「玉匣両温泉路記」の箱根外輪山越えのルート(その2)

前回は「玉匣両温泉路記(たまくしげふたついでゆみちのき)」(天保10年・1839年)中の熱海から箱根宿に向かう日金山・十国峠を経由する道筋について紹介しました。今回は宮ノ下滞在中に外輪山を越えて道了権現(大雄山最乗寺)に往復する道筋について見ていきます。

この紀行の5月2日(グレゴリオ暦:6月12日)の記述は次の様に始められます。

二日 空はれて、ちり雲もなし。

「明神嶽のあなた表に、最乗(さいじよう)寺といふあり。その寺に祭る処の道了(だうれう)権現は、江戸などよりも、と(尋)めくる也。小田原より六里あれども、この山こえゆけば三里あまりなれば、行見よかし」

と、宿のあるじのいへば、けふこそゆかめ。

(「江戸温泉紀行」板坂 耀子編 1987年 平凡社東洋文庫472 184ページより、ルビも同書に従う、くの字点はひらがなに展開、以下「玉匣両温泉路記」引用の扱いについても同様)


Daiyuzan Saijoji Temple 02.jpg
大雄山最乗寺境内の石畳
原正興は箱根から道了権現まで山を越えてきたことを
「筥根山木根(きのね)岩かどふみこえて
のりの花(さく)奥をたづねつ」と詠んでいる
("Daiyuzan Saijoji Temple 02"
by Σ64 - 投稿者自身による作品.
Licensed under CC 表示-継承 3.0
via Wikimedia Commons.)
つまり、この道了尊詣でを提案したのは宿の主で、著者の原正興が当初から計画していたことではなかった訳です。片道3里あまり(12km強)となれば、険しい山越えになることも考えると3時間以上は要すると思われる道程ですが、夕刻には何とか宿まで戻ることが出来る程度ということで勧めたのでしょうか。

江戸時代の箱根の湯治期間中に物見遊山に訪れる先としては、箱根権現(現:箱根神社)、あるいは早雲寺、正眼寺等の寺院、更には「賽の河原」や曾我兄弟の墓といった史跡などになるでしょう。正興が湯治に出掛けたのは菖蒲の咲く頃ではありますが、花を愛でるには少々時期が遅過ぎた様です。彼は箱根権現には熱海から日金山を越えてきた日に立ち寄り、そこから木賀に至るまでに沿道の主だった史跡を見てきていますが、早雲寺には江戸への帰路で立ち寄っており、あとは堂ヶ島へ降りて早川で釣りをした程度です。つまり、正興はそれほど足繁く箱根の名勝を見物して廻った訳ではありません。25日に木賀に着いた後、5月1日に久し振りに晴れるまで雨続きだったこともあって、出不精になっていたのかも知れませんが、こうした中で、宿から薦められたからとは言え、敢えて箱根の外輪山の外まで遠出しようという気になったのは、正興の関心を引く何かがあったのでしょうか。

ともあれ、今回も駕籠を借りて道了尊詣でに出掛けます。その途上で宮城野村を経由していますが、正興はこの先の仙石原の関への道筋についての記述も交え、明神嶽までの道中を次の様に記します。

案内たのみ、握り飯もたせ、()のとき(午前十時)ばかりに宿いでゝゆくに、宮城野の里にいたり、くだものうる家にてやすむ。この里は、(かむり)が嶽、明神嶽の間にて、家ゐも多く、駿河(するが)の国へこゆる道也。この里の次を千石原(せんごくはら)と云、関あり。これも小田原の殿より守らせ給ふ也。関こゆれば姥子(うばこ)の里とて、湯の泉あり。「眼病にいさをし有」と云。このさと過れば駿河国二岡(にのをか)のさとへ出る也と。その道を左に見て、明神嶽へ横さまにのぼり行に、二十丁ばかりは日金(ひがね)山こえしほどにて、かごも(ゆく)なり。夫より、ひとあしぬきにのぼる。石山にて、先に行人の足を頭の上に見てのぼる。右左谷ふかく、木立なくして草のみしげれり。木こり・かり人だに、なづむべきほどの細道二十丁程のぼれば、山少しなだらかに、道も広し。ひと息してのぼり(つめ)ぬ。峯より見わたせば、小田原のさとはるかに、海は只青く、酒匂川の流れは白く、ぬの引は(延)へたるごとし。

