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↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

「玉匣両温泉路記」の箱根外輪山越えのルート(その1)

前回玉匣両温泉路記(たまくしげふたついでゆみちのき)」(天保10年・1839年)を取り上げました。今回はこの温泉紀行に登場する、江戸時代としてはあまり例がない道取りを取り上げて考えてみたいと思います。


日金山付近の明治31年発行地形図
「日金」と書かれた下の寺院記号が日金山東光寺で日金地蔵堂
(「今昔マップ on the web」より)
原 正興(はら まさおき)は4月24日(グレゴリオ暦:6月5日)まで熱海に滞在し、翌25日に駕籠に乗って箱根に向かいます。そのルートに選んだのが日金山(十国峠)を経由するルートでした。

この道筋は、現在の静岡県道20号線(熱海箱根峠線)の東側をほぼ並行して尾根筋を進んでいましした。「今昔マップ」で地図を切り替えると、昭和初期には現在の県道に相当する道が出来、そこに「自動車専用道」と記されています。江戸時代当時の道筋を現在進むことは、一部がゴルフ場などによって分断されていて不可能です。

前回引用した十国峠越えの途上の茶屋は日金地蔵堂(現在の日金山東光寺)の前にありました。「玉匣両温泉路記」ではその付近の様子を次の様に記します。

また三十丁のぼりて、日金地蔵堂あり。七尺程の唐銅(からかね)のみ像也。右の方、小き堂に十六羅漢(らかん)にや、(ちさ)き仏さまざまの形したるあり。彩色はげ損じたれ共、むかし名ある人の作りたるものと見えて、たゞならぬ木像也。左に鐘楼もあり。五輪の塔など、(こけ)むしたるみ(見)ゆれば、「ゆゑあらん」とと(間)へども、誰も「しらず」といふ。鎌倉北条のころ建立(あり)しと聞しに、三ッうろこの紋(小田原北条氏の紋。ただし鎌倉北条氏の紋も同じ)見えたり。

(「江戸温泉紀行」板坂 耀子編 1987年 平凡社東洋文庫472 170ページより、ルビも同書に従う、くの字点はひらがなに展開、以下「玉匣両温泉路記」引用の扱いについても同様)


この地蔵堂は源頼朝建立と伝わるものですが、委細を知りたいという正興の問に応えられる人がいなかったということは、当時住職は不在だったのでしょうか。少なくとも、門前の茶屋が人通りが少ないために茶菓を取り扱わなくなっていたことから見て、当時は参拝に訪れる人もあまり多くはなかった様です。また、この道筋を通る人も少なかったのでしょう。

ここからもう少し北へ進んだ辺りが十国峠で、現在は県道からケーブルカーで頂上に登ることが出来ます。正興を乗せた駕籠はここで一旦休止し、曇り空の生憎の天候ながらもしばし眺望を楽しんだ様です。

「こゝより箱根までは家もなし」ときくに、しきりと呼子鳥(よぶこどり)のなけば、

こえて行さきこそしらね日金山いかにせよとか呼子鳥なく

爰を出て十四五丁行、碑あり。かねてきく、「十国五嶋眺望の地なり」と。かごより下りて見るに、北風つよく吹出て空くもり、其国々のめあて、さだかにはしれねども、山は千重にかさなり、海は空もひとつになるまで見わたし、絵の道しらば筆とりてうつさまほしきけしき也。碑をみるに、

伊豆国加茂郡日金山頂、所観望者十国五嶋。自子至卯相模国・武蔵国・安房国・上総国・下総国。自辰至申其国所隷之五箇嶋及遠江国。自酉至亥駿河国・信濃国・甲斐国

天明三年八月東都林居士諸(ママ)出雲国光英源清候等応熱海里長渡辺房求之需建之

五嶋は大嶋・新嶋(にひじま)・初嶋・(つくだ)嶋・()嶋などを云か。三宅は大嶋につゞきて大なる嶋なれども、とはくして見えまじくおぼゆ。かごの男にとへども、まちまちにてわからず。はれたる日に今ひとたびみ(見)まほしきみはらし也。またのぼりつ下りつ行に、左のふもとに畑つゞき家ゐ見ゆるは北条の里也。蛭が小嶋の跡は少しこなたにありといふ。

(上記書170〜171ページより)


ここで紹介されている石碑は、同じ碑文を刻んだものが現在も十国峠に置かれているものの、その碑文が白ペンキでなぞられるなど補修されており、正興が見たものとは若干趣が異なる様です。とは言え、天明3年(1783年)に石碑が設置されているなど、名勝地として知られる地であったことは確かでしょう。

この先で遠方に見える石橋山古戦場について記した後、その先の箱根の宿場に下りるまでの道筋については次の様に書いています。

爰を過行まゝに、杉ひと木立たる処あり。伊豆・相模の国境にて、熱海より三里、箱根の(うまや)まで弐里。こゝより山も箱根と(いふ)と。富士山真向(まむかひ)にいと近く見ゆ。

雲をふむ箱根の山のみねにても猶雲の()に不二は見えけり

又行て擂鉢(すりばち)建場(たてば)と云所にて休む。家もなく山の少し平らなる所なり。山の尾八方より引て谷あり。擂鉢の形したる故に云なるべし。此辺芝山にて木立はなし。ひときわけは(険)しき山をのぼり(いた)れば、海め(日)の下にみゆるにおどろき、

