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柿について:「新編相模国風土記稿」から(その5)

前回に続き、今回も「新編相模国風土記稿」の産物一覧に取り上げられた柿について見ていきます。今回は、相模国内の江戸時代の柿渋の貢税の実情を見ていきます。

以前漆を取り上げた際にも、小田原藩領内の各村から漆の貢税の記録が多数見つかることを紹介しましたが、同じ頃に柿渋も貢税の対象となっていたことが、各村の村明細帳の記録から明らかです。今回もかなり長くなりますが、私が確認出来た村明細帳をひと通りリストアップしてみます。まだ遺漏はあると思いますが、御容赦下さい。

  • 寛文12〜13年(1672〜73年):
    • 足柄上郡:
      • ◇菖蒲村(現:秦野市菖蒲):寛文十三年 菖蒲村明細帳([秦]156ページ)

        一柿渋弐斗六升 毎年上納仕候。

      • ◇柳川村(現:秦野市柳川):寛文十二年八月 柳川村明細帳(村かゝみ、[県五]445ページ)

        一柿渋壱斗九升 毎年上納仕候、

      • 萱沼村(現:松田町(やどりき)萱沼地区):寛文十二年八月(十二日) 萱沼村明細帳([県四]397ページ)

        一柿渋御配苻次第毎年出シ申候、

      • 都夫良野(つぶらの)村(現:山北町都夫良野):寛文十二年 都夫良野村書上帳([山]218ページ)

        一柿渋御配布次第每年出申候

      • ◇△平山村(現:山北町平山):寛文十二年七月二十五日 平山村村鏡之書上ヶ之帳([山]274ページ)

        一かき葉三斗三升(御割付次第)宛每年納申候

      • ◇篠窪村(現:大井町篠窪):寛文十二年七月(二日) 篠窪村明細帳([県四]392ページ)

        一柿渋弐斗 員数定毎年上納仕候、

      • ◇塚原村(現:南足柄市塚原):寛文十二年九月年 塚原村明細帳(村鏡、[南]131ページ)

        一御厨ヨリ柿渋(カキシブ)九樽宛毎年参候、御厨御代官衆御配苻ニ而人足拾八人宛出シ、田古村ヘ村次仕候、

      • 怒田(ぬだ)村(現:南足柄市怒田):寛文十二年七月 怒田村明細帳([南]266ページ)

        一柿渋弐斗六升宛(御配苻次第)毎年納申候、

      • 飯沢村(現:南足柄市飯沢):寛文十二年七月 飯沢村明細帳([南]455ページ)

        一柿渋、御配苻次第毎年納申候、

    • 足柄下郡:
      • ◇小船(おぶね)村(現:小田原市小船):寛文十二年九月(十七日) 小船村明細帳(下書、[県四]380ページ)

        一 柿渋三升 毎年上納仕候、

      • 永塚村(現:小田原市永塚):寛文十二年七月(六日) 永塚村明細帳([県四]402ページ)

        一柿渋三升 毎年員数定上納仕候、

      • 久野村(現:小田原市久野):寛文十二年六月(十四日) 久野村明細帳([県四]421ページ)

        一柿渋三斗五升宛毎年納申候、

      • 宮上村(現:湯河原町宮上):寛文十二年八月 宮上村明細帳([県五]450ページ)

        一柿しぶも毎年納申候、

  • 貞享3年(1686年):
    • 足柄上郡:
      • ◇菖蒲村:([秦]163ページ)

        一柿渋弐斗六升づゝ 毎年上納仕候。

      • 都夫良野村:貞享三年四月 都夫良野村明細帳([県五]498ページ)

        一柿渋弐升七合毎年納申候、

      • 皆瀬川村(現:山北町皆瀬川):皆瀬川村指出帳([山]203ページ)

        一柿渋弐斗壱升三合毎年納申候

      • ◇川西村(現:山北町川西)貞享三年四月 川西村指出帳([山]243ページ)

        渋柿(ママ)壱斗弐合納来申候

      • ◇神縄村(現:山北町神縄):貞享三年四月(神縄村指出帳、[山]252ページ)

        一柿渋四升五合 毎年納来申候

      • ◇高尾村(現:大井町高尾):貞享三年四月 高尾村明細帳(田畑指出し帳、[県五]453ページ)

        一柿渋七升 年〻上納仕候、

      • △西大井村(現:大井町西大井):貞享三年四月(十二日) 西大井村明細帳(差出帳、[県五]466ページ)

