蜜柑について:「新編相模国風土記稿」から(その3)

Chōsen Tsūshin-shi Raichō-zu.jpg
「朝鮮通信使来朝図」延享5年頃 羽川藤永筆
("Chōsen Tsūshin-shi Raichō-zu"
by Collection of The City of Kobe Museum of Art,
the Hajime Ikenaga Gallery - 神戸市立博物館.
Licensed under Public Domain
via Wikimedia Commons.)
前回に続き、今回も「新編相模国風土記稿」の産物一覧に記された「蜜柑」について見ていきます。

相模国の蜜柑について何か触れている道中記や紀行文の類がないか探してみたところ、意外にも朝鮮通信使の書いた紀行文の中に例があることに気付きました。享保4年(1719年)に徳川吉宗の即位を祝す信書を奉じて、江戸時代に入ってから9度目となる朝鮮通信使が派遣されました。その一行に製述官として随行した申維翰(シン・ユハン)が、その江戸への往復の様子を記録したものが「海游録」です。

この「海游録」に、江戸を発って東海道を西へ向かう帰路の途上で、蜜柑の木に実がなる様子を目撃し、またその味を確かめる様子が記されています。

(注:十月)十七日丙辰。雨が微々として絶えず、早く(注:藤沢を)出発して行くこと十余里、村里の左右に見る橘、柚、柑の諸樹は、江戸に向けて行った時は、実が枝いっぱいに累々として青く、食うに堪えなかった。今は、色が黄色いまっさかりで、異香郁々として人の裾を侵す。その味の爽やかにして甘い者は、倭では蜜柑と号す。樹陰を過ぎるごとに、倭人が、数十顆がつらなるその枝を折って(きょう)(注:朝鮮の輿)中に投じてくれた。ただちに皮を披いて嚼むと、香ぐわしい果汁が渇した喉をうるおし、とみに五官がやわらぎ、安期生(昔、長生した仙人)の火棗もまた羨ましくないほどである。

大磯で昼食をとり、小田原に着いた。…

十八日丁巳。晴。未明に出発し、まさに箱根嶺を登らんとした。…

嶺を踰えて館にいたり、山峡に満ちる楓林を見ると、行くときのようすは改まって深紅となり、ますます奇観をなす。しかし富士山は雲霧の中にあり、行くときの旧面目は得られず、やや失望した。

湛長老が禅儀を遣わして安否を問い、蜜柑一籠をとどけてきた。清香が口中に溢れる。…

昼食をおわり、轎に乗り換えて箱根嶺を下りる。夕刻、三島に宿す。

(「海游録 朝鮮通信使の日本紀行」姜在彦訳注 1974年 平凡社東洋文庫252 221〜223ページより、…は中略、括弧内「注:」としたもの、及びルビはブログ主による)


文の順番をそのまま追うと大磯の手前で蜜柑を食べた様にも読めますが、往路で藤沢に宿泊した際に「これを過ぎて以後は、江戸にいたるまで、すべて武藏州の地である。」(上記書172ページ、実際は戸塚宿の先の境木までが相模国)と記すなど、位置関係の記述はあまり精度が高くない面もありますので、その点は割引いて読んだ方が良いでしょう。


前川付近の明治29年修正・明治31年発行地形図
迅速測図ではこの付近に「櫁」の字が見える
(「今昔マップ on the web」より)
「風土記稿」で蜜柑の産地として記された村の中で藤沢〜小田原間の東海道筋に位置する村という条件に合うのは、前川村とその周辺ということになります。通信使一行が見た蜜柑の木も恐らくはこの近隣の村々の沿道のものだったのでしょう。旧暦の享保4年10月17〜18日はグレゴリオ暦では1719年11月27〜28日、つまり晩秋の頃で、箱根山中の楓の紅葉もそうした季節を裏付けています。恐らくは轎上からの所望に応じて、通信使に随行していた幕府側の役人が蜜柑の実を届けさせたのでしょうが、一行が採れたての蜜柑を存分に堪能したのは確かな様です。因みに、往路でこの区間を通ったのは9月25日(グレゴリオ暦11月6日)、20日あまりの間に実が完熟していたことになります。




江戸時代の江戸や京都では、(ふいご)祭で屋根から蜜柑を投げ、これを子供たちが受け取って食べる風習がありました。縁起物として扱われた訳ですが、これに関連して少々気になる記述を見つけました。

旧暦十一月八日はふいご祭の日である。

この日、鋳物屋、石屋、刀鍛冶、農具鍛冶など、日頃、ふいごを使う職業の人達が職場を掃き清め、火の安全、(わざ)の向上を火の神に祈願する日である。みかんや、搗きたての餅を、それぞれの家の屋根から近所の女や子供らを集めて投げ餅をする習慣が江戸時代からあった。

