「玉匣両温泉路記」の「くだもの」

今回は、先日まで取り上げた「新編相模国風土記稿」の産物に記された果実類の、いわば応用編です。天保10年(1839年)の湯治の旅を書いた「玉匣両温泉路記(たまくしげふたついでゆみちのき)」の中に出て来る、「くだもの」について考えてみたいと思います。

「玉匣両温泉路記」については、以前も「江島道」について取り上げた際に、街道周囲の様子を紹介する一環で一部を引用しました。また、畑宿について取り上げた時には「腹赤=うぐい」の紹介に際して、その部分を引用しています。ただ、何れの時にもこの「玉匣両温泉路記」については特に紹介していませんでしたので、ここで簡単にあらましを記しておきます。

この温泉紀行文は、原 正興(はら まさおき)という人が湯治のために熱海と箱根の温泉へと旅した際の様子を書いています。この人物について、東洋文庫版の解説では

『玉匣両温泉路記』の作者原正興(はらまさおき)の経歴ははっきりしない。作品中に、江戸見坂のみ館、沼田の舒林寺云々の記事があり、また、弟子たちがいたり、友人に「文の林に遊んで」と言われたりしていることから、学をもって沼田藩に仕えて江戸詰だったのではないかと思われる。生没年等もわからない。ただ、この旅のときには、すでに五十歳近かったことは、本文中の和歌によって推察できる。

(「江戸温泉紀行」板坂 耀子編 1987年 平凡社東洋文庫472 329〜330ページより、ルビも同書に従う、以下「玉匣両温泉路記」引用は何れも同書より)

としています。現在に伝えられているものは写本ですが、これは現在国立国会図書館が所蔵しており、同図書館の「デジタルコレクション」で公開されています。

その書き出しで「おのれ気のぼる病ありて、頭いたみ眼に煩ふこと年久し。」と前々から持病を抱えていたことを記し、その治療に熱海と箱根の温泉が良いと勧められて、同年の4月14日(グレゴリオ暦:5月26日)に江戸を出発し、翌々日に熱海に到着して24日まで滞在します。その後箱根外輪山を十国峠で越えて箱根に入り、木賀や宮の下、堂ヶ島に滞在しながら湯治を続けます。しかし、箱根では「おのれも目あしきは、ゆのふさわしからぬにこそあらめ。」と湯治の効果はあまり得られなかった様で、予定した日程には満たないものの、5月5日(同6月15日)に箱根を発ち、帰路に江の島、鎌倉、金沢を巡って4日後の9日に江戸へと帰り着きます。

この紀行文を読んでいて、ふと気になったのが文中に「くだもの」という表現が幾度となく出て来ることです。差し当たって数ヶ所からの引用を並べてみます。

(注:四月十四日、戸塚にて)馬より下りて、松本屋と云やどを尋行(たづねゆく)に、宿の中ほど左に松本としるしたる家あり。松もひと木(ばかり)にはあらじ。我尋る松本のあるじは十郎左衛門とこそ云なれ。いかにとたゝずみて、内を見こめば、家刀自(いへとじ)はみしる人なれば打通り、

「日は高くとも宿かし給へ。よとゝも物語せん」

といへば、主もかぎりなく歓び、おくの一間のちり打払、ともなひゆき、「足のべて(つかれ)を休め給へ」と茶・くだものなどいだす。

(上記書137ページより、強調はブログ主、以下同じ)

十八日(注:熱海の宿にて) 空よく晴、風もなし。此里人は、朝起出ることをいそがぬにや、日のぼるころ家ごと起て、朝げのけぶりたつる也。十二三ばかりのをとめの、門明ると入来りて、「くだもの・もちひ、買給へ」と重箱にいれ来る。よたり(四人)も五人もつどひて、湯の宿毎に行也。田舎の習ひに、起ると(まづ)くだもの・餅のたぐひ茶受(ちやうけ)とてくひ、其後飯くふ事也と云。

(上記書152ページより)

廿七日(注:宮の下の宿にて) をやみなく雨ふる。午どき過るころ、神鳴、雨わきてつよし。挽物細工うる女、もちひ・くだものなどうる女、をりをりと(訪)ふばかりにて、けふもくれぬ。

(上記書181ページより、くの字点はひらがなに展開)

(注:五月二日)宮城野の里にきたり、くだものうる家にて又休む。この里の蕎麦(そば)は、信濃(しなの)国の名ある里より出すよりも、(あじは)ひことなるよし。既にこの家にて、そばもうれども、麦かり田うゑするいそしきころなれば、やすめり。あるじの女の、

「前の谷川に山目と(いふ)うを多くすめば、湯あみにきたまへる都人も、それとらんとて網もてきてなぐさみ給へば、そばもまゐ(進)らする也。わどの(和殿)も日をさだめて来給へかし。そば打てまゐらせん」

(上記書187ページより)


この他、江の島でも「くだもの」を売る店を見たり、金沢では「くだもの」を売る姥が道案内をするなどの記述が見られます。

宮城野では「くだものをうる家」が蕎麦も売っていることから、こういう店は普通は「茶屋」などと表現されることの方が多かったと思います。このため、正興が「くだもの」に果実以外のもの、茶菓全般の意味を含めている可能性はないかとも考えてはみたものの、上記の熱海や宮の下滞在中の記述の様に「くだもの・餅」等とわざわざ分けて記していたり、他にも例えば次の様に