(上記書184〜185ページより)


宮ノ下から仙石原を経て御殿場方面へ抜ける道筋については、以前「箱根湯治場道見取絵図」に記されていることを紹介しました。正興一行はこの道を宮城野村まで進み、そこの茶屋で一息ついてから明神ヶ岳に向けて登頂を開始したことがわかります。


明治31年発行の地形図に見える宮城野〜明神岳の登山道
村役場記号の辺りから北北東に向けて伸びる道が該当するか
周辺の小名については「火山の地図」も併せて参照
(「今昔マップ on the web」より)

問題はこの登頂ルートですが、現在の地図で見ると「明神平」の辺りから外輪山の尾根筋に向かう登山道があり、外輪山上を「鍋割」「月代」を足下に見ながら進んで明神獄に至る道筋があります。この道筋は明治31年発行の地形図でも見えており(但し一部経由地が異なる様にも見える)、古くからある登山道ではある様です。ただ、この道筋が江戸時代まで遡るものかどうかは定かではなく、また「玉匣両温泉路記」上の表現を見ても、途中から勾配が急になって駕籠かきの前の人の足が頭の上に見えるほどと表現する辺りで「右左谷ふかく」とかなり切り立った尾根であった様に書いているのに比べると、この道筋は確かに一貫して尾根を進んでいるものの、地形図で見る限りでは左右の谷の深さはそれほどでもない様にも見えます。既に外輪山の尾根上に出た後の風景を書いているとも考えられますが、あるいは当時は別の登山道があったかも知れません。

街道として整備された道筋であれば、勾配のきつい場所では道をつづら折りに付けるなど多少なりとも勾配を宥める道筋にするのですが、正興の記述から考えると恐らくこの道ではその様な措置が施されておらず、急な尾根筋を直登する道筋だったのでしょう。荷馬などの通行が想定されていない道であったと思われます。

明神ヶ岳で遠方に見える石垣山を眺めた後、道了権現へと下っていくことになります。

この峯よりゆけば大山も近し。爰より山下りゆくに、水楢と云木並立て、道もをぐらし。こたびは先に行人の頭をふむばかりに、下りゆくこと、二十丁ばかりにして、沢水の流あり。喉乾たれば手に結びてのむに、冷なること、手き(切)るゝばかりなり。「山椒魚の住」とて、案内のをとこの岩間かきさぐりて、七ッ八ッ得たり。しばしのうちに、汗はうせて鳥はだとなれば、羽ばたきしてとび下りゆけば、権現のみ前に出たり。

(上記書185〜186ページより)


上掲の明治31年の地形図では、明神ヶ岳の辺りから最乗寺に向かう登山道が2筋ほど見えています。そのどちらを使ったかはわかりませんが、どちらも尾根筋を伝う道であり、正興が沢筋に降りたとする点とは噛み合わないとすれば、あるいは更に別の道があったのかも知れません。こちらも駕籠を担ぐ人の頭が足の下に見えるほどの急坂であったことが表現されていますが、これだけの急傾斜では駕籠に揺られるのも楽ではなさそうです。

途上で「山椒魚」を7,8匹捕まえてみせたことが記されていますが、この「山椒魚」が「ハコネサンショウウオ」であったかどうかは、この記述の限りではわかりません。ただ、駕籠をちょっと止めて岩場の奥をまさぐったらかなりの数が捕まった、というのは、この「案内のをとこ」が「山椒魚」のその様な生態を熟知していたことを窺わせます。あるいは、この沢筋も箱根宿や畑宿などで売る「山椒魚」の漁場になっていたのかも知れません。

