蜜柑について:「新編相模国風土記稿」から(その2)

梅園草木花譜夏之部「橘(ミカン)」
「梅園草木花譜夏之部」より「(ミカン)」の花の図
花の右側に、箱根の関の北では育たない旨の記述がある
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
前回に続き、今回も「新編相模国風土記稿」の産物一覧に記された「蜜柑」について見ていきます。今回はまず、江戸時代の小田原藩領の村明細帳に見られる蜜柑の貢税について紹介します。

柿については、稲葉家が小田原藩主だった時代に大和柿や小渋柿を貢上させていたことを以前紹介しました。これと全く同様に、蜜柑についても領主の検分の上で貢納していた記録を、小田原藩領の村明細帳に幾つか見出すことが出来ます。今回も私が見出し得た範囲での記述を挙げますが、他にも事例があるかも知れません。ただ、柿に比べると件数が大分少なくなっています。

  • 足柄上郡壗下(まました)村(現:南足柄市壗下):

    貞享三年(1686年)四月 壗下村明細帳(侭下村御指出帳、「南足柄市史2 資料編近世(1)」228ページ)

    一蜜柑 毎年御見分ニ而代永上納、五分上納仕、五分木主被下候、

  • 足柄上郡西大井村(現:足柄上郡大井町西大井):

    貞享三年四月(十二日) 足柄上郡西大井村明細帳(差出帳、「神奈川県史 資料編5 近世(2)」466〜467ページ)

    一蜜柑御見分之上五分指上、五分木主て□

    一上蜜柑御菓子上り、外代物て指上申候、

  • 足柄上郡山北村(現:足柄上郡山北町山北):

    貞享三年四月(十一日) 足柄上郡山北村明細帳(差出帳、「神奈川県史 資料編5 近世(2)」492ページ)

    一蜜柑御見分之上五分差上ヶ五分木主被下候、

    上蜜柑御菓子上り、外ハ代物ニ而差上ヶ申候、

    永壱貫文上蜜柑六千替/中蜜柑七千替/下蜜柑九千替此直段ニ而永納仕候、

    一柑子御運上毎年鐚銭弐貫六百三拾弐文/但シ、枯木御座候得御引被遊候、納申候、

  • 足柄下郡曽我谷津村(現:小田原市曽我谷津):

    貞享三年四月 足柄下郡曽我谷津村明細帳(田畑指出帳、「神奈川県史 資料編5 近世(2)」502ページ)

    一蜜柑木数年〻御改被遊、蜜柑なり申候得、御見分之上御運上ニ而上納仕候、

  • 足柄下郡新井村(現:足柄下郡湯河原町福浦):

    貞享三年 足柄下郡新井村明細帳(「神奈川県史 資料編5 近世(2)」540ページ)

    一蜜柑之木大小八本、内四本苗木、

    此御年貢毎年御見御割付次第指上申候、

  • 足柄下郡真鶴村(現:足柄下郡真鶴町真鶴):

    寛文十二年(1672年)七月 足柄下郡真鶴村明細帳(「神奈川県史 資料編4 近世(1)」451ページ)

    一 蜜柑御年(貢)、毎年御検見次第指上ケ申候、

    但、年ゟ御菓子・蜜柑被仰付出し申候、

(それぞれ引用資料中で変体仮名が使用されている場合は小字に置換、一部改行を「/」に置き換え)


「蜜柑」の貢税について記された村々の位置
上記明細帳の村々の位置
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)

ここで挙げた6村のうち、上4村は大和柿・小渋柿の貢納についても記載がありました。壗下村と西大井村は柿渋も納めていましたから、かなりの品目が貢税として課せられていたことがわかります。

もっとも、壗下村と山北村に関しては永銭で代わりに納めたことが記されています。また、西大井村も「代物」で一部を納めたことを記しており、必ずしも蜜柑の現物を納めていないことがわかります。これは、この貢税の性質を考えると少々不思議です。

大和柿や小渋柿の貢税については、当時の藩主であった稲葉正則の「永代日記」に、藩領内の各地域に役人を派遣して検分を行った上で貢納分を決めていたことが記されていました。これと同様に、蜜柑についても派遣した役人の名前が、「永代日記」の寛文元年(1661年)9月21日の記述に見えています。

