柿について:「新編相模国風土記稿」から(その7)

前回に続き、今回も「新編相模国風土記稿」の産物一覧に取り上げられた柿について見ていきます。前々回、前回と柿渋の貢税や流通を見るためにかなり厳つい話になってしまいましたが、今回は一転して柿にまつわる風習や民話を取り上げます。多少柔らかい雰囲気になると良いのですが。

柿の民俗誌―柿と柿渋」(今井 敬潤著 1990年 現代創造社)では、柿をはじめとする果樹を巡って行われていた「成木(なりき)責め」について、次の様に紹介しています。

…成木責めは小正月行事の一つであり、果樹に刃物で傷をつけ、「なるかならぬか、ならねば伐るぞ」と一人が言うと、もう一人が、「なります、なります」というような問答を行い、その年の豊穣を約束させるものである。問答の内容、対象となる樹には若干の違いはあるが、北海道・沖縄を除き、全国的に行われていた。成木責めを行う樹のほとんどは柿であるが、他の果樹について行っていたところもある。福島県(柿・梨)、京都府相楽郡南山城村及び福知山市(柿・栗・みかん)、島根県(柿・みかん・桃)、岡山県(柿・梅・桃)、熊本県阿蘇郡(柿・ゆず)などがそれで、わが国にある果樹のほとんどの種類がみられる。この中で、特に福知山市の栗、岡山県の桃はそれぞれの地域の特産果樹であり、その豊穣を願う農民の熱い思いが伝わってくる。

(上記書55ページより、強調はブログ主)

今でも地域によっては引き続き行われているものの、次第に廃れつつある様です。

「成木責め」が何時頃まで遡る風習なのかははっきりしませんが、

柳田国男は、成木責めを「草木が物を言ったと云ふ時代からの、古い仕来りとしか思はれぬ」としたが、多くの民俗学者は、これを比較的新しい風習であるとみているようである。すなわち中山太郎は、小正月の夜に婦人の尻を叩く呪術が全国的に行われているとして、成木責めは「此の婦人の尻たたきを果樹の上に移して結実の豊作を祈った呪術なのである」とし、鈴木棠三は粥占に用いた粥の木で叩くことが供進の作法としてあったものが、尻叩きや成木責めに発達した、とみている。また桜井徳太郎は、「この成り木責めのまじないは、今では(中略)こっけい極まりなき芝居となっている。しかし始源を訊ねれば、民間の関心を集めていたおどしの呪法から出発したものであることがわかる」としている。つまり、いずれも成木責めはもっと古風な習俗から発展して現在の形態になったとするのである。

(「成木責めと問樹と―日本と中国における果樹の予祝儀礼―」斧原 孝守著 2000年3月「東洋史訪」6号所収 18ページより、「Japanese Institutional Repositories Online」収録)

としており、さほど古い風習という訳ではなさそうです。とは言え、江戸時代後期には多くの地域で行われる様になっていたものではある様です。なお、上記論文で引用されている中山太郎の「果樹責」は「国立国会図書館デジタルコレクション」上で閲覧可能ですが、この中で成木責めの元となったと考えられる「嫁樹」や「尻叩き」といった風俗などについて紹介されています。

「成木責め」が行われていたのはほぼ全国的ということですから、神奈川県も当然例外ではなく、

十五日のところが多い。足柄上郡山北町の共和では実のなる木に一人が登り、一人が下にいて、下でなたで傷をつけ「なるかならぬか」というと上の者が「なります、なります」というのを、「なんねえ」となたで切るまねをする。するとまた「千万俵なりましょ、なりましょ」と上でいう。そこで切り口のところに十五日のあずきがゆをのせる。秦野市では一人で問答するのが多い。秦野市の弥勒寺や三廻部では「なるかなんねえか。ならねえと首ぞっきるぞ。なりましょ、なりましょ」といいながらなたで木の幹を叩く。弥勒寺ではこれをナリモッコという。

(「日本の民俗 神奈川」和田 正洲著 1974年 第一法規出版 243〜244ページより)

という記録があります。また同書では、前日14日が「サイトバライ」(セートヤキ(サイトヤキ)・ドンドヤキ・サギチョウ)で、川崎市宮内ではそのサイトヤキの燃えさしで成木責めをした、という例も併せて報告しています。この本では何れもどの果樹で行うかは記されていませんが、「秦野市史 別巻 民俗編」では

十五日には「かゆ」を使っての占いが今日でも田原地区などには見られるが、その占いの一種として成木責めがある。

庭の樹木(主にかき)にナタで傷をつけ、かゆを塗り、「なるか、ならぬか ならなきゃぶった切るぞ」と、樹木におどしをかける。

そのそばに隠れていた子供が木の代弁をして、

「成り申す、成り申す。」

と答えるのである。この成木責めを最後まで行っていたところは戸川、今泉、森戸などである。成木責めに関連した行事として、蓑毛にオテナガと呼ばれる行事がある。オテナガ(御手長)がどのような意味なのか伝承でははっきりしないが「今年の農作物のできをうらなう行事だと」伝えている。

