蜜柑について:「新編相模国風土記稿」から(その1)

「新編相模国風土記稿」に記された産物、今回から「蜜柑」を取り上げます。ここまで果樹またはそれに類するものとしては、梅、桃、鹿梨、梨、柿を取り上げて来ましたが、この蜜柑が果樹としては最後ということになります。

「風土記稿」上で蜜柑の産地として名の挙がった村々
「風土記稿」上で蜜柑の産地として名の挙がった村々
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
  • 山川編(卷之三):

    ◯蜜柑足柄上郡三竹山村・川村岸村二村の產、同下郡前川村の產をも名品とす、其邊の村々最多し、又同郡石橋・米神・江ノ浦・土肥宮上四村の邊にも產す、

  • 足柄上郡図説(卷之十二 足柄上郡卷之一):

    ◯蜜柑三竹山・川村岸二村の產、三竹山村より產するをば、年々寒中、領主より官へ獻納す、

  • 足柄下郡図説(卷之二十二 足柄下郡卷之一):

    ◯蜜柑、前川村の產を名品とし、其邊の村々最多し、又石橋・米神・江ノ浦・土肥宮上四村の邊にも產す、

(以下「風土記稿」からの引用は何れも雄山閣版より、なお同書の「山川編」では「土肥・宮上」としているが、編集上の誤りと認められるため上記ではナカグロを除去した)


山川編」と両郡図説の記述の間では、三竹山村の献納の記述が「山川編」の側に含まれていないこと以外は整合性が取れています。

他方、村里部の記述を見て行くと、
  • 川村岸(卷之十六 足柄上郡卷之五、現:足柄上郡山北町岸):

    村内蜜柑を產す、

  • 三竹山村(卷之十八 足柄上郡卷之七、南足柄市三竹(みたけ)):

    當村蜜柑を產す、寒中公に獻備すと云、

  • 前川村(卷之三十七 足柄下郡卷之十六、現:小田原市前川):

    ○土產蜜柑 土地に應するを以て、戸々多く植、寒中領主より公へ貢獻す、此邊村々種植すといへども、當村の產を上品とす、按ずるに、延喜式にも.當國例貢の品物に甘子あり、宮内式曰、諸國例貢御贄、相模、甘子橘子、右例貢御贄、直進内裏、其甲斐相模信濃太宰等、返抄申官行下、自餘諸國、省與返抄、

  • 石橋村(卷之三十一 足柄下郡卷之十、現:小田原市石橋):

    產物には蜜柑・靑芋俗に里芋と云、の兩品あり、共に領主より公に献呈せり、中にも芋は尤土地に應じ、其味佳なりと云、

  • 米神村(卷之三十一 足柄下郡卷之十、現:小田原市米神(こめかみ)):

    ○土產 △蜜柑 △根府川石…

  • 江ノ浦村(卷之三十一 足柄下郡卷之十、現:小田原市江之浦):

    ○土產 △蜜柑 △石…

  • 土肥宮上村(卷之三十二 足柄下郡卷之十一、現:足柄下郡湯河原町宮上):

    ○土產 △樒… △蜜柑

(…は中略)

こちらも「山川編」や足柄上郡・下郡図説の記述に現れる村々には蜜柑に関する記述が多少なりとも含まれています。ここで現れる村の数は柿に次いで多く、その点では柿に次いで重要な果樹であったと見て良いでしょう。

本草図譜巻六十五「紀伊国みかん」
「本草図譜」より「紀伊国みかん」
同書には他にも柑橘類が多数掲載されている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
これまでの記事の例に倣って、まずは本草学の記述を見るところから始めましょう。「大和本草」では次の様に紹介します。

(タチハナ・ミカン) タチハナと訓すミカンなり其花を花タチハナと古歌によめり南方溫煖の地及海邊沙地に宜し故紀州駿州肥後八代皆名產也共に南土なり紀州の產最佳北の土及び山中寒冽の地に宜からす本邦にて北州無之朝鮮亦然本草に實をうへたるは氣味尤まさると云へり諸木皆(つき)木より實うへの木實の味よく材に用にもよし