一 当秋蜜柑検見之者共

土肥筋へ沖田惣左衛門/有沢平太夫 西郡へ小俣長右衛門/福家五右衛門

右之通被 仰出候付、今晩小田原へ申遣之、

(「神奈川県史 資料編4 近世(1)」273ページより)

何故か派遣先が藩領全域ではなく、藩領の西側に限定されていますが、上記の村明細帳には東筋、つまり酒匂川の東側や、中筋と呼ばれた酒匂川と支流の狩川の間に位置する村も含まれていますので、「永代日記」の記述がたまたま西筋に役人を派遣した時のもので、他の地域には他日別途派遣が行われたのかも知れません。


大和柿や小渋柿の際にはその後納められた柿を江戸屋敷などに配分した記録がありましたが、「神奈川県史」などの採録された範囲では蜜柑について同様の配分がなされた記録は収録されていませんでした。ただ、上記村明細帳の中に「御菓子」という表記が見えることから、この蜜柑が大和柿や小渋柿同様茶の湯の席に供される目的で徴収されており、その点から推測すると恐らく蜜柑についても同様の配分は行われたのではないかと思われます。

こうした手間を掛けて蜜柑を手に入れようとしているにも拘らず、金銭での貢納で済まされているというのは些か妙です。江戸時代後期には漆や柿渋などの小物成の貢納が形式化して代永で納められている例が多数ありますが、この蜜柑の場合はそうした形骸化の例には当たらないのではないかと思います。私の個人的な見立てですが、村明細帳の中に「上蜜柑」「下蜜柑」といった品質に関する表記が見えることから、恐らくは、茶の湯の席に供するに足りる品質の蜜柑が十分に確保出来なかった村に代永を命じたのではないかと考えられます。そうであるとすると、村々には予め必要とする蜜柑の質や量について割り当てが行われ、その目標に達しているかどうかを逐一チェックされていたということになるのかも知れません。

そして、この蜜柑の貢納も、大和柿や小渋柿同様、 元禄2年(1689年)に藩主大久保忠朝が中止の触書を出しました。改めてその際の触書を掲げます。

蜜柑・柚子・大和柿・小渋柿、年貢

一正月御飾道具品々

右之分、

前々ゟ納来候といへとも、以御慈悲今年ゟ御赦免被仰出候間難有可奉存候、自今以後ハ猶以随分(精)を出シ毎年植木仕立可申候、若疎略いたし候ハヽ可為不届候

右之通、小百姓・無田之者迄可為申聞者也

元禄弐年十一月七日

河村新介(判)

戸田与兵衛(判)

郡八郎右衛門(判)

右本御書出シ成田村勘介御預ケ置被為遊候

(「山北町史 史料編 近世」466ページより再々掲、強調はブログ主)


梅園草木花譜夏之部「柚」
「梅園草木花譜夏之部」より「柚」の図(左)
枝の特徴的な長い刺が描写されている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
蜜柑と一緒に「柚子」の貢納が中止されているのですが、私が見ることが出来た村明細帳の中には柚子の貢納について記したものは見当たりませんでした。しかし、こうして大和柿や小渋柿共々貢納廃止となった経緯から見て、やはり蜜柑と同様に役人を派遣して質を見極めた上で貢納させていたのでしょう。柚子の場合は流石に茶菓としてそのまま供されることはなかったのではないかと思いますが、祝宴など何らかの形で客をもてなす際に利用したのでしょうか。何れにせよ、江戸時代初期から蜜柑と一緒に柚子が小田原藩領で栽培されていたことを示す史料の1つであることは確かです。



さて、「風土記稿」の記述には「領主より公に献呈せり」といった記述が幾つか見られます。これは小田原藩から幕府に対して献上された品々の中に蜜柑が含まれていたことを指しています。

江戸幕藩大名家事典」(小川恭一編著 1992年 原書房)では、文政年間の「八冊武鑑」を元に各藩からの「時献上」の品々を書き上げています。「時献上」とは「大名・交代寄合・付家老の家々が、毎年封内の名産を定時に献上すること」(同書下巻139ページ)ですが、小田原藩からは

