柿について:「新編相模国風土記稿」から(その6)

前回に続き、今回も「新編相模国風土記稿」の産物一覧に取り上げられた柿について見ていきます。今回は、柿渋の流通にまつわる事情を「生渋問屋」の存在から掘り下げてみます。前回に続いて引用が多くなりますが何卒御容赦を。

ものと人間の文化史115 柿渋」(今井 敬潤 2003年 法政大学出版局、以下「ものと人間」)では、江戸時代に大坂の商人が結成していた柿渋の株仲間について紹介しています。まず、この株仲間が享保年間には存在していたことを示す文書があることを次の様に解説します。

…近世より柿渋屋を営んできた谷口善平次氏所蔵の「享保十四己酉年覚」(一七二九)という文書には次のような記載が認められる。

一、渋柿売り値段市相場に壱匁口銭

但し外柿山柿造柿右同断

一、同じく春賃壱駄に付き二匁つつ

一、同じく付け売り致すまじく候

右の通り相談の上にて相極め候、其の印として銀五拾五匁六分つつ、都合五百目懸銀これ有り候、右の通り申し合わせ候、万一相背き候わば、重ねて買い合い仕らず候、其の上右の懸かり銀は掛けすてに仕るべく候、以上

享保十四己酉年七月二十一日

錦屋甚兵衛 吹田屋文右衛門 紀伊国屋喜平次 渋屋源兵衛 石川屋伊兵衛 河内屋忠佐衛門 梅屋伊兵衛 梅屋甚兵衛 新屋茂兵衛 河内屋忠左衛門 木屋長兵衛

この史料より、享保年間には、大坂で、一一人の渋屋仲間が存在したこと、渋柿の値段についても仲間に申し合わせ事項をつくっていたことがわかる。なお、管見では、本文献が、柿渋屋が株仲間を作って存在していたことを示す最も古い史料であることにも注意しておきたい。

(上記書9〜10ページより)

そして、これに引き続いて宝暦2年(1752年)の文書を紹介し、ここでは渋屋仲間が12人に増えていること、時代の代わった明治元年(1868年)の「渋仲間名前帳」にも渋取引等の申し合わせ事項が記され、幕末にも渋屋仲間が存在していたことが示されています。また、大坂の町内の買い物案内である「商人買物独案内」(文政2年・1819年)に「生渋問屋」の名が2名記載されていることを紹介しています。

こうした動向があったのであれば、そしてもしもこの問屋が奉行所に冥加金を納めて活動を公認される存在であったのであれば、大坂の「生渋問屋」が柿渋の価格の統制にそれなりの影響力を持ったことが考えられ、引いては柿渋の貢税の行方にも影響したのではないかとも考えられます。ただ、ここで問題となるのは、「ものと人間」で指摘する事例が飽くまでも江戸時代の大坂のものであり、江戸を中心とした関東でも果たして同様であったと言えるかどうかです。確かに江戸でも柿渋の需要は高かったことが前回までの経緯から明らかですが、江戸にも柿渋を取り扱う問屋仲間が存在したのかどうか、いたとすればどの程度の規模であったのかについては、別途史料を漁る必要を感じました。

江戸時代の問屋の歴史を考える上でどうしても外せない事柄としては、これまでもこのブログで幾度と無く紹介してきた「天保の改革」による問屋・株仲間の解散と、幕末の嘉永4年(1851年)に至ってこれらが復興させられた経緯があります。上記の大坂の生渋問屋の株仲間も当然例外であったとは考え難く、明治元年の渋屋仲間はその復興後の存在であった筈です。それであれば、その幕末の復興に際して江戸町奉行が中心となって書き付けた一連の事務方文書をまとめた「諸問屋再興調」にもその辺の事情が記されているかも知れません。

但し、幕末の問屋の再興作業で江戸町奉行が請け負ったのは基本的には江戸市中の問屋・株仲間のみであり、地方の問屋・株仲間については基本的に諸藩や幕領の諸奉行たちに委ねられ、江戸町奉行は各地方からの問合せがあった場合の窓口として対応していました。大坂の場合は大坂町奉行が再興の任に当たり、「諸問屋再興調」でも最初の冊に収められている「遠国奉行問合」と題した章に、他の地方からの問い合わせとともに、大坂と江戸との間で交わされた文書が多数掲載されています。

大坂・堺―江戸間の通信に現れる問屋名一覧

(「諸問屋再興調」中「遠国奉行問合」より)

