柿について:「新編相模国風土記稿」から(その2)

本草図譜巻64「柿」1
「本草図譜」より「柿」
柿の実の上に「やまとがき」「木ねりがき」と見える
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
前々回に続き、今回も「新編相模国風土記稿」の産物一覧に取り上げられた柿について見ていきます。今回は、江戸時代初期の小田原藩の村明細帳に記された、柿の実の貢税について取り上げます。

これらの明細帳に「大和柿」や「小渋柿」を貢上していたことを記すものが数多く見当たります。私が見つけられた範囲では以下の通りですが、他にも事例があるかも知れません。これらの村々の位置を地図にプロットすると、酒匂川流域の平野と山麓に集中している様に見えますが、書き出した明細帳がどの程度当時の状況を網羅しているかがわかりませんので、他の事例をプロットした時にこの傾向が崩れる可能性があり、今のところは一概には言えないところです。

  • 足柄上郡平山村(現:足柄上郡山北町平山):

    寛文十二年七月二十五日 平山村村鏡之書上ヶ之帳(「山北町史 史料編 近世」274ページ)

    一五所柿其年之依(ママ)毎年納申候

  • 足柄上郡壗下(まました)村(現:南足柄市壗下):

    貞享三年四月 壗下村明細帳(侭下村御指出帳、「南足柄市史2 資料編近世(1)」228ページ)

    一大和柿 毎年御見分ニ而四分上納仕、六分木主被下候、

  • 足柄上郡苅野一色村(現:南足柄市苅野):

    貞享三年四月(九日) 苅野一色村明細帳(村指出シ、「南足柄市史2 資料編近世(1)」668ページ)

    一大和柿、壱本も無御座候、

    一小渋柿、木数四本、御検分次第納申候、但シ四分御取六分ハ百姓被下候、

  • 足柄上郡金手(かなで)村(現:足柄上郡大井町金手):

    貞享三年四月 足柄上郡金手村明細帳(指出帳、「神奈川県史 資料編5 近世(2)」460ページ)

    一大和柿柿渋前〃納申候へとも、拾八年村中屋敷替仕候付、御赦免被遊候、

  • 足柄上郡西大井村(現:足柄上郡大井町西大井):

    貞享三年四月(十二日) 足柄上郡西大井村明細帳(差出帳、「神奈川県史 資料編5 近世(2)」466ページ)

    一大和柿御見分之上四分指上ケ、六分木主□□□□

    但、大和柿所之(柿脱カ)て御座候、

  • 足柄上郡苅野本郷村(現:南足柄市狩野):

    貞享三年四月(八日) 足柄上郡苅野本郷村明細帳(指出帳、「神奈川県史 資料編5 近世(2)」476ページ)

    一大和柿・小渋柿御見分次第納申候、

  • 足柄上郡山北村(現:足柄上郡山北町山北):

    貞享三年四月(十一日) 足柄上郡山北村明細帳(差出帳、「神奈川県史 資料編5 近世(2)」495ページ)

    一小渋柿・大和柿先年ゟ無御座候、

  • 足柄下郡曽我谷津村(現:小田原市曽我谷津):

    貞享三年四月 足柄下郡曽我谷津村明細帳(田畑指出帳、「神奈川県史 資料編5 近世(2)」502ページ)

    一大和柿木数年〻御改被遊、柿なり申候得御見分之上柿ニ而上納仕候、

  • 足柄下郡高田村(現:小田原市高田):

    貞享三年四月(七日) 足柄下郡高田村明細帳(田畑指出シ帳、「神奈川県史 資料編5 近世(2)」507ページ)

    一大和柿木 三本御座候、御奉行様御見分之上ニ而四歩之召上、六歩百姓被下候、

  • 足柄下郡中曽根村(現:小田原市中曽根):

    貞享三年四月(七日) 足柄下郡中曽根村明細帳(指出帳、「神奈川県史 資料編5 近世(2)」512ページ)

    一大和柿御見分之上四分指上、六分木主被下候、大和柿御所柿之事ニ而御座候、

  • 足柄下郡蓮正寺村(現:小田原市蓮正寺):

    貞享三年四月(七日) 足柄下郡蓮正寺村明細帳(指出帳、「神奈川県史 資料編5 近世(2)」524ページ)