正月3日御盃台竹箏岩藪柑子、2月粕漬鮑、暑中粕漬小梅、干鰺、9月里芋、11月甘鯛披、寒中蜜柑、在着御礼箱肴

(上記書中巻239ページより、強調はブログ主)

といった品々が幕府に献上されていたとしています。また、小田原藩の支藩として天明年間に愛甲郡に成立した荻野山中藩からも、

正月3日御盃台竹に藪小路、9月10日薯蕷、11月12日蜜柑、在着御礼干鯛

(上記書中巻236ページより、強調はブログ主)

と、やはり蜜柑を献上していたことが記されています。


荻野山中藩の陣屋跡地は一部が公園になっている
ストリートビュー
愛甲郡に属する村々での蜜柑の生産に関する江戸時代の記録は見つかっておらず、その後も同地で蜜柑の生産が盛んに行われる様になったという話もありません。その点では荻野山中藩の蜜柑の貢納は不自然ではありますが、恐らくは支藩として小田原藩から蜜柑の提供を受けていたのでしょう。余談ですが在着御礼の干鯛も海のない同藩の産物としては考えられませんから、やはり同様に小田原藩からの提供があったと考えられます。本来は領内の産物を献上するものであったとは言え、実際は領内では産出しないものを献上する例は当時多々あったことで、荻野山中藩としても献上に足る質の品々を確保するために小田原藩の助力が必要だったということでしょう。

一方の小田原藩の方も、稲葉家の時代には領内各地から徴収していた柿については幕府への献上品とはしていなかったのに対し、蜜柑については江戸時代後期に献上していた記録がある訳です。大和柿や木練柿ではどうしても近畿圏の「本場」に敵わなかったのに対し、蜜柑は前回も紹介した通り古代に朝廷に貢いでいた記録もあることが、献上品の選定に当たっての判断に影響したということなのでしょうか。因みに、紀州徳川家からは毎年9月に大和柿と蜜柑が2度づつ幕府に献上されていました(上記書575ページ)。

ともあれ、こうした献上品のための蜜柑も領内から調達する訳ですから、その負担は引き続き領内の村に課せられていたことになります。但し、「風土記稿」の記述から考えると、稲葉氏の時代の様に領内隈なく役人が良品を捜し廻るという運用ではなく、前川村など特に良品が出やすい村から調達する運用に変えられていたということになりそうです。

次回、もう少し蜜柑についての話題を取り上げます。



追記(2015/07/12):ストリートビューを貼り直しました。
(2016/01/12):再びストリートビューを貼り直しました。

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この記事へのコメント

- つねまる - 2015年04月10日 00:41:04

こんばんは。いつもお世話になっております。
蜜柑というと愛媛や和歌山、愛知の蒲郡しか頭になかったので、小田原藩では品質の良い蜜柑が古代から収穫出来ていたとは目から鱗のお話です。
和歌山の九度山の柿、美味しいですよ。弥生の和歌山は柑橘類が鈴なりです。

杵で躓いておりますが、何だろう何だろうと悩むのも楽しいものですね。
困っている時にいつもコメントをいただき、とても励みになっております。ありがとうございます。

Re: つねまる さま - kanageohis1964 - 2015年04月10日 07:04:03

こんにちは。コメントありがとうございます。

次回はその「品質」についても少々触れることになると思います。その点ではやはり南からの蜜柑が一枚上手ではあった様です。
あの写真の杵は本当に妙ですね。何かしら由緒がわかると良いですね。

- 鬼城 - 2015年04月11日 07:36:56

つねまる様と同様、相模の蜜柑を興味深く読ませていただいています。蜜柑の産地愛媛ですから・・・(笑い)しかし、文献調査も辛抱強く続けられ、まとめられる努力に改めて感心させられました。次回も期待しています。ありがとうございました。

Re: 鬼城 さま - kanageohis1964 - 2015年04月11日 10:39:16

こんにちは。コメントありがとうございます。

実はこの「品質」についての話は、今回の引用文の中にヒントがあるという趣向になっていまして、次回その辺に触れる予定です。何とかうまく話がまとまると良いのですが。

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