柿について:「新編相模国風土記稿」から(その4)

前回に続き、今回も「新編相模国風土記稿」の産物一覧に取り上げられた柿について見ていきます。今回から相模国での「柿渋」の事情について紹介します。

その前にまず、そもそも「柿渋」とは何かというところから解説が必要かも知れません。もっとも柿渋については以前「柏皮」を取り上げた際に一度その名を出しているので、今更ながらという雰囲気ではあるのですが、もう少し詳しく解説してみようと思います。

今回、相模国の柿の歴史についてまとめるに当たり、江戸時代までの全国的な柿や柿渋の歴史については、参考資料として次の2冊を参照しています。

  • 「柿の民俗誌―柿と柿渋」今井 敬潤(1990年 現代創造社、絶版)
  • ものと人間の文化史 115・柿渋」今井 敬潤(2003年 法政大学出版局、以下「ものと人間」)

双方とも同一の著者による著書で、後者が前者を下敷きにしながら博士論文を改稿して著されたことが「あとがき」にも記されていますので、重複箇所も少なくありませんが、特に食用の柿の歴史については前者の方が手厚くまとめられています。

「柿渋」は柿の実に含まれる「渋」、つまりタンニンを抽出して精製した液体です。渋柿に含まれる「渋」は食用とする場合には干柿など何らかの方法で「渋抜き」をしますが、「柿渋」は寧ろその「渋」を有効利用する訳です。因みに甘柿でもタンニンは含まれているため、渋柿と同じ様に「柿渋」を作ることは出来なくはありません。しかし、先日引用した「広益国産考」で、甘柿は屋敷の庭の目の届く所に植え、渋みの強い品種ほど山に近い所で栽培せよと指摘されていることから考えると、手塩にかけて育てた甘柿を食用とせずに、敢えて柿渋用に廻してしまうことは江戸時代の農法ではあまりなかったのではないかと思われます。江戸時代初期の農書である「農業全書」でも

○又柿染(しぶ)になる、山渋柿をもうへ置て、家事の助とすべし。木練其外菓子になる柿ハ、人煙〈いゑけふり〉のかゝる所ならでハ実る事なし。山渋柿ハ人家〈いへ〉をはなれても、肥地にてハ、よくなる物なり。穀田のさハリにならざる所を見合せて必うゆべし。惣じて柿のミに限らず、人の賞翫する菓樹〈なりき〉、其外四木等に至る迄、世の助となる草木、人家をはなれ、人の往来稀なる所にハいか程肥良の土地にても、盛長せざる道理と見えたり。就中勝れて実の大き菓樹〈なりき〉ハ、朝夕人煙〈いへけふり〉に触れ、根さき家屋の下にさし、はびこるほどにあらざれば、十分の実りなきとしるべし。

(「日本農書全集 第13巻」農山漁村文化協会149ページより、ルビは一部を除き省略)

と、やはり甘柿と渋柿の植える場所を分けるべきであることを説いています。

広益国産考巻4「渋を搾る図」
「広益国産考」より「渋を搾る図」
梃子に腰掛けて体重を載せる様子が
描かれている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
柿渋の製法については、幕末の農書である「広益国産考」で次の様に解説しています。

…又丘山(ひくやま)にハ小さき渋柿を多く植て渋をとるべし。是又利を得るもの也。其渋のとりやうハ五月ごろの柿の若く青きをとり、石うすにて(つき)つぶすか、(つきうす)にてもよし。(よく)つぶして半切桶に入、水をひたひたに入て半日ほど置藁にて拵へたる蒲簀(かます)に入、桶の口に木にて造りたる簀を其上におき右蒲簀をのせ、豆腐をしぼるごとく、棒にて押へ、其棒のさきに腰をかけてしぼれバ、渋ハ下へたれ粕は蒲簀に残る也。其粕を出し、半切桶に入又水を少し入、一夜置右のごとくして絞りて一番しぼりと別にいたし置弐ばんとして売に一番三ケ一の直段(ねだん)にハ売るもの也。渋ハ何国にても酒屋に多く用ひ、其外傘桐油渋紙等に用る事多けれバ、随分売口多きものなれバ、山にて畑にならざる地にハ此小渋柿を多く植て渋にて売べし。

(「日本農書全集 第14巻」農山漁村文化協会 204〜206ページより、ルビは一部を除き省略、くの字点はひらがなに展開)

和漢三才図会」では潰した柿の実を2晩ほど置いてから搾るとするなど、日数には若干の差がある様ですが、何れにしても搗いた柿の実を水に浸して醗酵を促すのが目的です。1回搾っただけでは絞り粕には柿の渋がまだ残っているので、もう1回水を加えて醗酵させて絞り直す訳ですが、やはり2回めの搾り汁では多少渋が薄くなるので値段が安くなるのでしょう。なお、醗酵過程で柿渋には独特の「匂い」が付きます(最近ではこの匂いを取り除いた柿渋も販売されている様です)。