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、カタカナは名を除きひらがなに置き換え)


一方、「本草綱目啓蒙」では次の様に記します。

ミカン

〔一名〕…

柑はミカン類の總名なり品類多し皆暖地の産にして寒國には育し難し紀州の産を上品とす其獻上の柑は有田の産なり京師にては好柑を何れにても皆紀伊國ミカンと僞り呼べとも眞の紀伊國ミカンは有田の産のみにして卽集解の乳柑なり形大にして柚の如く皮も常柑より厚して肌粗なり皮内の白脈少くして皮と穰と自ら分離す味甘して酸味少し核少全く核なき者もあり凡そ上品の柑橘は核なし核多き者は下品なり

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、カタカナは名を除きひらがなに置き換え、…は中略)


用いられている漢字は異なりますが、どちらも温暖な地域で良く育つことを記している点が共通しています。その点では相模国は蜜柑の産地としては北寄りということになるのですが、そのことを反映してか、「風土記稿」に記された産地の村の大半は相模湾沿いに位置しています。残りの三竹山村、川村岸も地形を見る限りでは比較的日当たりを望める土地が多そうで、が丹沢山中の村々まで産地として挙げられていたのとは違う傾向を見せています。


その点は、江戸時代初期の代表的な農書である「農業全書」でも

○又柑類ハ寒気をおそるゝゆへ、うゆる所西北の方を高くして、竹などをうへ、風寒をふせぐべし。寒気の甚つよき所ならバ、棚をかき、おほひをし、二月ハ去べし。大木ハ棚をつくる事、なり難し。木の廻りに、(ぬか)を多く置、柴や枯草、わらなどにて、(しんぼく)を巻包ミ又ハ芦の筵などにて木をゆるく巻、其間に(すりぬか)を入るもよし柑類ハ、山家其外寒気つよき所にてハ、何程ふせぐ用意しても枯る物なり。

(「日本農書全集 第13巻」農山漁村文化協会 171ページより、ルビは一部を除き省略)

と、日当たりの良い場所を選んで植え、寒気に対する対策を十分施す様に記しています。偶然の一致かも知れませんが、「風土記稿」で挙げられた村々は何れも北や西側に山を背負う地形になっています。

但し、「風土記稿」の前川村の記述に見られる通り、「宮内式」つまり「延喜式」(平安時代中期)には相模国からの貢物の中に柑橘類があったことが記されており、更に天平10年(738年)の「駿河国正税帳」に「相模国進上橘子」と相模国からの貢進物に橘子が見られるなど、この地での柑橘類の栽培の歴史は意外に古いことがわかります。もともと蜜柑は温暖な地域から入ってきたと考えられるとは言え、相模国にまで及んだのもかなり古い時代のことであったのだろうと思われます。

また、「大和本草」では「海邊沙地」を適地としています。確かに蜜柑は砂地などの水はけの良い栽培地を好む傾向にあり、その点では富士山や箱根火山の火山灰質の土地が広がる地域に「風土記稿」で取り上げられた村々が入っているのも、無関係なことではないと言えそうです。

因みに、「大和本草」でも接木についての記述が見えますが、「農業全書」でもかなり詳細に柑橘類の接木の手順が紹介されています。また、虫が付いた場合の退治法や施肥の方法などが記されており、江戸時代初期には柑橘類の栽培法がかなり確立されていたことが窺えます。

次回は小田原藩領で見られる蜜柑に関する史料を紹介する予定です。



本草図譜巻六十五「柚」
「本草図譜」より「柚」の図
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
「風土記稿」では取り上げられなかった柑橘類の話を補足として少々差し挟みます。