(注:二十五日、十石峠越えの途上で)また三十丁のぼりて、日金地蔵堂あり。七尺程の唐銅(からかね)のみ像也。…茶うるふせ屋にて休み、「菓子にてもなしや」と尋るに、「このごろゆきゝ(往来)すくなければ用意せず」と云。かごのをとこは握り飯もてきてくふ。「こゝより箱根までは家もなし」ときくに、しきりと呼子鳥(よぶこどり)のなけば、

こえて行さきこそしらね日金山いかにせよとか呼子鳥なく

(上記書170ページより、…は中略)

(注:二十五日、箱根権現にて)左に石の鳥居有。湖につきてまがれば権現の宮居へ行。爰に家ゐ十四五軒あり。茶・もちひ藁沓(わらぐつ)などうる也。もちひうる家より、「案内つれて道すがらの名所きゝたまへ」と云。「たのむべし」といへば、十二三ばかりのをとめをいだす。

(上記書174ページより)

茶屋で売るものを個別に記し、その中で「菓子」「もちひ」と書き分けていることから見ても、「くだもの」が果実以外のものを指し示していると捉えるのは無理があるでしょう。

この記述がふと気になったのは、この紀行の季節が初夏の頃であることに気付いたからでした。この紀行で度々登場する「くだもの」には、果たしてどんなものが考えられるでしょうか。

以前「初物」について書いた際に紹介した寛保2年(1742年)の触書から、果物またはそれに類するものの部分を抜粋すると

一ひわ   五月節ゟ    一真くわ瓜 六月節ゟ

一りんこ  七月節ゟ    一なし   八月節ゟ

一ふとう  八月節ゟ    一御所かき 九月節ゟ

一くねんぼ 九月節ゟ    一みつかん 九月節ゟ

(「神奈川県史 資料編7 近世(4)」177〜178ページ「魚・鳥・野菜等売出時節定につき触書」より一部抜粋、変体仮名は適宜置き換え)

辛うじて「びわ」が旧暦5月になって初物が出まわるくらいで、あとは何れも正興の旅した季節には合いません。初物を逸早く売るにしても、未熟な果実では売り物になりませんから、特に旅の前半の戸塚の宿では、びわが出るには早過ぎるのではないかという気がします。

本草図譜巻六十六「枇杷」
「本草図譜」より「枇杷」
前頁に「人家多く栽」と記す
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
とは言え、江戸時代初期の農書である「農業全書」にも

枇杷ハ、諸菓に先立て熟しめづらし。土地のきらひもさまでハなし。大かたの土地にハ盛長してなる物なり。但砂地にハよからず。余地あらバ多くもうゆへし。都近き所にてハ、利潤ある物なり。是に甘きと酸きとあり。ふとくして、甘きたねをゑらびてうゆべし但あぢも大小も、多くハ地によると見えたり又大きハ雉子の卵のごとく、核子なき物、唐にハありと見えたり。又木の節なく直なる所、木刀にして無類の物なり。

(「日本農書全集 第13巻」農山漁村文化協会 159〜160ページより、ルビは省略、くの字点はひらがなに展開)

とあり、びわの栽培法が江戸時代初期からあったことは確かです。びわの栽培が盛んになって来るのは江戸時代後期になってからの様で、「玉匣両温泉路記」の天保の頃にはかなり栽培はされていた様です。但し、相模国に限った際にはびわがどの程度植えられていたかを裏付けられる史料を今のところ見出せていません。

一方、以前梨について紹介した際には、シーボルトが旧暦の4月にも拘らず前年の梨が巧みに保存されて街道の店で売られていることを書いた箇所を引用しました。「玉匣両温泉路記」も同じ4月に出発していますから、その点では正興が見たの「くだもの」にも保存された梨が入っていた可能性もありそうです。また、蜜柑についても相応に保存方法があり、「農業全書」が「三四月まで、大概そこねぬ物なり」と書いていることから考えると、上手くすれば「玉匣両温泉路記」の頃に間に合ったのかも知れません。因みに、「農業全書」や江戸時代末期の「広益国産考」といった農書には、干柿や串柿の作り方は記されていますが、これらの保存期間については記されていませんでした。

何れにせよ、正興ら(出発から帰着まで「光興ぬし」という同行者と行動を共にしている)の宿に若い娘らが売りに来ていた「くだもの」は、こうしたもののうちの何れかではあったのでしょう。

ところで、これだけ色々な所で「くだもの」が売られていたと記す割には、当の正興がこれらを食したとする箇所がありません。十国峠では茶請けの菓子がないのか尋ねているものの、傍らで駕籠かきが握り飯を食べていることを書いていることから見ると、この時には長い上り坂を籠で揺られて少々小腹が空いていたのかも知れません。それ以外の時には基本的にはこうしたものに手を付けなかったところを見ると、それほどの食道楽ではなかった様です。まぁ、目的が湯治ですから、その辺はこの道中の「節度」だったのかも知れません。
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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

この記事へのコメント

管理人のみ閲覧できます - - 2015年04月26日 10:18:06

このコメントは管理人のみ閲覧できます

- 趣美人( しゅみびと)MAKKY - 2015年04月29日 09:43:37

毎回歴史について楽しく拝見させていただいています。凄い考察力には、ただただ頭が下がる思いです。

Re: 趣美人( しゅみびと)MAKKY さま - kanageohis1964 - 2015年04月29日 12:34:45

こんにちは。コメントありがとうございます。

今回はちょっと目先を変えたいという思いもあって、この温泉紀行を取り上げてみました。江戸時代の様子が多少なりとも窺えるものになれば良いなと思います。今後ともよろしくお願いいたします。

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