相模国の紫根:「新編相模国風土記稿」から(その1)

「新編相模国風土記稿」に記された産物一覧から、今回から「紫根」を取り上げます。

矢倉沢・底倉の位置
矢倉沢・底倉の位置
旧Googleマップのスクリーンショットに追記)
  • 山川編(卷之三):

    ◯紫根足柄上郡矢倉澤村同下郡底倉村等に產す

  • 足柄上郡図説(卷之十二 足柄上郡卷之一):

    ◯紫根矢倉澤村の產、

  • (足柄下郡図説には記述なし)
  • 矢倉澤村(卷之二十一 足柄上郡卷之十):

    村内柴胡・紫根を產せり、

  • 底倉村(卷之三十 足柄下郡卷之九):

    產物には唐藥俗にせんぶりと云、・柴胡・紫根等、山中に生ず、

(以下、「風土記稿」の引用は何れも雄山閣版より)


足柄下郡図説の欠落はあるものの、「風土記稿」内の記述は山川編足柄上郡図説と村里部それぞれに記されており、大筋で整合性が取れています。矢倉沢村、底倉村はどちらもこれまでに「柴胡」や「センブリ」、更に「矢倉沢の蛤石」を取り上げた際などにしばしば名前が出て来ました。矢倉沢村は箱根外輪山の北側斜面、底倉村は箱根山カルデラ内の村ですね。


「風土記稿」に掲げられた産物は、現在でも多少の事情の変化はあっても基本的に市場などで見られるものと、現在では一般には馴染みがなくなってしまったものの2種類に分けることが出来ます。「紫根」はこの分類ではほぼ後者に属すると言って良いでしょう。そこで、まずはこの「紫根」についての解説から始めたいと思います。

「紫根」とは「ムラサキ」という植物の根です。あまり目にしたことがない…のも道理で、この植物は現在国のレッドデータブックに「絶滅危惧種」として登録されています。その辺りも含め、「神奈川県植物誌 2001」(神奈川県植物誌調査会編 2001年 神奈川県立生命の星・地球博物館刊)では以下の様に紹介されています。

Lithospermum erythrorhizon 2.jpg
ムラサキ(Wikimedia Commonsより)
("Lithospermum erythrorhizon 2"
by Doronenko - Own work.
Licensed under CC BY-SA 3.0
via Wikimedia Commons.)

7. ムラサキ属 Lithospermum L.

多年草。葉は互生。萼は基部近くまで深く5裂し、裂片は線形となる。花冠は高盃状または漏斗状で、喉部に5個の条や突起があることもある。分果は卵形、平滑またはしわがある。世界に約60種があり、日本には在来種3種があり、数種が帰化している。

(2) ムラサキ Lithospermum erythrorhizon Siebold & Zucc.

多年草。根は太く、色素シコニンを含み、乾燥すると濃紫色になり染料に用いられれる。茎は直立し開出した粗毛がある。葉は無柄、粗毛が密生し、数本のやや平行した脈が上面に凹んで目立つ。花冠は筒状、先は5裂し平開する。分果は白色で平滑。北海道、本州、四国、九州;東アジアに分布する。県内では、かつては丹沢や箱根の草原に多く点在し(箱根目58、丹沢目61)、山麓や丘陵地にもあった(横植誌68)が、乱獲と環境の変化で今は著しく減少し、県西山地のごく一部に稀に見られるだけである。「神奈川RDB」では絶滅危惧種、「国RDB00」は絶滅危惧ⅠB類とされた。

(上記書1174、1176ページより)

※文中引用文献は以下の通り)

  • 箱根目58:松浦茂寿、1958 「箱根植物目録」 箱根博物会
  • 丹沢目61:林弥栄・小林義雄・小山芳太郎・大河原利江、1961「丹沢山塊の植物調査報告. 林業試験場研究報告」
  • 横植誌68:出口長男、1968「横浜植物誌」秀英出版