(同書502ページより)

と、やはり主に柿に対して行われる風習であったとしています。その他、屋上屋になるので引用は省略しますが、「茅ヶ崎市史3 考古・民俗編」(561〜562ページ、「ナリモソ」と称されている)、「大磯町史8 別編民俗」(526ページ)、「城山町史4 資料編 民俗」(20ページ)でも、柿をはじめ栗・梅といった木々に対して行われていたとされており、更にまた、こちらの記事では平塚市土屋で柿の木で「成木責め」が行われていたことが記されています。但し、「相模原市史 民俗編」では成木責めは旧相模原市域ではほどんど見られないとしており(247ページ)、座間・海老名・大和・綾瀬・寒川の市町史の民俗編でも成木責めに関する記述がないことから、相模原台地の上に位置するこれらの地域では見られない習俗だったのかも知れません。

特に江戸時代まで遡った時には、農家の屋敷の庭に多く植えられていたのが柿であることを考えれば、屋敷に身近なところに植えられていた柿が成木責めの対象として最も多く選ばれていたのも自然なことでしょう。神奈川県内でも比較的広範囲にこうした風習があったということは、それだけ柿が多くの地域で植えられていたと考えて良さそうです。



柿が登場する民話として有名なものは「さるかに合戦」でしょう。江戸時代には既に「増補獼猴蟹合戦」として出版されたものが国立国会図書館に蔵書されているなど、広く知られた昔話として親しまれていた様です。

神奈川県内に伝わる民話で柿の登場するものがないか探してみたところ、「神奈川県の民話と伝説」(萩原 昇著 1975年 有峰書店)に津久井郡の話として「茶と栗と柿と()」という話が収録されていました。

むかし、あるところに、ちと頭の足りん息子がおったと。

村の若い衆は、汗水たらして働いてるっちゅうにこの息子ときたら、いい年をしてゴロゴロ、ゴロンと寝ころんでおった。

で、おとうと、おっかあは、みっともねえやら、情けないやらで困り切っておった。

ある日、おとうは、息子に、

「そんなにゴロゴロしていてよくからだに虹がわかねえもんだな。どうだ、町ばへ行ってこいつでも売ってきたら」

と、茶と栗と柿と麩を出してきた。

息子はあくびをしてから、それらを背負って、それでも出かけて行った。

町ばへ入ると、息子は、でかい声で、

ちゃっくりかきふ、ちゃっくりかきふ、

ちゃっくりかきふ、いらんけー

と、流して行ったが、町ばのもんは、何のことかさっばりわからんもんで、誰も呼びとめんかったと。

息子は、そっくり背負って戻ってきた。

「おとう、おっかあ、いま帰ったどう。腹へったで、飯にしてくんな」

と、土間に籠を置くと、囲炉裏端にぶっつわり大飯をかっこみ始めた。

おとう、籠の中をのぞいて、

「やいっ! 一つも売れてねえでねえか。てめえ、いままでどこをほっつき歩いていただっ!」

「んや、おらは、ちゃんと町ばを、ちゃっくりかきふ、ちゃっくりかきふ、ちゃっくりかきふ、ってどなって流していたんや。だども、誰も声をかけてくれんかっただ」

「なんや、その、ちゃっくりかきふ、ってのは」

息子は、むっとなった。

「なんやだと? おとうが、おらに売ってこいと言ったもんでねえか。茶と栗と柿と麩のことじゃ。おやじ寝ぼけてんのか」

「この馬鹿たれ。なんぼ忙しいというても、みんなくっつけて言うやつがあるか。いいか、茶は茶で別べつ、栗は栗で別べつ、柿は柿で別べつ、麩は麩で別べつなんや。わかったかっ! もういっぺん売りに行ってこいっ!」

つぎの日、息子は町ばを、

茶は茶でベーつべつ、栗は栗でベーつべつ、

柿は柿でベーつべつ、麩は麩でベーつべつ

と、流して行ったが、さっばり声がかからん。

そんでも、ホホンとして帰ってきた。

おやじと、おっかあはそれを聞いてあきれてしまい、

「馬鹿につける薬はないわい」

と、言うと、息子は、

「ほんなら、飲む薬でもいいど」

と、ぬかして大飯くらって、ゴロンと横になったとさ。

(上記書下巻33〜34ページ)



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相模原市緑区若柳の位置
北側に相模川を挟んで甲州道中の与瀬宿がある
残念ながらこの本では津久井郡で採録された話であること以外、具体的な採録地などが記されていませんが、「神奈川県昔話集 第二冊」(神奈川県教育委員会監修 1968年)では「茶・栗・柿」の話として津久井郡相模湖町若柳(現:相模原市緑区若柳、江戸時代には津久井県若柳村)で昭和36年(1961年)に採録されたものであることを記しています(111〜112ページ)。