「ものと人間」では日本での柿渋利用について、近世以前の史料が極めて少なく、

さらに遡った時代の柿渋利用の歴史を明らかにする上では、文献資料に期待できるところはきわめて少なく、漆器考古学における遺跡からの漆器類の調査の成果が柿渋の利用の起源を考えるうえで重要な示唆を与えてくれるものと考える。

この点で、「古代末から中世にかけての加賀・能登地方の幾つかの遺跡から発掘された漆器ならびに十一世紀中葉の青森県八幡崎遺跡から出土した漆器の下地に柿渋が使われていた」とする四柳嘉章氏の一連の研究成果は特筆すべきである。

(上記書14ページより)

と、今のところは平安時代末期頃の出土品が最古の事例ということになる様です。文献だけでは柿渋は中世頃までしか遡れないものの、今後古代の出土品に柿渋の使用事例が更に見つかれば、この時期ももっと遡る可能性が残っている様です。

また同書では「柿渋」という言葉が具体的に現れる文献としては康正3年(1457年)の「山科家礼記」が挙げられており、この頃には柿渋の生産が恒常的になっていたことが指摘されています。江戸時代に入るまでには一般的になっていたと考えて良さそうです。

柿渋の用途として一番思い当たるのは塗料で、上記の漆器の下塗りにも既に柿渋が用いられていることから塗料としての柿渋利用は早くからあったものと思われますが、「ものと人間」では第二章で「柿渋の伝統的利用法」と題して次のものを挙げて解説しています。内容的には一部近代以降にまで下って解説されているものもありますが、大筋で近世の柿渋の主な用途が網羅できていると思いますので、ここではその目次を掲げます。
  • 一 漁網と柿渋
    • 柿渋による網染め
    • 柿渋による網染めの歴史
    • 各地の網染めの実態とその特徴
  • 二 本製容器と柿渋
    • 漆器と柿渋
    • 木製容器への柿渋の利用
    • 漆の代替品としての柿渋
    • 渋下地と日野椀
    • 渋下地と会津漆器
  • 三 衣類と柿渋
    • 柿渋染めの歴史
    • 日本各地における柿渋染めのいくつかの事例
    • 韓国・タイ国の柿渋染め
    • 工芸染色としての柿渋染め
  • 四 和紙製品と柿渋
    • 渋紙類
    • 紙子(紙衣)
    • 染色用型紙
    • 和傘
    • 渋団扇
    • ボテなどの容器類
    • 合羽摺り
    • 染色で用いられる糊筒
  • 五 建築塗料としての柿渋
    • 文献資料にみる建築塗料としての柿渋
    • 建築塗料としての柿渋の各地の民俗事例
    • 天然塗料としての柿渋の見直し
  • 六 醸造用資材と柿渋
    • 搾り袋および醸造用具
    • 滓下げ剤
  • 七 養蚕と柿渋
  • 八 民間療法における柿渋
  • 九 毒流し漁法と柿渋

(同書目次より)


このうち、漁網染めについては以前「柏皮」を取り上げた際に、房総半島ではその性質の違いから使い分けが行われていたらしいということを紹介する折に引用しました。残念ながら相模国沿岸の事例が見当たらなかったので、相模湾岸の漁師が漁網や釣り糸を染めるのに柏皮や柿渋をどの様に使っていたのかは不明ですが、あるいは房総半島と同様の使い分けが行われていたのかも知れません。因みに、醸造用の搾り袋に柿渋を用いるのは、「ものと人間」によれば袋に使った木綿の繊維の撚りが戻って目詰りするのを防ぐ目的があるとのことであり(同書126ページ)、漁網や釣り糸にも同様の効果が期待されていた側面もあるかも知れません。

漆器の下塗りという点では、箱根や小田原の漆器の場合は「木地呂塗り」を行っていました。「木地呂塗り」では木目を出すために下塗りから漆を使いますので、これらの地域では下塗りに柿渋を使うことはなかったと思われます。それ以外の地域の漆器の場合は技法に応じて柿渋を下塗りに使う例もあったかも知れませんが、この辺りは定かではありません。

比較的大量に柿渋を必要とする用途としては、建築塗料としての用途が挙げられるでしょう。今でも黒塀を塗る際に、柿渋に杉などの灰墨を混ぜた「渋墨(しぶずみ)」を用いる例は多々あります。塀を塗るとなれば相応の面積になりますので、一度に大量の柿渋が必要になりますが、その点では漆に比べれば量産しやすい柿の実を使う柿渋が向いていると言えるでしょう。また、建材に漆を塗る場合でも下塗りには柿渋を使って厚みを増しますので、この点でも柿渋の方が漆に比べ量を確保しやすいという特性が活かされていると言えます。