帰路では同じ道を経て宿へ戻りますが、

爰(注:宮城野のこと)より旅ゐの宿までは二十丁にたらざれば、あゆむともなく帰りつきき。あるじのいできて、

「道いそぎ給ひけん、御かへりのはやさよ。(さる)の時(午後四時)過て程もなし。駒がたけには日かげのこれり」

とて、茶など煮て送れるにぞ、いそぎゆあみして、かれ飯たうべける。

(上記書188ページより)

往復の所要時間が6時間あまりだったことになり、片道12kmあまりの険しい山道の所要時間としては確かにかなり早いと言えそうです。その点から考えて、最乗寺にはあまり長時間は滞在しなかった様です。

「玉匣両温泉路記」位置関係図
「玉匣両温泉路記」位置関係図(再掲)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンショット)
さて、この道了権現への往復について、前回取り上げた「「湯治の道」関係資料調査報告書」(箱根町立郷土資料館編 1997年、以下「報告書」)では次の様に解説しています。

2日には、宮城野から明神嶽の稜線(四ツ尾峠カ)を越え、最乗寺往復しており、関所要害として通行が規制されているはずの同ルートが、実際には利用されていたことがわかり、注目される。

(上記書81ページより、強調はブログ主)


箱根山とその周辺には全部で6箇所の関所が設けられていましたが、「関所破り」を防ぐ目的から、その周辺の山々を「御要害地」として指定し、旅人の入山を禁止していました。元文4年(1739年)には、小田原藩が規定を触れて「要害山」や芦ノ湖の規制を明文化しています。その中では、各関所が管轄する「要害山」が次の様に定められています。

箱根御関所

一、御要害山々

榎沢林 屏風山 文庫山 神宮山林

右四ケ所竹本一切伐取不申候様ニ、前々ヨリ申付置候、

鞍掛山 孫助山 駒ケ嶽 二子山 堂ケ嶋

駿河津ヨリ往還境木迄

右之分御関所御要害ニ而御座候、以上

仙石原御関所

一、御要害山々

台ケ嶽 但、裾通ニ而ハ前々ヨリ薪木伐来候、

地獄山 剣ケ峰 紋右衛門平右

五(四)ケ所御要害ニ付、前々ヨリ竹木一切伐取不申候様ニと申付置候

(「山の関所 箱根/うみの関所 新居」2010年 箱根町立郷土資料館 40〜41ページより、原文は「神奈川県史 資料編9 近世(6)」391〜394ページ、…は中略)


「報告書」の指摘はこの辺りを意識したものと思われます。その点では、前回取り上げた熱海から箱根への道筋もその途上で「鞍掛山」を経ており、こちらも要害山を外部の人間が通過していた事例ということになるでしょう。

しかし、この道了権現への道筋を良く観察すると、矢倉沢関〜仙石原関〜箱根関の要害地を超えてしまう様な道筋とはなっておらず、その点では禁制に抵触する筋合いのものではないと考えられていたのでしょう。無論、道筋を外れることは御法度であったでしょうが、道から逸れてしまうことがなければお咎めはなかったのでしょう。同じことは熱海〜箱根間の日金山越えの道についても言え、箱根関〜根府川関の線よりは一貫して西を進んでいる点で、この道から逸れない限りは問題視されなかったのではないかと考えられます。

また、宮城野村については足柄上郡に所属しているのに「温泉道見取絵図」で「足柄下郡」と恐らく誤って記されたことを以前紹介しました。宮城野村が仙石原村共々足柄上郡に所属していた理由は定かではありませんが、外輪山の北側の関本村などの村々と同じ「苅野荘」と称されていたことから考えると、荘園制の盛んな頃からこの2村が足柄上郡に所属していた可能性が高いのではないかと考えたくなります。その際、間にそびえる箱根外輪山を敢えて越えてまでカルデラ内の2村とその外側の村々とが、どの様な交通路で結ばれていたのかが気になるところですが、あるいはその頃から「外輪山越え」の道があったのかも知れません。