    一小渋柿・大和柿御見分上四分差上、六分木主被下候、但シ小渋柿木ねり、大和柿御所柿之事ニ而御座候、

  • 足柄上郡宮の代村(現:足柄上郡開成町宮台):

    貞享三年四月(八日) 足柄上郡宮の代村明細帳(指出シ帳、「神奈川県史 資料編5 近世(2)」594ページ)

    一小渋柿・大和柿御見分之上四分指上ヶ、六分木主被下候、

    但シ、小渋柿木ねり、大和柿御所之事ニ而御座候、

(それぞれ引用資料中で変体仮名が使用されている場合は小字に置換)


「大和柿・小渋柿」の貢税について記された村々の位置
上記明細帳の村々の位置
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)

但し書きに「大和柿とは『御所柿』のことである」とする記述が複数の明細帳に見られますが、前回の「大和本草」や「本草綱目啓蒙」の記述を見て戴ければ、この品種の別名であることが窺い知れます。また、「小渋柿とは『木ねり』のこと」とする記述が2村の明細帳に見えています。「大和本草」「本草綱目啓蒙」の記すところでは、「御所柿」「木ねり(練)」「大和柿」は何れも同じ品種を指す様に読めるのに対し、これらの明細帳では「木ねり」を「御所柿」や「大和柿」とは区別して「小渋柿」とする方向で記されており、この辺りは藩役人から村役人に対して指示があったのかも知れません。「木ねり」は甘柿ですから、これらの明細帳に記された「小渋柿」は、その字面に反して渋柿ではなかったということになります。

逐一この様な記述が見えるのは、村と藩の間で名称の確認が必要な状況にあったことを意味していると思われ、その点からは必ずしも小田原藩領内ではこれらが一般的な品種ではなかったことが窺えます。実際、大和柿の本来の産地は京都周辺だった訳ですから、小田原藩内では外から持ち込まれた品種であったことになります。

また、「御奉行様御見分」等の文言が記されているものが幾つかあります。これら寛文12年(1672年)や貞享3年(1686年)の明細帳は、小田原藩主が稲葉氏であった頃の事情を反映しています(貞享3年は藩主が稲葉氏から大久保氏に交代した年に当たり、大久保氏が前代の稲葉氏の頃の実情を把握するために村々から明細帳を提出させたのでした)。その稲葉氏の2代目の小田原藩主だった稲葉正則が残した「永代日記」に、この柿を検分する奉行を記録した項があります。

一 当年柿検見被 仰付者共、

 東筋川合六右衛門/脇坂九郎左衛門 中筋藤村利右衛門/福家五右衛門 西筋奈良部藤左衛門/植木権八郎

(「永代日記」から寛文二年八月十八日の記述:柿検見役人出張申渡、「神奈川県史 資料編4 近世(1)」284ページより)


ここで言う「東筋」「中筋」「西筋」は稲葉氏が小田原藩領を区分けした呼び方で、それぞれ大枠で酒匂川の東側、酒匂川と支流の狩川の間、狩川の西側に当たります。この日記によれば、それらの各筋に2名ずつ派遣して柿の見分を行わせたことになります。

その見分は比較的迅速に行われた様で、翌月9日には次の通り報告を受け取っていることが「永代日記」に記されています。この日程から考えると、各筋に2名ずつ派遣したのは、見分を急がせるために手分けさせる意図があったのでしょう。

一 小田原在〻柿員数目録来ル、但、当年大和柿少ク、小渋多キ也、

一 大和柿都合弐万五拾九

一 小渋柿四万千弐百九拾八

右之内

一 大和柿二千 但、四分一之積り、

一 小渋柿五千五百 但、三分一ノ積り、義雅公被遣、

一 大和柿六千廿余・小渋壱万千十余 御上屋敷御用

右之通毎年検見之上、此積りヲ以自今度可被進也、

(「永代日記」から寛文二年九月九日の記述:小田原城付領内の柿生産額目録、「神奈川県史 資料編4 近世(1)」285ページより)


「義雅公」は稲葉正則の嫡男の正通のことを指す様です。つまり、各村から取り立てたこれらの柿の一部は息子のところに送り、残りは江戸の上屋敷と城下に、という分配をしている訳です。単位が書かれていませんが恐らくは個数でしょうが、屋敷内だけで消費すると考えるとかなりの個数です。余った柿は城下などで払い下げていた可能性もありそうですが、その辺りの事情は定かではありません。

