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桃について:「新編相模国風土記稿」から

新編相模国風土記稿」に記された産物の一覧から、今回は「桃」を取り上げます。

  • 山川編(卷之三):

    ◯桃足柄上郡狩野・猿山二村、津久井縣葉山島村の產を佳實とす、古風土記殘本にも、當國の產物に列す、

  • 足柄上郡図説(卷之十二 足柄上郡卷之一):

    ◯桃狩野・猿山兩村の產、

  • 津久井県図説(卷之百十六 津久井縣卷之一):

    ◯桃葉山島村より産するを佳實とす

(以下、「風土記稿」の引用は何れも雄山閣版より)


山川編足柄上郡や津久井県の図説の記述は整合性が取れていますが、ここで掲げられている3つの村の記述には、産物に関する記述は見当たりません。

本草図譜巻六十二「桃」より
「本草図譜」桃より
複数の品種について、その花と実を描いている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
和漢三才図会巻86「桃」
「和漢三才図会」より桃
桃の果肉を多食すべきではないことや、
種の効能などが記されている
(「国立国会図書館デジタルライブラリー」より)

江戸時代の桃について考える上では、最初に次の指摘を掲げておいた方が良いでしょう。

桃の品種について藤井徹は『果木栽培法』(一八七六)の中で、江戸時代末期から明治初年まで栽培されていた品種はいわゆる在来品種だといい、二三品種を掲げている。

これらは果実の重さがすべて約二〇〜七五グラムという小さなもので、大きさはビワの実程度であった。

いわゆる在来種の品質については、大正四年(一九一五)発行の恩田徹彌「果樹栽培史」(池田謙蔵ほか一五名の共著『明治園芸史』日本園芸研究会)は、在来種は外国から導入された種類の果実に比べると、きわめて品質が劣ると次のように評価している。

従来本邦に存在したる在来種なる桃は、果形小さく肉質堅くして酸味多く果汁に乏しく品質極めて劣等にして、就中(なかんずく)良種として以前栽培された半兵衛、谷五郎、日ノ丸、樽屋、半夏早熟等の品種等の如きも今日栽培せらるる欧米及び支那種に比すれば遥に劣等なり。

(「ものと人間の文化史157 桃」有岡 利幸著 2012年 法政大学出版局 269〜270ページより、…は中略、強調はブログ主)

つまり、現在主に出回っている水蜜桃を中心とした品種とは、江戸時代の桃は多分に異なっていたということです。基本的には、現在よりも実が小さくて硬く、もっと酸っぱいものだった、と考えておけば良さそうです。もっとも、上記に掲げた「本草図譜」に「水蜜桃」と記され、その実が約4寸(約12cm)とかなり大振りで汁気が多いことなどを記していることを見ると、当時の国内での栽培実績はともかく、海外にその様な品種が存在していることは知られていた節があります。

農業全書巻8「桃」
「農業全書」より「桃」
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
今回桃の歴史を考える上では、この「ものと人間の文化史157 桃」(以下「ものと人間」)を多分に参考にしました。この本では第五章「近世以前の日本人が食べた桃」(161〜196ページ)で食用としての桃の日本での江戸時代までの歴史がまとめられています。これによると、古代の「和名類聚抄」などの文献に桃の名前は見られるものの、諸国からの朝廷への貢納品の中には桃は含まれておらず、桃の実を点心として食べる記録が見られる様になってくるのが室町時代頃になってから、ということになる様です。そして、江戸時代に入って元禄10年(1697年)に出版された宮崎安貞の「農業全書」で桃の品種や栽培法が紹介されたことが記されています。

続いて「本朝食鑑」「大和本草」の記述が紹介され、享保〜元文年間に編纂された「諸国産物帳」に書き上げられた各国の諸産物から、桃をはじめとする主な果物の品種数が掲げられています。しかし、この品種数一覧には「相模国」の名がありません。丹羽正伯が幕府の命を受けて各藩から集めた報告を元に編纂したこの産物帳群は、主に各藩が所在した地で発見された控えを元に復元されており、その中に残念ながら相模国内のものは含まれていない様です。桃の品種は諸国産物帳に記されたものが全部で52種に及ぶことが「ものと人間」に記されており(但し全種が果実を取るための品種とは限らず、確実に食用であることが確認できるのは10品種ほど)、相模国に隣接する伊豆国では4品種、駿河国・御厨村々で2品種が植えられていることが一覧でわかりますので、恐らくはそれらの品種に近いものが「風土記稿」に記されていた各村でも栽培されていたかと思われるものの、現時点では確認する手立てがなさそうです。

本草綱目啓蒙」の記述でも、桃の品種が多いことを記すものの、産地に関しては詳らかにされておらず、「風土記稿」に記された桃の産地に繋がる記述は、当時のこうした本草学の書物から見つけることは出来ませんでした。

旧狩野村・猿山村の位置関係
旧狩野村・猿山村の位置関係
Googleマップのスクリーンショットに加筆)

相模原市緑区葉山島の位置
(「地理院地図」より)

「風土記稿」に記された3つの村のうち、足柄上郡の狩野(かの)村(現:南足柄市狩野)と猿山村(現:南足柄市広町)は、間に関本村(現:南足柄市関本)や最乗寺領(現:南足柄市大雄町、なお「風土記稿」では最乗寺については関本村の項に記載)を挟んで南北に位置しており、その位置関係からは間に位置する大雄山最乗寺との関連が連想されるところではあります。しかし、探し得た限りでは最乗寺と桃の関係を示すものは特に見当たりませんでした。