        一御用之柿渋御割苻次第納申候、年ゟ高下御座候、

      • △宮の代村(現:開成町宮台):貞享三年四月(八日) 宮の代村明細帳(指出シ帳、[県五]594ページ)

        一御用柿渋壱斗七合納申候、

      • 金井嶋村(現:開成町金井島):寛文十二年八月(三日) 金井嶋村明細帳([県四]417ページ)

        一御用之柿渋御配苻次第毎年出し申候、

      • △壗下村(現:南足柄市壗下):貞享三年四月 壗下村明細帳(侭下村御指出帳、[南]228ページ)

        一柿渋壱斗弐升四合 毎年定納

      • △苅野本郷村(現:南足柄市狩野):貞享三年四月(八日) 苅野本郷村明細帳(指出帳、[県五]476ページ)

        一柿渋九升御配苻次第納申候、

    • 足柄下郡:
      • △蓮正寺村(現:小田原市蓮正寺):貞享三年四月(七日) 蓮正寺村明細帳(指出帳、[県五]523ページ)

        一御用之渋柿(ママ)御割苻次第納申候、但シ毎年弐升三合つゝ納申候、

  • 宝永5年(1708年):
    • 足柄上郡:
      • 皆瀬川村:宝永五年 皆瀬川村指出御帳下書([山]207ページ)

        一柿渋弐斗壱升三合毎年納申候

      • (◇)湯触村(現:山北町湯触):宝永五年二月 湯觸村指出帳([山]233ページ)

        一柿渋弐升七合毎年上納

      • 関本村(現:南足柄市関本):宝永五年二月 関本村明細帳([南]500ページ)

        一柿渋壱斗五合 毎年上納仕候、

注:

  • 村名頭の「◇」は漆の、「△」は大和柿・小渋柿の貢納の記録のある明細帳、なお宝永五年の湯触村については、漆については宝永噴火の降灰の影響で免除されているため、括弧付きとした
  • 出典略号は次の通り、以下でも同様:[秦]…「秦野市史 第2巻 近世史料1」、[山]…「山北町史 史料編 近世」、[南]…「南足柄市史2 資料編近世(1)」、[県四]…「神奈川県史 資料編4 近世(1)」、[県五]…「神奈川県史 資料編5 近世(2)
  • 貞享三年の川西村及び蓮正寺村の明細帳は「渋柿」と記しており、川西村については「山北町史」の解説もこれを踏襲しているものの、近隣の村々の事例や貢納の量が体積で示されていることから見て、「柿渋」の意と解すべきと判断してこちらに含めた。寛文十二年の平山村の明細帳の「かき葉」についても同様に近隣の事例や柿の葉を体積で測る不自然さから見て「柿渋」である可能性が高いと考える


以前まとめた漆の貢税の一覧と大分良く似た一覧になりましたが、どうしてもその時の一覧と対比させながら分析することになりますね。前回の一覧もかなり大きくなりましたので、こちらに改めて転記するのはさし控えます。御手数ですが必要に応じて見比べてみて下さい。

上の一覧で「◇」や「△」印を付して示した通り、中には漆と柿渋の両方を取り立てられていた村もあり、更に大和柿や小渋柿を取り立てられていた村でも柿渋を別途貢上していた村までありました。平山村ではこれら3品が全て貢税の対象になっています。更に、貞享3年の皆瀬川村、川西村、神縄村の明細帳では、天和3年まで「柏皮」の貢税があったことを記していたことも以前紹介しました。この当時の貢税の是非が、こうした品目相互には斟酌されてはいなかったことが窺えます。それぞれに産出があれば何れも貢税の対象とされていた訳ですが、特に当時の主要な塗料として考えられる品目が何れも貢税の対象となっていたことが窺えます。


とは言え、やはり柿の木の方が漆よりも栽培適地が多かったからか、それとも漆から樹液を採取するよりも柿渋を精製する方が容易であったからかはわかりませんが、柿渋の貢税を課されていた村は漆を課されていた村よりも多くなっています。勿論これは、私が見出せた範囲内での比較なので、他の記録を合わせた時に同じ傾向になるかは更に検証が必要ですが、全体としては漆のみを課されていた村よりも柿渋のみを課されていた村の方が多くなっています。

なお、大和柿・小渋柿を課されていた村でも、必ずしも柿渋を課されていたとは限らず、苅野一色村、金手村、山北村、曽我谷津村、高田村、中曽根村については柿渋の貢税の記録がありません。このことは、柿渋のための木が大和柿・小渋柿のための木とは別物であったことを窺わせます。この点からも、やはり柿渋用の柿には渋柿を専ら使っていた可能性が高いと言えるでしょう。