なお、「金手村」は以前は柿を貢納していたものの、屋敷替えがあった関係で柿の木を伐る必要があったのでしょうか、貢納を免除されています。後年になりますが、幕末期の農書である「広益国産考」(大蔵永常著 安政6年・1859年)では

甘柿ハロ近きものゆゑ、家居はなれてハ作りても盗難あるもの也。依て屋敷内に甘柿を植、少しはなれたる出畑に渋の大柿を植、手遠なる山畑の猪鹿兎等の出る所にハ小渋柿を多く作るべし。かくのごとく心がけなバ、一ケ年に拾両廿両の金子ハ不毛の地にてとり入べし。

(「日本農書全集 第14巻」農山漁村文化協会 206ページより、ルビは省略)

と、特に甘柿を植える場合は目の届きやすい屋敷の周辺に植え、山など遠方には渋柿を植える様に推奨しています。山北村の記述も、以前は柿の貢納があったものの、何らかの理由で取りやめている様に見受けられます。


Choushuukaku.JPG
横浜三溪園・聴秋閣
("Choushuukaku" by Dddeco - Dddeco.
Licensed under CC 表示 2.5
via Wikimedia Commons.)
柿の品種をわざわざ指定し、その見分に複数の役人を現地に派遣していること、栽培されている柿の本数が多くないこと、そしてその分配の個数から考えると、あるいはこれらの柿の貢納は稲葉正則自ら望んで行なわれていたものかも知れません。これだけの個数を自前で消費し切るのは無理がありますから、多くは茶の湯の席で茶菓として振る舞うなど、接待で用いる意図があったのかも知れません。実際、義父であった毛利秀元の手解きを受けた正則が少なからず茶の湯を嗜む人物であったのは確かで、現在横浜の三渓園にある茶屋「聴秋閣」は祖母である春日局から正則の江戸下屋敷に移されていたものです。ただ、彼の茶の湯と柿との関連を示すものは今のところ見つけられずにいます。


この祖母である春日局は将軍家光の乳母であった人ですが、三条西家の下で養育された経歴があるなど公家との繋がりも深く、京都で過ごした時間も長い人です。穿った見方ですが、あるいは正則もその影響で「本場」の大和柿の味を覚え、やがて小田原藩主となった時に領内の村々に植えさせたのではないかという気がします。近隣にはない品種の種や枝をわざわざ遠方の京都から取り寄せて栽培を始めるには、やはり相応の動機付けが必要で、その切っ掛けを与えたのが正則ではなかったか、という訳です。もしそうだとすれば、この稲葉正則という人は相当の「柿好きの殿様」だったことになるでしょう。

ただ、こうした柿の栽培は農家にとっては負担になっていたのでしょう、以前稲葉氏の下で取り立てられていた正月飾りの廃止を通達した元禄2年(1689年)の触書を紹介しましたが、その中では併せて「大和柿・小渋柿」も以後は取り立てないことが記されていました。

一蜜柑・柚子・大和柿・小渋柿、年貢

一正月御飾道具品々

右之分、

前々ゟ納来候といへとも、以御慈悲今年ゟ御赦免被仰出候間難有可奉存候、自今以後ハ猶以随分(精)を出シ毎年植木仕立可申候、若疎略いたし候ハヽ可為不届候

右之通、小百姓・無田之者迄可為申聞者也

元禄弐年十一月七日

河村新介(判)

戸田与兵衛(判)

郡八郎右衛門(判)

右本御書出シ成田村勘介御預ケ置被為遊候

(「山北町史 史料編 近世」466ページより再掲、強調はブログ主)


老中を務めていた稲葉氏の格式を維持する目的で雅な正月飾りを村々から取り立てていたのと併せて大和柿や小渋柿を徴収するのを止めたことから考えると、新たに小田原に入った大久保忠朝の目には、これらの柿も同様の目的で使われているものと映ったのかも知れません。

実際、以降の藩内の各村の村明細帳からは「大和柿」「小渋柿」の表記を見出すことがなくなります。そのために屋敷で手塩にかけて育てられていたであろう大和柿や小渋柿の木が、その後どうなったかは定かではありません。

次回は「金手丸」を中心に取り上げる予定です。




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