とすると、江戸時代の外輪山越えの道も、道筋はさておき古くからの通行が維持されていたことを示すものと言えそうです。少なくとも、「要害山」指定の後に新たな道を付けることはなかなか許され難いと思われ、この道は要害指定以前からあったと考える方が筋が通りそうです。こうした古くからの交通を必要以上に遮断したり制限したりすることまでは、要害を定める目的であっても出来なかったということでしょう。

更に、そもそも「要害山」として指定されている中には「堂ヶ島」の様な温泉地まで含まれており、そこには当然温泉宿などが存在しますから、諸々禁制は定められていたとは言え、その地域内のあらゆる活動が締め出されていたということでは必ずしもないという点には注意すべきなのかも知れません。

もっとも、この険しい山を越えて1日がかりで道了尊まで往復するというのは流石にあまり例がなかった様です。再び「報告書」で箱根から道了尊へ詣でているものを探すと、この中では明らかに外輪山を越えているのは「箱根紀行」(慶応2年・1866年 小川 泰堂著、「報告書」113ページ)の1本だけでした。他に、「慊堂日暦(こうどうにちれき)」では連れの「斎藤生」が道了尊へ詣でたことを記しているものの、著者の松崎慊堂自身は箱根に留まっています。「報告書」では「斎藤生」が辿った道筋について記していませんが、この「慊堂日暦」は平凡社東洋文庫で読めるので該当箇所を探すと、

(注:五月十六日・グレゴリオ暦6月25日)斎藤生はこの日主人と最(ママ)寺に游ぶ。寺は山北三里余に在り、余はかつて游べり。午後、汝貽と木賀温泉に出游す。…夜の初鼓に斎藤生諸人帰る。

(「慊堂日暦3」山田 琢 訳注 1973年 平凡社東洋文庫237 166〜167ページより、…は中略、傍注はブログ主)

「山北三里」という記述と、「斎藤生」に宿の主人が同伴しており、この主人が道筋を手引きしていると考えられること、暮れの太鼓(日没頃か)には宿に戻ってきていることを考え合わせると、恐らくこの時も外輪山を越えて往復してきたのでしょう。慊堂自身は以前行ったことがあるので、敢えて再び行くまでもないと考えた様ですが、その際に何処から最乗寺に向かったのかはわかりません。

上記以外に箱根から最乗寺に向かったものを「報告書」から拾うと、
  • 「湯澤紀行」:天和4年・1684年 最乗寺への道筋については不明(17〜18ページ)
  • 「函嶺日記」:文化11年・1814年 箱根からの帰りに温泉道経由で湯本・小田原で宿泊したのちに最乗寺詣で(60〜61ページ)
  • 「道了権現箱根権現七湯廻紀行文章」:文政5年・1822年 十返舎一九の、どちらかと言うと案内ものか(68〜69ページ)
  • 「箱根温泉湯治ノ件 江の島・鎌倉・金沢順廻」:安政6年・1859年 明記無いが道了山がルートにありながら箱根から向かった形跡が無いので、恐らく小田原に出てから向かっている(90〜91ページ)

小田原を経由している、もしくはその可能性が高いものが多く、外輪山を越えたことがわかるものはありませんでした。如何に近道と行っても片道3里あまりの急峻な山越えでは、流石にここを越えてまで道了尊まで往復しようと考える人は少なかった様です。

その点で、この人通りの少ない外輪山越えの道筋について、周囲の様子も含めて書き記された「玉匣両温泉路記」は貴重な存在と言えるでしょう。

「玉匣両温泉路記」は、上記の「山椒魚」のくだりもそうですが、道中に目にしたものについての記載が比較的豊富で、当時の沿道付近の産物について考える上でも示唆的な存在と言えると思います。正興の道了権現往復の際に目にしたものについても幾つか記載がありますが、これについては、「新編相模国風土記稿」の産物について次回以降まとめる際に改めて引用する予定です。
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