「神奈川県昔話集」では同様の話が「日本昔話集成」(関 敬吾著 1950~58年 角川書店)にも収録されていることが指摘されており、ネット上で「茶と栗と柿」で検索すると幾らかバリエーションはあるものの、同様の話が多数ヒットします。「民話・昔話集内容総覧」(2003年 日外アソシエーツ)では、「茶栗柿」「ちゃっくりかきふー」などの名称の話が収録された民話集が30点以上掲げられています。その点では、特定の地域の景観や立地に依存した話ではないでしょうが、あまり能力の高くない倅が町に行って商いに挑むのですから、そういう町があまり遠い村では、ちょっとリアリティがないという関係はあるかも知れず、この若柳村も甲州道中の宿場町とは相模川の対岸という位置関係にあります。なお、「神奈川県昔話集」では「麩」は入っていませんが、全国の例では「麩」や「酢」を加えたものも多く、「神奈川県の民話と伝説」ではその点を考慮して加えたのでしょうか。

話の筋はともかくとして、父親が倅に「ちょっとこれを町で売って来い」と、さほどの仕込みも必要とせずに手渡した商いの品が茶と栗と柿であった、ということは言えるでしょう。これも当時の農家の一般的な風景が背景にあって成立する民話であり、その中に柿があったことからも、こうしたちょっとした商いの種として庭先や畑の畔で盛んに栽培されていたことが偲ばれます。



もう1つ、文化11年(1814年)の高座郡深見村(現:大和市深見)の名主であった小林家を訪問した小山田与清(ともきよ)の旅日記には、同家の先代の隠居所が柿の木の下にあり、その隠居が「柿園の翁」と自称していたことが記されています。

満守が父の烏知麿は早う世を捨てて、柿の木あまた植ゑたる下に草のいほり引きむすびて隠れ家となし、みづから称へてかきぞののをぢとなんいふ。そは花咲の翁のあとを慕ひ、またはななのくしびめでんの心なるべし。

源内は寛政九年(一七九七)七月に名主を退き、地頭所から苗字・帯刀を許され代官格を命ぜられ、惣領熊蔵が名主役を継いで源内を襲名した。翌年父源内は地頭所坂本家から三人扶持をあてがわれた(『大和市史』4資料編近世)。今なら定年退職年金というところか。

隠居源内は烏知麿(うちまろ)と改名し、しかも柿の木下の小庵にちなんで「柿園(かきぞの)(をぢ)」と自称したとは、その風流志向がしのばれる。与清は「花咲の翁」の下に「松永貞徳、号を長頭丸とも花咲翁ともいへり。京都に柿の木あまた掘り植ゑてそこに家居せしは、心を敷島の道によせて柿本のひじりを慕へるなるべし」と割注を加え、柿の木を植えて万葉の人麻呂を慕った貞徳のように、烏知麿も敷島の道(和歌)に心を寄せるのだろうとゆかしがっている。「ななのくしび」とは中国晋代の竹林の七賢人を思いあわせ、その隠居住まいをたたえたのであろう。

(「深見村小林源内と小山田与清」安西 勝著 1990年 「大和市史研究」16号 所収 2~3ページより)



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深見村小林家付近の空中写真(Googleマップより)
この小林家の位置する丘陵地は北側にかつての深見城址のある場所で、東側を境川が流れ、現在は東名高速道路に分断されているものの屋敷の前には水田が広がります。

この名主家を訪れた小山田与清は小林家とは親戚関係であった様ですが、和学者で詩歌も嗜む与清と源内は学問的・文化的な交流が深く、上記に引用した論文ではその全貌が説かれています。今回はその仔細には立ち入りませんが、隠居生活を送る庵が柿の木の下にあることを故事になぞらえて評する辺りに、その交流の雰囲気がにじみ出ていると思います。当時の農家の庭では珍しくなかった柿の木も、時にはこうして風流な景観を作り出す一助となった1つの例と言えるのではないでしょうか。

次回、近代以降の柿の生産の変遷を少し追って、ここまでの話をまとめたいと思います。




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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

この記事へのコメント

昔話と俗信 - 東屋梢風 - 2015年03月27日 19:19:50

成木責めについて、興味深く拝読しました。
「さるかに合戦」で、「早く芽を出せ柿の種、出さぬと鋏でちょん切るぞ」とカニが囃すのも、何か関連がありそうな気がします。

おそらくご存じと思いますが、「柿の木から落ちると3年後に(もしくは3年以内に)死ぬ」という俗信が各地にあるとか。
これなどは、柿泥棒への戒めとして作られた説のようにも思えますね。

Re: 東屋梢風 さま - kanageohis1964 - 2015年03月27日 20:20:07

こんにちは。コメントありがとうございます。

仰るとおり、私も「さるかに合戦」の蟹の台詞に「成木責め」に相通じるものを感じました。どちらが先にあったものかは今となってはわかりそうにありませんが、当時の農家にとってはそういう点でも蟹の台詞が身近なものと感じられたのかも知れませんね。

柿にまつわる風習や俗信は他にも色々あるかも知れません。また機会があったら探してみたいと思います。

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