  • 大坂御用刎魚問屋魚市場:31, 32, 33
  • 菱垣廻船問屋:39, 41, 42, 61, 62, 63, 67, 70, 71, 72
  • 酒造株:39, 43, 44, 45
  • 堀浮芥定浚:39, 41, 48, 50
  • 髪結職:39, 41, 48
  • 古鉄買:41, 46, 48, 50
  • 鷹餌鳥受負人:41
  • 質屋、古着屋、古着買、古鉄屋、古道具屋、小道具屋:46, 48, 50
  • 古鉄辻買:50
  • 攝津灘目兩組水車油稼、他大坂表油関連株:61, 64, 67, 69
  • 樽廻船問屋:61, 62, 63, 67
  • 丹製法人:61, 64, 67, 69
  • 旅籠屋組合:61, 67
  • 大坂床髪結:61, 67
  • 唐物類問屋仲間:70, 71, 72

注:

  • 問屋名後ろの番号は「大日本近世資料」(東京大学史料編纂所編)中で付された文書番号で、その問屋について触れられている文書の一覧。
  • 41~43は大阪―江戸間の通信ではないが、大坂の件に関し江戸側での吟味を記録しているため、この中に含めた。

これを見て行くと、大坂はやはり商業の中心地らしく、他の地域以上に江戸とのやり取りが多かったことがわかります。関連する文書から名前の挙がっている問屋の名前を書き出すと右の通りで、特に江戸と関連の深い菱垣廻船問屋については複数回にわたって文書を交わして慎重に是非を検討していることがわかります。また、大坂町奉行からは堺奉行に問屋再興の申渡書が回送され、以後の問合でも大坂町奉行と密接に連絡を取り合うなど、大坂と堺の関係の深さが窺えるため、ここでは両町を併せて検討します。

但し、大坂の全ての問屋・株仲間について逐一江戸に確認を求めたのではなく、江戸から示された「文化以前に差し戻す」という基準に従って判断出来る問屋については各地方での裁量で判断したのでしょう。「遠国奉行問合」には大坂の他に甲府、駿府、山田(伊勢)、新潟、京都、佐渡、日光の名前が並びますが、中には諸問屋再興の号令を受け取ったことへの返事以外にこれといった問い合わせのないものもあります。こうしたことから考えると、大坂の「生渋問屋」については「遠国奉行問合」の中では名前が挙がりませんが、これは大坂町奉行が再興の判断を下したために、江戸へは特に問い合わせを行わなかった結果と考えられます。

他方、江戸にも「生渋問屋」があったとすれば、これは江戸町奉行が再興の判断をすることになるので、その名が「諸問屋再興調」にある筈です。しかし、ひと通り見渡した限りでは、「諸問屋再興調」の中には柿渋を主に取り扱ったと思われる問屋の名前はありません。

特に、江戸の問屋・株仲間の再興に当たっては、当時の江戸町年寄であった舘 市右衞門が保管していた名簿が重要な役目を果たしています(「大日本近世資料 諸問屋再興調一」東京大学史料編纂所 25〜37ページ)。かなり長くなりますが、この名簿に掲載されている問屋の名前を書き出してみました。