漆の場合は「貫」「匁」と重量で測られていたのに対し、柿渋は「升」「斗」と体積で測られています。私がネット上で漆や柿渋を取り扱っている通販業者を数社確認した限りでは、現在でも漆は大半が重さで、柿渋は体積で測られて販売されています。こうした取り扱いの違いが、少なくとも江戸時代初期には確立していたことになります。ただ、どうしてこの様な違いがあるのかは残念ながら調べ切れませんでした。

こうした単位上の違いがあることもあって、漆と柿渋の量を比較することが困難になっています。強いて言えば漆や柿渋の「比重」を使って相互の比較が可能になるように単位を揃えることも考えられなくはありませんが、前回見た通り柿渋にも「一番搾り」と「二番搾り」があったことからそれぞれの比重(濃度)が異なることは容易に想像でき、漆についても同様の事情が想定出来るので、かなり大雑把な計算に留まる可能性が高いでしょう。更に、毎年どの程度の量を納めていたのかについて、明記がある村とない村があり、この断片的な記録の中でも総量を計算することが出来ず、最終的に小田原藩がどの程度の量の漆や柿渋を毎年集めていたのかについて推し量ることも極めて難しくなってしまっています。因みに、小田原藩側の漆や柿渋の貢税に関する記録は今のところ見つかっていません。

ただ、特に柿渋の場合は平野部でも生産は可能であったと考えられることから、村明細帳が見つかっていない村々からも相当な量を集めていたと考えられ、その点では、絶対量としては柿渋の方が多くなる可能性が高かったと思われます。

なお、漆の方はその一部ないし全量を「浮役」、つまり労務に置き換えて課される例が多々ありましたが、柿渋についてはその様な扱いはなかった様です。また、その賦課方式も毎年納める量を予め数年間の平均で定める「定納」と年々生産量を見て決める方式の双方が同じ年に混在しており、更に寛文12年の都夫良野村の様に漆は「漆四百九拾五匁」と「定納」なのに柿渋は「御配布次第」とされる様に、同じ村でも品目によって扱いが異なる事例まであります。この時期には漆や柿渋の貢税のために毎年かなりの労力を割いて貢税量を定めていたのでしょう。

小田原藩がこれらの柿渋をどの様に扱ったについても記録がありません。前回取り上げた通り、柿渋の用途は多岐にわたっており、小田原城や藩の江戸屋敷などでも相当量が消費されていたとも考えられます。ただ、「ものと人間」によれば

…近世中期から後期にかけての社会風俗を記した『塵塚談』の「渋墨塗の事」の項では、「荷擔桶に渋を入 灰炭を合せかつき歩行 板塀したみなとを一坪に付何分と価を定めぬる事なり この墨塗安永天明の頃までは江戸中に十七人有りけるよし 近頃は三四百人にもなりしよし也」と記している。一七八〇年前後からわずか三〇年後には二〇倍以上にも増加していることは、この間に江戸市中における渋墨塗の需要が急激に増加したことを示している。

(「ものと人間の文化史 115・柿渋」今井 敬潤 2003年 法政大学出版局 102〜103ページより)

としており、建築物としての柿渋利用の需要が伸びて来るのは江戸時代後期としています。この伝では、江戸時代初期にそこまで柿渋を屋敷の建築物に積極的に塗っていたとは一概に言えません。勿論、柿渋についても漆同様に城下で下げ渡していた可能性も十分にあり得ます。


湯触村の位置
南を酒匂川が流れ、北から河内川が合流する地点の
東側の山裾にある(「地理院地図」より)
さて、漆の場合は宝永4年(1707年)の富士山の噴火によって壊滅的な打撃を受け、その後も長きにわたって漆の栽培が再開出来なかった地域があることを紹介しました。これに対し、柿渋の場合は上記の通り翌年の宝永5年に貢税の記録が引き続きあり、しかもそのうち湯触村では、漆については降灰の影響から貢税が免除されているにも拘らず、柿渋にはその様な措置が講じられた形跡がありません。この点から考えると、恐らくは柿については降灰の影響が限定的であったと言えそうです。