旧暦十一月は紀州みかんの入荷も盛んとなり、江戸市民はこの日を楽しみにしていた。講談や物語にある「紀国屋文左衛門」が勇躍、暴風雨の中を紀州からみかん船を江戸に漕ぎ出したというというのもこの日のためであった。その年の秋は今日でいう台風がひんぱんに日本を襲い、江戸には一粒の紀州みかんもなく、ふいご祭にみかんを撒くこともできぬと、江戸のみかん問屋も、鍛冶職人なども気をもむ中で、男紀国屋の度胸と商魂によって、無事ふいご祭にみかんを撒くことができた。江戸市民は喜び喝采を送った。それと共に文左衛門も大金を得たという。

…しかし、ふいご祭用需要も、明治に入り消えていった。それはふいご祭が新暦十一月八日となり、美味な紀州みかんはまだ入荷なく、その代替として静岡、神奈川の()っぱいみかんをまいたので、追々市中で人気がなくなり、絶えた。

(「子規と四季のくだもの」戸石重利著 2002年 文芸社 89〜91ページより、ルビも原文通り、…は中略、強調はブログ主)


時代が明治に入った頃の話ではあるものの、静岡や神奈川から酸っぱい蜜柑が東京へと入る様になったということが記されています。

既に紹介した「大和本草」や「本草綱目啓蒙」でも、相模国は蜜柑の名産地としては記されていませんでした。これらの書物で挙げられていた名産地以外の蜜柑の評価については、幕末の農書である「広益国産考」が次の様に記しています。

遠州浜名辺にて少々作り出せども、味ひ紀州にハ少し劣れり。其外より作り出せども酢気あり。

(「日本農書全集 第14巻」農山漁村文化協会 383〜385ページより、ルビは省略)

要するに紀州などの名産地のものより酸味が強いという評価がなされている訳です。その点ではやはり、名産地の蜜柑よりはどうしても一段下という評価だったと言わざるを得ないでしょう。

時代が下って大正の頃には、こうした評価に対応すべく、収穫した蜜柑を冬季に貯蔵して熟成させることで酸味を減らし甘味を増す工夫をする様になりました。これを市場の端境期に出荷することで希少価値によって高値で取引される様になったことが、上記「子規と四季のくだもの」にも記されています(88ページ)。

ただ、蜜柑の長期保存の方法は江戸時代初期の農書「農業全書」でも次の様に詳細に記されており、早い時期から知られていたことが窺えます。

◯又柑類、冬熟したるを収め置法、日かげの、湿気なき所に、広く穴を掘、松葉ぜうがひげにても、下に厚くしき、廻りにも置て、湿気のあがらぬほどをはかりて、十一月初比など橘いまだ熟せざる時、ほぞのきハ一二寸枝を付て一つ一つ切取り ミかんに手のあたらぬ様に、くきを取、そろそろとあつかふべし。或地になげ、手にて子をとれバ久しくこたへず。此切取事肝要也籠を木につり、しづかに入べし。かりそめにも、なげ入べからず。物にあたりたる所ハ、其所より腐り入物なり。誤り地におとしたるをバ、別にのけをくべし。夏までも久しくをくべきならバ、湿気なき所に穴をほり覆をし、細き竹か、又ハうつぎにても一方をそぎ、すの中にミかんのくきをさし、一つづゝ付合ぬ程に指べし。是ハ多くならぬ事なれバ、穴の中に青松葉を厚く敷てつきあハぬ程にし、 間にも松葉を以て隔て、雨風のとをらざる様に、おほひをしてあたりをよくかこひ置たるも其地湿気さへなければ、三四月まで、大概そこねぬ物なり。随分湿気なき、日かげを撰ふべし。

○又法。是も終日日のあたらぬ所、又ハかきを高くゆひ廻し、下に草ある所ハ、猶よし。草なき所ならバ、ぜうがひげを、おほく敷、其上に右のごとく、切取たるミかんをならべをくべし。ふかき藪かげか、とかく少も日のあたらぬ所よし。霜雪にあひても、春の終りまで損ずる事なし。日にあへば痛む物なり。上に松葉をうすくおほひをくべし。折おりおほひをひらきてみれば、間にくさりめ入たるあるをバ、ゑり出し去べし。とかくあらく、手風を触る事あしゝ。竹藪の中などよくかこひて、かくのごとくしをきたる尚よし。是山城などにて蔵めをく法也。

(「日本農書全集 第13巻」農山漁村文化協会 171〜173ページより、ルビは省略、くの字点はひらがなに展開)


相模国の蜜柑もこの様な方法で貯蔵されていたかどうかについて、具体的に記した史料を見つけることは出来ませんでした。ただ、前回紹介した献上の記録を良く見ると、紀州からの献上が「9月」であったのに対し、荻野山中藩からは「11月」、そして小田原藩からは「寒中」、つまり寒の入りよりも後の時期とかなり遅い時期に幕府に献じていることがわかります。