  • 一 享保・寛政兩度共被立置候十仲間問屋名目貳拾貳組、
    • 塗物店組、塗物・道具類問屋
    • 内店組、絹布・太物・繰綿・小間物 雛人形・蠟燭問屋
    • 表店組、疊表・靑莚問屋
    • 通町組、小間物・太物・荒物・塗物・打物問屋
    • 綿店組、綿問屋
    • 紙店組、紙・蠟燭問屋
    • 釘店組、釘・銕・銅物類問屋
    • 藥種店組、藥種・砂糖問屋
    • 河岸組、水油問屋
    • 酒店組、下り酒・酢・醤油問屋
    • 河岸組、綿問屋
    • 鉄店組、釘・銕・銅物類問屋
    • 貳番紙店組、紙・蠟燭問屋
    • 三番紙店組、紙・蠟燭・荒物問屋
    • 新堀組、紙・荒物問屋
    • 住吉組、下り蠟燭・荒物問屋
    • 水油仕入方
    • 藥種・砂糖問屋
    • 糠問屋
    • 瀨戸物問屋
    • 乾物問屋
    • 堀留組、疊表・荒物問屋
  • 一 同斷、十仲間外ニ而問屋名目有之、文化度一旦附屬致し候處、從古來別廉之分、
    • 吳服問屋
    • 水油仲買
    • 下り鰹節・塩干肴問屋
    • 藍玉問屋
    • 干鰯・魚〆粕・魚油問屋
    • 下り塩問屋
    • 同 仲買
    • 蠟問屋
    • 大坂革足袋商人
  • 一 同斷、十仲間外問屋名目株立居候分、
    • 下り米問屋
    • 関東米穀三組問屋
    • 地廻米問屋
    • 雑穀爲登組
    • 河岸八町米仲買
    • 脇店米屋
    • 舂米屋
    • 大道舂
    • 板材木熊野問屋組合
    • 竹木川邊壹番組古問屋
    • 木場材木問屋
    • 川邊竹木・炭・薪問屋
    • 材木仲買
    • 兩替屋
    • 水鳥問屋
    • 岡鳥問屋
    • 飼鳥屋
    • 漆問屋
    • 漆仲買
    • 紫根問屋
    • 地廻水油問屋
    • 地廻醤油問屋
    • 味噌問屋
    • 魚油問屋
    • 〔殻〕灰竃持・石灰問屋
    • 書物問屋
    • 絵双紙問屋
    • 紙煙草入問屋
    • 團扇問屋
    • 暦問屋
    • 硫黄問屋
    • 花枩問屋
    • 肴問屋
    • 塩干肴問屋
    • 石問屋
    • 地塩問屋
    • 地掛蠟燭・燈心屋
    • 眞綿問屋
    • 温飩杜氏宿
    • 炭・薪仲買
    • 石工見世持
    • 地漉紙仲買
    • 札差
    • 定飛脚問屋
    • 六組飛脚屋
    • 廻船問屋
    • 番組人宿
    • 辻番請負人
    • 馬喰町・小傳馬町旅人宿
    • 八拾貳軒組百姓宿
    • 三拾軒組百姓宿
    • 髪結
    • 御堀浮芥定浚受負人
    • 八品商賣人
  • 一 享和度ゟ株立候分、
    • 豆腐屋
  • 一 文化度ゟ十組内訳いたし、株札相渡候分并新規株立十組附屬之分、
    • 菱垣廻船乘沖船頭
    • 人參・三臟円
    • 明樽問屋
    • 下り蠟燭問屋
    • 扇問屋
    • 小間物諸色問屋
    • 糸問屋
    • 竹皮問屋
    • 茅町組、雛人形・手遊問屋
    • 雪駄問屋
    • 三拾軒組、下り蠟燭問屋
    • 草履問屋
    • 茶問屋
    • 江州・城州茶問屋
    • 繪具・染草問屋
    • 線香問屋
    • 船具問屋
    • 丸合小間物問屋
    • 同針問屋
    • 同きせる間屋
    • 同筆・墨・硯問屋
    • 蕨繩問屋
    • 白粉・紅粉問屋
    • 菅笠問屋
    • 古手問屋
    • 打物問屋
    • 色油問屋
    • 錫・鉛問屋
    • 生布海苔・苧屑苆問屋
    • 綿打道具問屋
    • 煙草問屋
    • 丸藤問屋
    • 下り素麵問屋
    • 鍋釜問屋
    • 麻苧問屋
    • 下り傘問屋
    • 煙管問屋
    • 奥川船積問屋
    • (朱書)「是ゟ以下十組外」湯屋
    • 土船持
    • 打綿屋
    • 地糠屋

(人数・但書等は省略、変体仮名は適宜置き換え)


この中に柿渋を扱っていた問屋の名前が無いということは、少なくとも公的に冥加金を納めて柿渋の流通に影響力を発揮出来る様な問屋は江戸には存在しなかった、と考えざるを得ないでしょう。また、以前紹介した「樒花問屋」の様に、この名簿の中に名前がなかった問屋でも再興の是非を検討されたものは「諸問屋再興調」にその経緯が収録されていますが、柿渋の問屋については少なくとも町年寄から奉行所に是非伺いを行った様子もありません。

江戸買物独案内巻2―210
「江戸買物独案内」の「き」の項
(いろは順に並んでいる)には
煙管(きせる)問屋」のみが収録されており
生渋(きしぶ)問屋」はない
因みに「十組」とは「十組問屋」の属であることを示す
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
守貞謾稿巻6「渋墨塗」
「守貞謾稿」巻6より「渋墨塗」(右ページ)
渋墨を塗る行商の絵が添えられている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

一方、大坂の「商人買物独案内」に相当する「江戸買物独案内」(文政7年・1824年)でも、柿渋の商人の名前を見出すことは出来ません。柿渋だけを取り扱う商いでは、こうした買い物案内に掲載されるほどの営業規模にはならなかったのかも知れません。

こうした史料を見る限り、やはり江戸では大坂の「生渋問屋」に匹敵する様な問屋・株仲間は結成されなかった可能性の方が高そうです。無論、江戸でも柿渋を扱う業者が多数存在したことを、「ものと人間」は「塵塚談」を引用して

