略)

と、栽培法について著者の大蔵永常が自ら試してみた事柄を記しているのですが、播種時期などの具体的な部分が乏しく、殆ど土質の向き不向きを記して終わっていますます。土さえ選べば容易に殖えるとも読めるのですが、現在ムラサキの栽培に取り組まれている方々の書いたものをネット上で拾う限りでは、意外に栽培が難しいものの様で、栽培しているものが全滅してしまう年もままある様です。

追記(2015/06/03);上記の記述に誤りがありましたので訂正致しました。大変失礼致しました。この件についてはこちらの記事を御覧下さい。

こうした紫草の栽培の難しさが流通市場にも影響を及ぼしたのでしょう。栽培された紫根が少なくなったところへ、他の地から出て来た紫根が持ち込まれるなどして価格の乱高下が生じる様になったことから、寛政8年(1796年)に江戸の紫染屋12名が問屋を結成し、紫根の流通の統制に乗り出します。後年の「諸問屋再興調」には、その際に奉行所に提出された文書の写しが、問屋の結成時期の証拠として掲げられています。

寛政八辰年八月十五日

紫染屋共拾二人之内茂兵衞里紫根問屋被 仰付候儀

年番名主共申渡写

(名簿省略)

其方共願出候者、數年來紫染「物」(墨傍書)渡世致し罷在候處、紫染草出方之義者、地廻り近在ニ而作出し候を、里根と唱、一ヶ年作出し俵數凡二千俵程ッゝも出來之内、元方百姓共ゟ時之相場を以買受、家業致し來候處、近年右染草」出方荷數少ク相成、年〻高直相成、右准し紫染賃も引合不申候付、自ラ高直相成、一躰紫作出之俵數者、先年之通出來致し候得共、近來外商賣人共紫根作出し、元方罷越、仕入金等相渡、其上銘〻直段糴上候買取、他國積送候故、自然と直段引立、品數少相成候付、高直成、家業取續難澁付、其方共仲間十二人ニ而、里根出方引受問屋相願之、年〻豊凶有增、平均相場を以買受、仲間一ヶ年遣用程者」見積り致し除ヶ置、餘計有之節者、他國ゟ注文申越候ハゝ、元直段壹割之口錢取、賣渡遣、以前之通紫染直段も引下ヶ可申旨、尤爲冥加、

公儀御染物不依何品、壹ヶ年金貳十両迠適之御染物者、無代ニ而染上差出し、右代金程之御用無之節者、壹ヶ年金二十兩之積を以、金納可致旨相願候間、(以下略)

(「大日本近世史料 諸問屋再興調 二」1959年 東京大学出版会 259〜263ページより、」は原文ママで原書の改ページ箇所を示すもの、変体仮名はゟ以外下付きとし、適宜置換え、強調はブログ主)


江戸買物独案内より「紫染所・紫根問屋」
「江戸買物独案内」(文政7年・1824年)には
「本紫染屋」「紫根問屋」の類が4軒記されている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
やや中途半端な所で引用を切りましたが、後半部分は次回使いたいと思います。さておき、これによって江戸での紫根の流通は問屋の手によって制御される様になった訳です。

ですから、「玉匣両温泉路記」で原正興が見た宮城野村の紫根は、江戸に持ち込まれた際にはこれらの紫根問屋に属する商人の何れかの手に引き渡されていた筈です。武蔵野や奥州南部で栽培も行われていたにも拘らず、山野に自生する紫草を掘り取って遠路江戸まで送っていたということから見ると、それに見合っただけの収入にはなったと考えられることから、やはり紫根は全般的に不足する傾向にあったのでしょう。相模国内では紫根染で知られる地域の記録が特にありませんので、恐らくは染料用途の紫根は全量が江戸へ向かったのではないかと思います。

さて、紫根の用途にはもう1つ薬用としての用途があることが、「本草綱目啓蒙」の記述の中に見えています。次回はこちらの用途を巡る課題について取り上げたいと思います。




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管理人のみ閲覧できます - - 2015年05月11日 15:47:37

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