その後の「神奈川県レッドデータブック」の分類では、ムラサキは「絶滅危惧ⅠA類」に分類されています。また、環境省の「絶滅危惧種情報検索」では

83メッシュのうち15メッシュで絶滅し、25メッシュで現状不明である。現存するのは33メッシュで数個体、8メッシュで数十個体、2メッシュで数百個体であり、総計約1000個体と推定される。平均減少率は約70%、20年後の絶滅確率は約30%である。管理放棄・植生の遷移による草地の縮小が減少の主要因である。園芸用の採集の影響も16メッシュで指摘されている。

と、全国的に見てもかなり希少な存在になってしまっていることが指摘されています。

絶滅危惧種となってしまった理由としては、どちらも乱獲とともに「環境の変化」「植生の遷移による草地の縮小」を挙げています。上記「神奈川県植物誌 2001」の記述には「丹沢や箱根の草原」と山地の草原を好むことが示されています。環境省の「絶滅危惧種情報検索」でも「丘陵の草地などに生える」としており、やはり日当たりを好む傾向にある様です。

ものと人間の文化史148 紫」(竹内 淳子著 2009年 法政大学出版局)では、紫の生息環境について次の様に解説しています。「武蔵野」の名前がしばしば出て来ますが、ここは後で触れる様に江戸時代にはムラサキの産地でした。

紫草はやや山地の、(すすき)(かや=イネ科)の生い繁る群落に多い。これは紫草の特性として、生育すると梢には日光を求め、反対に根元は直射日光を嫌うため、このように他の植物との混成群落によってうまく生育する。武蔵野の山野に多い薄は、紫草にとって好都合であったのだ。しかも火山灰に覆われている武蔵野台地は排水性が高いので、薄にも紫草にも好都合で、とりわけ紫草にとっては、この排水性の良い土地はありがたく、地下に主茎の太い宿根を伸ばし、その主茎に細い根(ヒゲ根)を生じて、水分を効率よく吸い上げている。染色に使うには、主茎だけでなく、この細根の根皮にも色素を有するので、少しでも多くの色素を得るためには大切であったのだ。

(上記書81ページ、ルビも同書に従う)



Sokokura by Hiroshige1.jpg
歌川広重「箱根七湯図絵」より「底倉」
遠方の山の上に、松の木が疎らに描かれている
("Sokokura by Hiroshige1"
by Utagawa Hiroshige - Museum of Fine Arts Boston.
Licensed under パブリック・ドメイン
via Wikimedia Commons.)
Hakone restored.jpg
歌川広重「五十三次名所図会」より
「はこね 山中夜行の図」
こちらも遠方の山の松は疎ら
("Hakone restored"
by derivative work: Torsodog (talk)
Hakone.jpg: Andō Hiroshige
- Hakone.jpg.
Licensed under パブリック・ドメイン
via Wikimedia Commons.)

火山灰性の土地が好まれるという点では、箱根火山の近辺に位置する底倉や矢倉沢といった村々も共通していると言えそうです。他方、ススキなどの草原が好適という点では、箱根には現在仙石原湿原の様な草原性の土地もあるものの、山地は大筋で森林化しており、草原になっている斜面は殆どありません。しかし、前回取り上げた「玉匣両温泉路記」では、宮城野村から道了権現へ向かう途上の様子を「木立なくして草のみしげれり。」(「江戸温泉紀行」板坂 耀子編 1987年 平凡社東洋文庫472 185ページより)と記していました。「風土記稿」の宮城野村の項(卷之二十一 足柄上郡卷之十)では「村内萩叢生せり、故に奥州の地名に擬して名づけにしや、」とその村名の由来を推測していますが、ハギは比較的荒れた土地に生える低木で、これも同地が森林の少ない土地であったことを言い表していると言えます。

また、上に掲げた歌川広重の浮世絵を良く見ると、遠方の山々は何れも松の木が疎らに見える様な描き方になっています。無論、江戸時代の箱根を通過した紀行では沿道の杉・檜などの多さを書くものも多く、箱根全体での当時の森林の比率がどの程度であったかは明らかではないものの、少なくとも現在の様に大半が森林と化しているのに比べれば、当時はまだ草地となっている斜面の比率が高かったと考えられます。

