梨について:「新編相模国風土記稿」から

「新編相模国風土記稿」に記された産物一覧から、今回取り上げるのは「梨」です。
神縄・世附・久野の位置
神縄・世附・久野の位置
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)

  • 山川編(卷之三):

    ◯梨子足柄上郡神繩・世附二村、同下郡久野村の產、古風土記殘本にも、當國及足輕郡の產とす、

  • 足柄上郡図説(卷之十二 足柄上郡卷之一):

    ◯梨子神繩・世附二村の產、

  • 足柄下郡図説(卷之二十二 足柄下郡卷之一):

    ◯梨子、久野村の產、

(以下「風土記稿」からの引用は何れも雄山閣版より)


山川編各郡図説の記述は整合性が取れています。ここでも「」の時と同様に「古風土記残本」が引用されていますが、その取り扱いについては以前触れた通りです。他方、各村の記述のうち、足柄上郡の神縄村(現:足柄上郡山北町神縄)と世附村(現:足柄上郡山北町世附)には記述がありませんが、足柄下郡の久野村(現:小田原市久野)には
  • 久野村(卷之三十四 足柄下郡卷之十三):

    產物には柿實・梨子・柴胡・蕨の類多し、

と記載があります。

和漢三才図会巻87梨
「和漢三才図会」より「梨」
棠梨や桑の木に接木すると
実が早く生ることが記されている
(「国立国会図書館近代デジタルライブラリー」より)
本草図譜巻六十三「梨」
「本草図譜」より「梨」
「相州(異体字が記されている)神奈川」の字が見えるが
「武州」と取り違えたものか
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

梨は古くから日本で栽培されていました。「大和本草」では次の様に解説しています。

梨 梨の品類亦多し諸州名產多し佳品あり出雲に產するは其莖小く其瓤甚小にして味良し尤爲上品他州に其種子を傳へ植ふ又古賀ナシ靑ナシ水梨等あり靑梨は六七月早熟す冬梨あり霜後味甘し凡梨の好者是亦果の上品なり宋書に梨者百果の宗と云性大寒なり熱を去り渴を止む諸食品の内梨實を尤大寒とす實熱の病人は食ふに宜し虛冷の人禁食之蒸熟したるは性やゝ和なり痰喘氣急に梨を二にわり中子を去小黑豆を内に滿しめぬれ紙にて四五重つゝみ煨し熟して餅として食ふ本草に出たり梨子は寒を畏る煖處にをくへし酒を畏る本草曰蘿蔔の多き内に梨子を納むれは夂しく損せす又梨實の付たる莖を大根にさせは久しく堪ふ

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、名称以外のカタカナはひらがなに置き換え、返り点類は省略)


「大和本草」では出雲の梨を最良としますが、「本草綱目啓蒙」ではそれ以外の産地について次の様に記します。

ナシ アリノミ阿州 京師にては鹿梨をアリノミと云

アリノキ豫州

…一種大塲ナシは雲州の名產なり形圓大にして水多く香あり穰小くして肉多し皮の色黃を帶て微透す越後及び勢州にて マツヲナシと云是れ香水梨なり 一種牛靣(ゴメン)ナシは越後新瀉の產なり形至て大なる故名く又丹後田邉に一升ナシあり一顆に水一升ありと云豫章漫抄に斤九梨の名あり 顆の重さ一斤九兩二百五十錢あるを云此類なるべし

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、扱いは上記に準ず、…は中略)

特に「一升ナシ」といった名称などの記載から、梨は江戸時代当時から水気の多いものが珍重される傾向が既にあったことがわかります。産地の名前としては、欄外などの書き込みに「大和東川(ウノカハ)村に雲泉寺と云梨あり」「美濃に升大と云あり」などの追記が見えますが、「相州」を意味する地名は見当たりません。「本朝食鑑」でも産地として名が挙がっているのは「江州」「奥州」「甲州山中、武州八王子、伊豆、駿河、京畿、江南、海西」で、やはり「相模国」に関連する地名は入っていません。

「風土記稿」に名の挙がった足柄上郡神縄村、世附村、そして足柄下郡久野村に関する江戸時代の文書を「神奈川県史」「小田原市史」「山北町史」で探してみた限りでは、梨の生産に関する記述が含まれるものは見当たりませんでした。「第1回内国勧業博覧会」でも、相模国の地域からの梨の出品はなく、神奈川県域からは橘樹郡大師河原村からの出品があったのみでした。

「風土記稿」の産物についてこれまで見て来た中にも、他に史料を見出せず、江戸時代の事情について委細を明らかにすることが困難なものが幾つかありましたが、梨についても残念ながら同様の傾向ではある様です。因みに、現在「足柄梨」と呼ばれて足柄地区で栽培されているものは、明治40年頃に近代的な品種が導入されて栽培が開始され、第二次大戦による中断があったものの復活して現在に至るもので、その点では江戸時代に相模国で栽培されていた梨とは、少なくとも品種の点では繋がっていないことになります。せめて栽培地の点で繋がりがないか探してみましたが、今のところ両者の関係を示すものを見つけることは出来ていません。



「風土記稿」との繋がりという点ではなかなか見通しの乏しい相模国の梨栽培ですが、「藤沢市史料集(31)旅人がみた藤沢(1)」(藤沢市文書館編 2007年)に収録された道中記の中に、旅の途上で梨を買い求めた記録があるものが2点ほど見つかりました。1つは天保15年(1844年)に、足柄上郡雨坪村(現:南足柄市雨坪)の人(著者不明)が大山や江の島・鎌倉を巡った際の「大山ヨリ江之嶋鎌倉日記」で、7月17日(グレゴリオ暦8月30日)に平塚から国府津に向かう途上で「一 五十文 なし 三ツ」(同書65ページ)を求めています。道中連れ合いが何人いたのかが引用された部分では記されていませんが、その前後の平塚と国府津では西瓜を食べているのに更に梨を買い求めているのは、やはり夏場の暑い盛りで道中何度も喉を潤そうとしたのでしょう。