以前も見た通り江戸時代には初物を有難がる風習が江戸の町民や武士の間にありました。その際に紹介した触書にもある通り、蜜柑の初物解禁は「9月」と定められていましたが、その季節に逸早く蜜柑を献上していたのはやはり「本場」の紀州でした。余談ですが、紀州の大和柿の献上も同様に初物解禁となる「9月」だった訳ですね。

対して、小田原藩は収穫時期よりもぐっと遅い、年を越して最も寒さが厳しくなる時期まで待って献上している訳ですから、当然それまでの間何らかの方法で蜜柑が傷まない様に貯蔵しなければなりません。こうした貯蔵によって甘味が増すことが江戸時代にも意識されていたかどうかはわかりませんが、今の低温熟成蜜柑を見る限り、同様に甘くなっていた可能性は高そうですし、既に紀州をはじめとする名産地の蜜柑が市場から払底してきている時期には、やはり希少価値をもって迎え入れられていたのではないかと思います。格式を重んじる意味合いで行われていた幕府への献上の品として、時期外れの蜜柑が敢えて選ばれていたのには、そうした意味合いがあったと考えられるでしょう。

ただそうなると気になるのが、「海游録」で通信使一行が食べた相模国の蜜柑の味ですが、この時には特に良く熟した枝を選んで轎に差し出したことになるのでしょうか。この著者はこの先赤坂〜岡崎間でも路傍の蜜柑売を多数目撃し、更に名古屋で盃を傾けながら蜜柑を食べるなど、かなり蜜柑がお気に召した様ですが…。

また、明治時代に入って実施時期の変わった鞴祭で、熟成をしていない神奈川の蜜柑が撒かれることになってしまったのは、形だけでも蜜柑を祭に間に合わせようとしたからではあるのでしょうが、結果的には鞴祭にとっても、蜜柑を提供した産地にとっても良くない結末になってしまった様に見えます。



時代が下って明治時代に入り、これまで幾度か紹介してきた「第1回内国勧業博覧会」では、上記の前川村から2名が蜜柑を出品しています。うち1名の出品は「雲州蜜柑」と記されており、この頃には新たな品種栽培が試される様になっていたのでしょう。他方の出品は褒状を受けています。柑橘類ということでは「乳柑」「橙子」の名が見えています。

そして、大正時代に著された「足柄上郡誌」に掲載された果実の生産高一覧はについて見た際に紹介しました。この一覧表に見える通り、大正の頃には神奈川県西部の主要な果実としての地歩を固めていくことになります。

「風土記稿」の産物一覧に蜜柑が入ったのは、恐らくは小田原藩や荻野山中藩の献上品となっていた実績が評価されてのことではあったのでしょう。明治時代以降は新たな品種が導入されるなど、必ずしも江戸時代までと同一であった訳ではありませんが、蜜柑産地としての適性はそれ以前から明らかにされていたと言えるでしょう。


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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

この記事へのコメント

- りえてつ - 2015年04月14日 07:03:49

おはようございます。

蜜柑についてもいろいろ勉強になりました。
奥深いですね。

Re: りえてつ さま - kanageohis1964 - 2015年04月14日 08:13:23

こんにちは。コメントありがとうございます。

本当は江戸時代の紀州みかんの流通についてもう少し掘り下げた方が良かったのですが、今回は勉強不足でそこまで行きませんでした。西からの蜜柑が江戸で人気を呼ぶ中で、江戸近郊の蜜柑がどう伍していたのか、という話にしたかったのですが、そこはまた改めて調べてみたいですね。

幕末の日記より - 東屋梢風 - 2015年05月04日 01:16:06

武州橘樹郡長尾村の豪農・鈴木藤助の日記、安政7年1月14日の条目に「善次郎大山より帰る、御札・みかん呉候」との一節があります。
大山参詣から帰った近所の住人が、土産として阿夫利神社の御札とみかんをくれた様子です。
このみかんは帰途、相州の大山街道沿いで買い求めたものかと想像しました。

なお、全巻を精査したわけではありませんが、「みかん」は頻出語句ではないようです。上記の他には、同月2日と12日、それぞれ年始の年玉交換にて親戚や知人から受け取ったという記述が見られました。

Re: 幕末の日記より - kanageohis1964 - 2015年05月04日 06:48:11

こんにちは。貴重な情報をありがとうございます。

してみると、やはり当時の蜜柑はかなり遅くまで流通していたのは確かな様ですね。大山からの帰路のどの辺で求めたものか、またその近傍で蜜柑を栽培していたのか、それとも足柄の蜜柑の産地から販路を求めて参拝シーズンの大山近辺まで持ち込まれたものかは、当時の蜜柑栽培の検討課題になりそうです。

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