そして、この「玉匣両温泉路記」では、宮城野村からもムラサキが出たことを比較的詳しく記しています。道了権現からの帰路で宮城野村の茶屋に休む辺りの記述に、次の様に記されています。

この野に紫草(むらさきぐさ)あれば、みやぎのゝ里人、この根を掘取て江戸へいだす。つれたる男の、百草(ももくさ)のしげれる中より三もと尋出(たづねいだ)したり。雪まの若菜摘得(つみえ)しよりもうれしく、飯入たる網の(ふくろ)に入てもてり。

宮城野の里にきたり、くだものうる家にて又休む。…庭には紫草多くほしたり。

宮城野はむらさき生ふる里ときけば民草さへもあはれとぞ見る

といへば、「なつかしからぬものを」と皆笑ふ。

(上記書187〜188ページより、ルビも同書に従う、…は中略)


「箱根七湯志」宮城野辺・明神嶽図
「箱根七湯志」(間宮永好著)より
宮城野辺〜明神嶽の図
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
原正興を案内する村人が、道端のムラサキを見つけてその場で掘り出してしまうほど、当時は比較的多く生えていたのでしょう。庭で掘り出された紫根がたくさん干してあったという様子からも、産出量が多かったことが窺えます。

「風土記稿」の宮城野村の項には「村内狗脊・蕨・薯蕷・獨活・蕎麥の類を產す、」と産物が挙げられているものの、「紫根」は含まれていません。何故含められなかったのかはわかりませんが、底倉村の北隣に位置する宮城野村の紫根の産出する環境がこの様なものであったとすれば、恐らくは底倉村でも同様の草地の斜面があったのでしょう。

ともあれ、先ほどの「木立なくして草のみしげれり」という周囲の様子と併せて見れば、こうした環境がムラサキの生育にかなり有利に働いていたと見て良いでしょう。そして、現在の地形図で宮城野付近を確認すると、大半が針葉樹林記号や広葉樹林記号で埋められていることがわかります。「神奈川県植物誌 2001」の指摘する「環境の変化」の中には、こうした草地の喪失も含まれていると言えそうです。

因みに、「風土記稿」では底倉村と矢倉沢村の産物として紫根とともに「柴胡」を掲げていました。同書の記述では、「柴胡」だけを産出する村はあっても「紫根」だけを産出する村が記されておらず、これだけでは柴胡を産する環境と紫根を産する環境との近似性は良くわかりません。たた、時代が下って明治10年の「第1回内国勧業博覧会」では、「風土記稿」で柴胡が産出されるとされた村の1つであった久野村から、柴胡とともに紫根が出品されています。こうした記録からは、柴胡(ミシマサイコ)と紫根(ムラサキ)の生息する環境は似通っていたのではないかと思われます。

その点では宮城野村からも紫根とともに柴胡も産出してもおかしくなさそうですが、今のところそのことを裏付けられる記録は見つかっていません。ただ、「七湯の枝折」の産物に掲げられた「柴胡」の項では「筥根山中より出ル」としており、底倉村に限定していないことから見ると、あるいは宮城野村も柴胡を共に産出していたのかも知れません。

次回はこの紫根がどの様に流通し、利用されていたかを見る予定です。




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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

この記事へのコメント

管理人のみ閲覧できます - - 2015年05月04日 10:42:56

このコメントは管理人のみ閲覧できます

- きなこ - 2015年05月04日 23:12:37

いつもご訪問ありがとうございます
ココポイ! いただきました。ありがとうございます

Re: きなこ さま - kanageohis1964 - 2015年05月05日 12:43:23

こんにちは。コメントありがとうございます。

最近blogramで溜まったポイントを少しずつ配布してみています。今後ともよろしくお願いいたします。

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