もう1つは幕末の嘉永7年(1854年)に、三河国渥美郡牟呂村(現:愛知県豊橋市牟呂町など)の八幡社の神主が東海道を経て東へと旅した際の記録である「御朱印御改道中上り下り在府中署入用手控」で、江の島に到着した8月28日(グレゴリオ暦10月19日)の記録に「一 弐十文 なし」と記されています(同書75ページ)。残念ながら道中のどの辺りで買い求めたのかについては委細が記されておらず、「藤沢市史料集」には前泊地の部分が含まれていないので、範囲が限定し難いのですが、少なくとも小田原〜藤沢間の東海道の途上ではあったでしょう。なお、同じ日には36文で柿を買って食べており、先ほどの道中との季節の違いが感じられます。

どちらの場合も、その様な沿道で販売する目的の梨をわざわざ遠方から持ち込んで来る可能性は低く、この頃東海道に程近い場所で梨が栽培されていた可能性は高いと思います。また、こうした道中の買い求められ方からは、「本草綱目啓蒙」が水分の豊富さを梨の品種の評価の基準にしているのも良くわかります。

こうした東海道沿いの梨の栽培や販売の情景は、長崎から江戸へ往参したオランダ商館長に随行した外国人によってもしばしば目撃されています。安永5年(1776年)に往参したトゥーンベリの「江戸参府随行記」では、池鯉鮒から吉田までを進んだ4月18日の記録の中で、沿道から見えた数種類の果樹の中に、梨を数え上げています。ちょうどこれらの果樹が花を咲かせる時期であったことも、トゥーンベリに果樹栽培に気付かせる良い目印となった様です。

村々では、たいそう多くの場所にハタンキョウ Amygdalus communis やモモノキ Amygdalus persica、そしてアンズ Prunus armeniaca が栽培されていた。そのすべてが今月、まだ葉が芽生えていない枝に花を咲かせていた。多数の花々が木をすっぽり覆い、遠くからもその真っ白な花弁が輝いているのは、いとも美しい光景に映った。これらの木々や、スモモ Prunus domestica、サクラ Prunus Cerasus、リンゴ Pyrus malusナシ Pyrus cydonia の木は、一重または二重の花を付けていた。日本人は、盆栽などの木々と同じようにこのような果樹を特別に大事にしていた。

(「江戸参府随行記」高橋文訳 1994年 平凡社東洋文庫583 145〜146ページより、学名は現行とは異なるものが含まれているが原文ママ、強調はブログ主)


また、文政9年(1826年)に往参したシーボルトは、その帰路で梨が販売されているのに気付きます。

五月一九日〔旧四月一三日〕すばらしい晴天に恵まれて、われわれは六時過ぎ川崎をあとにし、入江と新緑の萌える近郊の美しい景色にみとれる。鶴見や生麦の村々では、去年のナシの実をうまく保存して売っていた。ナシの木はここでは、机の形をした格子垣にはわせた独特の方法でつくられている。われわれは昼は金沢で休み、五時ごろフシミ(Fusimi)〔藤沢か〕につく。コメは少し前に播き、田圃はいま田植の準備にかかっていた。

(「江戸参府紀行」斎藤 信訳注 1967年 平凡社東洋文庫87 220ページより、「金沢」は道筋から考えて「神奈川」の誤りと思われるが原文ママ、強調はブログ主)


江戸名所図会より「梨園」の図
「江戸名所図会」より
八幡村(現:千葉県市川市)の「梨園」の図
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
鶴見や生麦でということであれば、これらの梨は大師河原などで栽培されたものだったのでしょうか。「梨棚」を使う栽培法はシーボルトの目には珍しいものと映った様です。しかし、右の「江戸名所図会」の「梨園(なしぞの)」の図にも描かれている通り、江戸時代後期には既に梨棚は梨の栽培の一般的な風景となっていた様です。

また、前の年に穫れた梨を翌年まで保管して販売していることについて、江戸時代の最も一般的だった農書である「農業全書」(宮崎安貞著 元禄10年・1697年)にその手法が説明されています。恐らくはこれが当時幅広く用いられている保存法であったのでしょう。

◯又梨子をおさめをく事。屋かげに穴を深く掘、穴の底少もうるほひなき様にして、枯葉を下に敷、さて梨子を木より取時、少も(きず)付痛ぬ様にし、穴の中にならべ置、水のつかざる様に覆ひを置べし。来夏までも損ぬる事なし 地高き屋しきなど、湿気のなき所ならでハこたへず。又大根と梨子と穴の中に交てならべ置たるもよし。又梨子の蔕をそぎ、竹を以て大根に小き穴をつき、大根の上に、梨子をさして、それを穴におさめ置たるも、夏までも損ぬる事なしと云なり。此穴ハ日かげにて極めて水湿もなき所を撰ぶべし。

(「日本農業全集13」1978年 農山漁村文化協会 136〜137ページより、ルビは一部を除き省略)


「風土記稿」が何故上記の3村の名を記すに至ったのかは不明ではあるものの、あるいはこれらの村々の梨も、街道を行き交う人々に向けて販売する目的で作付られていたのかも知れません。特に久野村は小田原宿から至近であるだけに、穫れた梨が東海道筋に運ばれていた可能性がかなり高いのではないかという気がします。
スポンサーサイト
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

この記事へのコメント

トラックバック

URL :