しかしながら、これ以降は同じ地域の村明細帳から柿渋の貢税に関する記載が見えなくなってきます。例えば、都夫良野村については延享3年(1746年)の村鑑下書が残っており、これには引き続き漆の貢税が免除されていたことは記されていますが([山]229ページ)、この村鑑では柿渋の貢税に関する記述が見えません。同じ年の川西村の村鑑帳でも同様に漆の貢税の免除の記録があるにも拘らず([山]248ページ)、やはり柿渋の貢税については記述がありません。湯触村の享保6年(1721年)の村鑑でも同様です。その他、篠窪村の享保6年、菖蒲村の元文元年(1736年)と文政12年(1829年)の村明細帳からも柿渋の貢税の記録が消えています。

大和柿・小渋柿の場合は後に貢税が中止されたことが文書として残っていますが、柿渋についてはその様な記録はありません。また、更に時代が下った頃の明細帳の中に
  • 足柄下郡飯田岡村(現:小田原市飯田岡):天保五年(1834年)三月 足柄下郡飯田岡村明細帳(指出帳、[県五]569ページ)

    一柿渋壱升七合宛上納仕候、

  • 足柄上郡怒田村:明治四年(1871年)十二月 怒田村明細帳([南]273ページ)

    一柿渋三斗七升五合(上納)

引き続き柿渋の貢税が課されていたことを記すものもあり、やはり小田原藩の柿渋の貢税が江戸時代後期になって廃止されたと考えるのは正しくない様です。

ただ、柿渋の場合は漆の様に藩の国産方が積極的に増産に動いたことを示す記録もなく、漆ほどには柿渋に期待がかけられてはいなかったのは確かです。一連の村明細帳に現れる柿渋の貢税の記録の密度の減少は、あるいはそうした藩の柿渋への関心度の低下を意味しているのかも知れません。

因みに、柿渋への貢税は相模国内の幕領でもあった様で、事例は少ないのですが
  • 高座郡当麻村(現:相模原市南区当麻):宝永二年(1705年)七月 当麻村村鏡(557ページ)

    一永百弐拾五文 浮役柿渋代納申候、

  • 津久井県下川尻村(現:相模原市緑区原宿など):元禄十二年(1699年)(二月) 下川尻村差出帳(692ページ)

    一永百四拾九文 柿渋代

    三拾八年已前野村彦太夫様(為重)御代官所之節ゟ、久世大和守様(広之)御知行所節迄年〻増減有之、渋ニ而差上ケ候処、拾六年已前都筑長左衛門様(則次)、御代官所之節ゟ永御直シ被成定納罷成候、如何様之積ニ而代永御直シ被成候哉知レ不申候、

(何れも「神奈川県史 資料編6 近世(3)」より)
と、やはり柿渋の貢税があったことを記す明細帳が存在しています。旗本領でも、後年の記録ではありますが
  • 高座郡相原村(現:相模原市緑区相原):明治三年三月 相原村村差出明細帳(「相模国村明細帳集成 第二巻」青山孝慈 青山京子編 岩田書院 980ページ)

    一 永八拾六文 柿渋代

    是者、書面之代永年〻相納申候、

と、柿渋の貢税を永銭で納めていたことが記録されています。この相原村の事例からは、幕末には柿渋への貢税が名目化してしまい、柿渋の産出の有無を問わず貢税として課される様になっていたことが窺えます。

次回は、この柿渋の流通を巡る話題を取り上げる予定です。




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この記事へのコメント

- たんめん老人 - 2015年03月17日 11:15:58

毎回、興味深く読ませていただいております。柿渋ということで思い出したのですが、落語の「田能九」に登場する大蛇が柿渋とたばこのやにが苦手だということになっています。実際に、蛇はニコチンに弱いようですが、柿渋についてはどうなのか気になります。

Re: たんめん老人 さま - kanageohis1964 - 2015年03月17日 12:07:30

こんにちは。コメントありがとうございます。

今回柿渋について参考にしている「ものと人間の文化史 柿渋」では毒流し漁法が紹介されていますし、民間療法ではマムシの毒消しに使っていたという事例も挙げられています。カキタンニンが実際に蛇毒を消すのに効果があるという研究もある様です。御指摘の落語のネタもあるいはその辺りが背景にあるのかも知れませんね。

- たんめん老人 - 2015年03月18日 19:26:17

丁寧なご回答を有難うございました。落語の題を「田能九」と書きましたのは記憶違いで、正しくは「田能久」でした。お礼とともに、訂正させていただきます。

Re: たんめん老人 さま - kanageohis1964 - 2015年03月30日 18:38:31

こんにちは。

先日戴いたお話、折角ですのでもう少し掘り下げて記事にしてみました。
http://kanageohis1964.blog.fc2.com/blog-entry-313.html

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