「又、海辺へ出たり」といへば、

「これ(こそ)箱根の(みづうみ)なれ。しほうみにはあらず」

と云。目とめてみれば、(きき)しよりも広く大なり。是を万字湖と云。谷の間を廻りて、形(まんじ)に似たり。駒嶽(こまがたけ)冠嶽(かんむりがたけ)、向に見えて見はらしよろし。爰より下り坂なれば足はやく、ひとつの池の(みぎわ)に下りつきたり。これをマヽの池といふ。「この山に池七ッ有。そのひとつ也」と云。この池を右に見てゆけば、程なく箱根の駅にいづ。

(上記書172〜173ページより)



昭和23年発行地形図に見える「野馬ヶ池」
位置関係からこれが「マヽの池」か
明治期の地形図には描かれていない
(「今昔マップ on the web」より)
一行が芦ノ湖を眺望しているのは、道筋から考えると恐らく鞍掛山の辺りかと思います。その手前に「擂鉢の建場(立場)」があったとしていますが、これは地形から見て県道20号とターンパイク箱根や湯河原パークウェイが合流する辺りの尾根の鞍部が該当しそうです。

ここに出て来る「マヽの池」ですが、「今昔マップ」で該当するものを探すと、昭和23年の地形図に「野馬ヶ池」があり、「この池を右に見てゆけば、程なく箱根の駅にいづ。」という位置関係とは上手く照合します。名称が合わないのは別の名称があったのか、それとも正興の聞き損じかは定かではありません。なお、この池の周辺は現在ゴルフ場になっており、池も埋め立てられた様です。

熱海と箱根の両方の温泉で湯治をするとなれば移動距離が長くなりますし、その間に費やす費用も嵩んでくる上に、熱海は江戸から向かうと根府川の関越えに手形が必要になるという煩わしさも手伝って、流石にそれほど事例としては多いものではなかった様です。とは言え、「玉匣両温泉路記」の始まりのところで

ある人、

「そこの病には、温泉に浴し、滝に頭うたするならば、たちまちにいゆべし。伊豆(いづ)国なる水鳥の加茂郡(かものこほり)熱海(あたみ)の温泉、相模(さがみ)国箱根山の七処の温泉は世人のしる処なり。そが中に(みや)()てふ温泉は、わきて気のぼる病にいさをし(あり)

といへば、武蔵鐙(むさしあぶみ)かけまたぎたれども、玉匣(たまくしげ)ふた処にゆあみして、年ごろのくるしみを忘れまほしく、三とせ四とせ前に思ひ(たち)しに、かにかくに(さは)ること有てやみぬ。

(上記書129ページより)

と、正興が出発の数年前から人に勧められ、実現を望んでいたことは確かですから、それ程異例という訳でもなかったのでしょう。

箱根町立郷土資料館がまとめた「「湯治の道」関係資料調査報告書」(1997年)という、箱根の温泉場に滞在したり通過したりした史料を一覧にし、簡潔なダイジェストをまとめた資料があります。これを使って、「玉匣両温泉路記」以外の箱根と熱海の両方に湯治に訪れた記録を探すと(ページ数は調査報告書のもの)、

  • 日金山を経由している例:
    • 「相豆紀行」安永2年(1733年):熱海から箱根へ。塔之澤で入浴(28ページ)
    • 「箱根熱海温泉紀行」嘉永3年(1859年):明記は無いが箱根関所を越えて伊豆大仁に向かっているので、恐らく日金山を経由していると思われる(86〜87ページ)
  • 小田原を経由している例:
    • 「宮下熱海入浴中之愚詠」文政13年(1830年):宮ノ下から熱海へ(75ページ)
    • 「澡泉前後録」天保5年(1834年):熱海から小田原を経由して芦之湯へ。因みに翌年には熱海から三島を経て箱根に向かっている(77ページ)

他に、箱根←→熱海間の移動ルートが不詳なものとしては天保3年(1832年)の「豆相温泉記」(76ページ)があります。これも原文を当たれば委細が記されているのかも知れません。

「玉匣両温泉路記」位置関係図
「玉匣両温泉路記」位置関係図
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンショット)
こうして見ると、やはり箱根と熱海の両方を訪れた例は多くありませんが、その中でも外輪山を日金山・十国峠経由で越えるルートと、小田原を経由して外輪山越えを回避するルートの2通りがあったことがわかります。

小田原から熱海までは約23km、箱根でどの温泉宿に滞在するかによっても変わりますが小田原から湯本までが約5km、小田原から宮ノ下付近では約11kmありますから、かなりの遠回りになります。他方、十国峠経由の道については正興が伊豆と相模の国境で「熱海より三里、箱根の駅まで弐里」と記していますから、合計で5里、つまり約20kmで箱根宿に入ります。その先の各温泉までは更に距離があるとは言え、塔ノ沢や湯本まで下るのでなければこちらの道筋の方が近道であったことは確かでしょう。とは言え、十国峠は標高が771mあるものの、この道筋の最高地点はここではなく、鞍掛山の1004mまで尾根を辿りながら更に登って行くことになるので、かなりの健脚を要求されることは確かで、正興もこの時は駕籠に揺られて移動していた訳です。

次回は宮ノ下から道了権現を詣でた際の道筋にまつわる問題を検討します。




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