天保5年(1834年)3月の狩野村「地誌御調書上帳」には

一土地有合桃少々御座候、

(「南足柄市史2 資料編近世(1)」426ページより)

と一旦は記されたものの、その上に貼紙が貼り付けられて抹消されています。この文書はまさに「風土記稿」の地誌探索に際して昌平坂学問所に対して提出されたものであり、「風土記稿」がこの報告を元に記述を進めたことがわかるものの、記述も「少々」となっている上に後から消されているものを、昌平坂学問所が敢えて大きく取り上げたことになります。なお、嘉永3年(1850年)の狩野村奥津家の「万日記帳」には桃1俵を650文又は750文で販売した記録があり(「南足柄市史3 資料編近世(2)」614ページ)、同村での桃の栽培が幕末まで続けられていたことが確認出来るものの、記録されている販売例が少なく、当時どれだけの量を産出していたのかは不明です。

もう1村津久井県葉山島村(現:相模原市緑区葉山島)は、丹沢山地の東の山麓に発達した相模川の河岸段丘上の村で、地形という点では山麓の村である点が狩野村や猿山村との共通項ですが、桃の栽培にこうした地形上の要因が関連するかどうかについては定かではありません。同村の明細帳による裏付けも見つかりませんでした。

こうなってくると、「風土記稿」が何故これらの村の産物として「桃」を掲げたのかが気になってきます。それに関連して気になるのが、「山川編」に記された「古風土記殘本にも、當國の產物に列す」の記述です。「古風土記殘本」の名は今回の桃に限らず、これまでも屡々「風土記稿」の記述に見られたものではありますが、そもそも古代に編纂されたという「古風土記」は信頼出来ないものが多く、相模国の「古風土記」についても信頼に足るものとはされていないため、これまで「新編相模国風土記稿」の引用文中に記載があっても特に触れずに置いてきました。

その「新編相模国風土記稿」自身、「凡例」(首巻)の冒頭に

一我邦制、國を列する六十六、國圖は正保元祿の兩度改定ありて、官庫に藏せり、地誌に至ては、未一定の書あらず、上古風土記の撰、和銅の勅に因て、既に諸國獻呈の徴あれども、蚤く亡失して傳はらず、延長の昔、再諸國に符を下され、其散失せしものを捜求せらる、今に至て殘篇と稱するもの、纔に世に傳ふれども、或は信ずべく、或は信ずべからざるものあり、就中本州の古風土記は、全く當時の舊編とは見えず、茲に文化七年、地誌編修の命ありて、天保元年に至り、武藏國風土記稿大成し、繕寫上進す、繼て相模國地誌編纂の命ありて、再局を開き、稿を起す、今茲天保十二年辛丑に至て、其稿成る、總計百二十六卷、淨寫呈進功を竣す、

(強調はブログ主)

と記していて、相模国の旧風土記として伝わっているものが実際には信頼のおけるものではないことを、昌平坂学問所も承知していたことがわかります。それにも拘わらず、由緒に疑念を持ちながらも敢えて「風土記稿」中での参照を止めなかった理由は推察するしかありませんが、その成立年度には疑問があっても、何らかの形で相模国の地誌について捜索して編纂されたものの様に見える点については、昌平坂学問所が一定の評価をしていたということにはなりそうです。

何れにせよ、一覧に採録する産物を取捨選択する基準の1つとして、この「古風土記」を念頭に置いていた可能性は、少なからずありそうです。足柄上郡や津久井県の3村が桃を栽培していたとする事実そのものは、上記の通り当時の地誌探索で得たものであることから確実なものと言えるものの、その産出量が相模国の産品として書き出される程のものであったか否かは、その点ではあまり確かなものとは言えないのかも知れません。

ただ、八王子千人同心の塩野所左衛門轍(適斉)が編んだ「津久井県紀行詩集」(天保6年・1835年)には、

自大和舟行至葉山嶋

嶄巌険阻陸行難。相水浮舟下急湍。猶向桃花深処望 民家為伍隔峰巒。

大和小倉村地名、葉山嶋在小倉村南、葉山嶋之為地也、隔四境亘嶺巉㠌、芻蕘者輙可至難矣、是故浮舟相水、東行四五丁、又随岸山嶋時桃花盛開焉

(「城山町史2 資料編 近世」675ページより、返り点類は省略、強調はブログ主)

と、葉山島村で桃の花が盛りであった様子が漢詩に詠み込まれています。

最近では春に鮮やかな色の花を咲かせるハナモモの人気が上がってきている様で、庭園などで植栽されているのを見かけることも増えてきました。江戸時代には花を愛でる品種の開発も盛んに行われ、文政の頃には58品種まで増えていることが「ものと人間」に記されています(136ページ)。元より「桃の節句」を祝う際の花でもあり、桃園は梅園などと並んで当時の遊山の名所の1つでした。

塩野適斉が葉山島村を訪れたのは他でもない「風土記稿」のための地誌探索の折であり、その際に目にした桃の花の咲き誇る様子が、津久井県の産物一覧を編む際に、塩野適斉の脳裏にあったのかも知れません。また、「津久井県紀行詩集」は「風土記稿」の津久井県の項と共に昌平坂学問所に納入されており、この詩集を参照した同学問所としても、葉山島村と並べられそうな桃の産地として、一旦は報告から取り消された狩野村を産地の一覧に書き加える気になった、という可能性もありそうです。
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