「ものと人間」では「海游録」「塵塚談」「守貞謾稿」「新撰百工図解」といった文献に、江戸時代の建築塗料としての柿渋の利用に関する記述があることを紹介しています(同書102〜105ページ)。当時は民家の下見板にも渋墨を塗っていた様ですので、必ずしも屋敷を構えられる武家や名主などに利用者が限定されていた訳ではなく、多くの建築物で柿渋が塗られていたのでしょう。


twitter:たま(箱根関所)さんのツイートより
江戸時代の相模国の建築物の事例としては、復元された箱根関所を挙げることが出来るでしょう。平成19年(2007年)に復元工事が竣工した箱根関所は、慶応元年の「相州御関所御修復出来形帳」の記録に基づいて当時の状況を出来るだけ再現することが目指されていますが、その結果復元された建物の大半に渋墨が用いられています。今年この渋墨が塗り直されていますが、時間が経つと次第に褪せてくるため定期的な塗り直しが必要ということは、柿渋の需要が建物の維持管理局面でも存在していたことになり、この点でも江戸時代には柿渋の需要は大量にあったと考えて良さそうです。因みに、この箱根関所の公式アカウントがこの塗り直しに際してtwitterに流したツイートの中に出て来る「匂い」は、柿渋を醗酵させる過程で付いたものですね。

また、その撥水性を利用して紙に塗って渋紙を作る用途も重要でしょう。この辺りになると特定の産品のために用いられるというよりは、およそ必要がありそうなものにはあらゆる場所で用いられていたと考えられるので、特定の地域に流通するよりも、農村などでも必要があれば自ら渋紙を作ったりしていたのではないかと思います。つまり、江戸や宿場町の様な主だった消費地に農村で生産する柿渋が流通する流れが専らであったと考えるよりは、農村内部でも様々な場所で柿渋が生産され、また自ら利用する状況であったと考える方が実態に合っていそうです。養蚕で使う蚕網(いあみ)を染めるなど、養蚕では蚕網(いあみ)を柿渋で染めて蚕の排泄物による劣化を防ぐなど、養蚕農家での必需品という側面もあったことから、養蚕農家では柿渋を自給していたことが「ものと人間」で紹介されており(133〜136ページ)、その点から考えても柿渋は農村地帯内部で流通していた分もかなりの量に上りそうです。

因みに、渋紙を使う用途の1つとしては提灯が考えられ、その点では「風土記稿」でも産物の1つとして取り上げられた「小田原提灯」も柿渋と縁があったと思われるのですが、残念ながら「小田原提灯」については江戸時代の記録が殆どなく、その製法を具体的に記したものがありません。ただ、「小田原提灯の三徳」という言い伝えによれば、

第三の徳は、風雨にあたっても剥げず破れぬちょうちんということだそうである。

小田原以外のものは、蛇腹に用いる芯の竹ヒゴは、竹を丸く細く削って線状にしたものでぉるが、元来の小田原物は竹ヒゴが角に、割合に太く削ってあって、糊(のり)の付着面が広いから、紙がしっかり張られてあって、雨や霧にかかっも(ママ)容易に剥げない。その上、紙には他のものより渋や油がよくきかしてあるので、濡れても紙が破れることがないというのだ。

(「小田原ちょうちんの歴史」中野 敬次郎著、「小田原ちょうちん」1977年 小田原ちょうちん保存会編 所収 39ページより、強調はブログ主)

とされており、この伝では紙にかなりしっかりと柿渋が塗られていたことになるでしょう。

次回は、柿渋の江戸時代の貢税の実情を紹介します。




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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

この記事へのコメント

目にしみるような - 東屋梢風 - 2015年03月25日 18:49:07

以前、観光地の土産物店で、真新しい番傘を見かけました。
強烈なにおいして、最初は続飯糊のせいかと思いましたが、後で柿渋と気がつきました。
時間が経てばにおいは消えるにしても、新しくおろしたてを使うのは少々難儀そうに思えます(笑)

Re: 東屋梢風 さま - kanageohis1964 - 2015年03月25日 21:47:33

こんにちは。コメントありがとうございます。

今はさておき、昔は専ら渋紙ですからねぇ。当時の人にとってあの匂いってどうだったんでしょうね。

江戸時代の紀行文とか川柳とかで柿渋の匂いに触れたものがあれば取り上げたかったんですが、今回はちょっと揃わなかったので、題材が揃ったらまた取り上げたいと思います。

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