「大和本草」では、上記の「橘」の他に取り上げられた柑橘類は「金橘」「(クネンボ・カウジ)」「柚」「(ダイダイ)」「佛手柑」「朱欒(ザンボ)」が紹介されており(リンク先は「国立国会図書館デジタルコレクション」上の該当箇所)、「農業全書」でも

蜜橘の類色々多し。(くねんぼ)()(だいだい)包橘(かうじ)枸櫞(ぶしゆかん)金橘(きんかん)、此外、夏蜜橘、じやがたら、じやんぼ、すい柑子、此等の類九種漢土より取来る事、日本紀に見えたり。中にも(ミかん)取分賞翫なり。

(上記同書168ページより)

と、多彩な品種が紹介されています。しかし、「風土記稿」では柑橘類で取り上げられたのが「蜜柑」だけであり、他の品種については記されていません。元より蜜柑以外の柑橘類には更に温暖な気候を必要とする品種が多く、相模国の産物として取り上げられる程の生産量を見なかったということかも知れませんが、実際には蜜柑同様に比較的寒さに強い柚子が栽培されていた様です。

この柚子がもとになって生まれた小田原の銘菓「ゆず餅」について、「小田原市史 通史編 近世」では次の様に由緒を記しています。

小田原の銘菓の一つに「ゆず餅」という、甘酸っぱい熨斗(のし)状にのばした和菓子がある。いっぱんには「ゆべし」と呼んでいる。「ゆず餅」は梅干しを商う「ちんりう」の祖、小峯門弥が考案したが考案した和菓子である。小峯門弥はもと西村門弥といい、れっきとした小田原藩士であった。西村家は代々小田原藩に仕えた料理人で、門弥の祖父津右衛門が、たわわに実った自庭の柚子の香にヒントを得て「ゆず」を利用した和菓子を考案した。ただし、津右衛門の製造したものは餅にゆずを絞っただけのものであり、藩主の所望に応じて作られた。それを商品化したのが門弥であった。門弥は「ゆず餅」の製法を改良し、「ゆず砂糖漬」「ゆずまんじゅう」など馥郁(ふくいく)とした香りを活かす工夫をした。安政元年(一八五四)、門弥はペリー一行の来航の際に料理人の一人として江戸に赴くが、早々に小田原へ戻り、「ゆず」利用の改良に取り組んだ。門弥の製造した「ゆず餅」は藩主大久保忠礼(ただのり)より賞賛され、徳川家への献上品ともなったという。以後、「ゆず餅」は長期間保存できる菓子として明治以降普及することになる。

(上記書493〜494ページより)


小峯門弥が活躍したのが幕末のペリー来航前後のことであったことから、「風土記稿」が編纂される天保の頃よりはもう少し時代が下っており、産品として掲載されるには時代が噛み合わなかった訳です。とは言え、その先々代の頃から小田原藩の料理人が藩主の求めに応じて柚子を使った餅を作っていたということからも、量はともかくも藩主の愛好する味覚の1つであったことは確かな様です。




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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

この記事へのコメント

じやがたら - 東屋梢風 - 2015年04月16日 22:11:18

だいぶ前のこと、大井町でミカン狩りをしました。江戸時代より栽培方法や品種改良は進んで同じものではないでしょうけれど、濃厚な味わいの果実がたくさん穫れました。
「じやがたら」は、たぶんジャガタラ柚(=鬼柚子・獅子柚子)ですね。近所の果樹園で見かけ、見慣れない柑橘類と思って調べたらこれでした。御地でも栽培されていますでしょうか。
https://twitter.com/bkmakoto/status/527386830421766144
(※URLがお邪魔でしたらご承認くださらなくても結構です)

Re: 東屋梢風 さま - kanageohis1964 - 2015年04月17日 06:29:53

こんにちは。コメントありがとうございます。

現在の神奈川県のみかん園でも、栽培されている柑橘類は品種が大分多彩になっていますね。ただ、鬼柚子を栽培しているところはざっと見た限りでは確認出来なかったので、やっているところがあるとしても微量かと思います。

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