…近世中期から後期にかけての社会風俗を記した『塵塚談』の「渋墨塗の事」の項では、「荷擔桶に渋を入 灰炭を合せかつき歩行 板塀したみなとを一坪に付何分と価を定めぬる事なり この墨塗安永天明の頃までは江戸中に十七人有りけるよし 近頃は三四百人にもなりしよし也」と記している。一七八〇年前後からわずか三〇年後には二〇倍以上にも増加していることは、この間に江戸市中における渋墨塗の需要が急激に増加したことを示している。

(上記書102〜103ページより)

と紹介しており、渋墨に限定された話ではありますが柿渋を扱う業者の数が江戸でも急増していたことがわかります。しかし、そうした江戸の柿渋は、問屋によって価格や品質が制御されることがなく、比較的自由な取引が行われていたのでしょう。

大坂と江戸でどうしてこの様な違いが生じたのかは良くわかりません。大坂の生渋問屋は享保年間には結成されていた様ですが、「享保の改革」の中で冥加金を条件にある程度の問屋・株仲間の結成が可能になるまでは、こうしたカルテルは寧ろ取り締まりの対象となっていましたので、大坂の生渋問屋は解禁の動きに乗じて逸早く結成を果たしたことになります。江戸でも同様の問屋を結成しようという動きがなかったのかどうかはわかりませんが、そうした動きが見られないまま、後になって柿渋を扱う業者の急激な増加を見るに至ったということになりそうです。

漆については以前も紹介した通り、また上記の名簿にも漆問屋・漆仲間の名前がある通り、安永の頃から問屋が結成されて活動をしていました。それに比べると柿渋については比較的参入が容易で、また漆に比べて生産も簡単に出来ることから、江戸で需要が膨らめばそれだけ農村から柿渋が持ち込まれる、といった構図があったのではないかと想像します。これは生渋問屋があった大坂でも同様であった様で、

…「明治元戊辰年十月 渋仲間名前帳」(一八六八)の中では渋取引きのことを中心に細部にわたった申し合わせ事項が書かれている。よくみると、「渋買取候節は、名前(とく)と聞き(ただし)、出所あやしき渋一切買取申間敷(もうすまじき)事」とあり、品質不良の柿渋が出回っていたことがうかがえるが、「(まが)い物」が出るほど多量の柿渋の流通があったことが推察される。

(「ものと人間」11ページより)

といった状況が紹介されています。

前回紹介した小田原藩の柿渋の貢税の記録の密度が次第に粗くなっていく背景には、こうした江戸の柿渋の市場の動向も影響しているのかも知れません。もっとも、柿渋の流通量自体は寧ろ増えていた可能性が高く、貢税に影響があったとすれば相対で決められていたであろう柿渋の売価の方ということになりそうです。この辺りは関東や関西の他の藩領での柿渋貢税の事情を比較しないと確かなことは言えませんが、今回はそこまで調査の手を延ばすことが出来なかったので、飽くまでも小田原藩の事情ということに留めます。

次回は柿が登場する民話や風習などを取り上げる予定です。




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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

この記事へのコメント

- aoikesii - 2015年03月22日 09:11:52

fc2の不都合について、ご丁寧なご助言をありがとうございました。
手探りでブログを運営しているものですから、何かあるとパニクってしまいます。
少し、安心いたしました。

Re: aoikesii さま - kanageohis1964 - 2015年03月22日 10:17:41

こんにちは。コメントありがとうございます。

その後FC2側から原因について発表がないので再発の可能性なしとは言えない状況ですが、何れ対策はしてくれるものと期待する以外にないですね。それとも24日の画像ファイルサーバ(一部)のメンテナンスがそれなのかな?

- sausalito - 2015年03月22日 22:59:21

いつも多彩な情報量に圧倒されながら読ませていただいています。
ツグミの件、ご指摘をありがとうございます。これで2回目ですね。
野鳥図鑑でも買って勉強しようと思います。
今後ともよろしくお願いいたします。

Re: sausalito さま - kanageohis1964 - 2015年03月23日 09:52:38

こんにちは。コメントありがとうございます。

最近はフィールドに出ていないので自然観察がらみの話は専ら皆さんのブログにお邪魔して写真などを拝見させてもらうだけになっています。野鳥の話題はこちらでも機会があれば取り上げたいと思っているのですが、地誌と絡めてということになるとなかなか題材がなく、江戸時代の話となると専ら鷹狩の話になってしまうのですよね。
こちらこそ、改めてよろしくおねがいします。

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