津久井県の「漆」:「新編相模国風土記稿」から(その7、まとめ)

これまで6回にわたって、江戸時代の相模国の漆の生産や利用状況について、集められる史料を可能な限りで紹介してあらましを追ってきました。今回はそのまとめとして、幕末以降の相模国の漆の生産状況を見てみます。

神奈川県史 資料編9 近世(6)」にまとめられた漆関連の文書の中に、幕末も押し迫った慶応元年(1865年)12月と翌慶応2年8月の日付を持つ2つの文書が収録されています(966〜970ページ)。どちらも津久井郡郷土資料館(「神奈川県史」編纂当時、現・相模原市津久井郷土資料室)の所蔵するもので、表紙にはそれぞれ「白蘭(博覧)会行/漆直段書/丑十二月三日/御役所上ヶ置候也」、「博覧会被遣候品之内/生漆製漆三ツタ油代金仕出帳」と記されています。内容はどちらも生漆や朱漆等の製漆の1桶当たりの重量と値段が列記されたものです。2冊めの慶応2年の文書の終わりには、

請取申金子之事

合金百四拾弐両弐分ト永弐百六文弐分

博覧会被遣候御品〻御買上ヶ被仰付、代金書面之通請取申候処、実正御座候、仍如件、

慶応二年八月

漆屋藤

佐藤四郎兵衛

戸田次郎

今井一郎左衛門殿

加藤次三郎殿

成瀬為三郎殿

斉藤音三郎殿

前書之通相違無御座候、以上、

(同書969ページより)

と、これらの売却代金としてかなりの金額を受け取っていることが記され、その後ろには各種漆や椿・菜種等の各種油の上級品・中級品・下級品等の等級毎の主な産地が列記されています。

Exposition universelle de 1867.png
1867年パリ万国博覧会会場鳥瞰図
漆はこの会場へ持ち込まれたものか?
("Exposition universelle de 1867" by Bourrichon
- scan d'une gravure issu du guide
Paris-Diamant, Alfred Joanne,
Collection des guides Joanne,
Hachette, Paris, 1867..
Licensed under CC 表示-継承 3.0
via Wikimedia Commons.)
ここで名前の挙がる「博覧会」が具体的にどの催し物を指すのかがはっきりしません。日本が初めて万国博覧会に出品したのは慶応3年(1867年)のパリ博覧会のことですが、この2つの文書の「博覧会」がこのパリ万博のことであるとすると、2年前からその準備に向けて幕府が動いていたことになります。パリ万博に漆の液が出品されたかどうかは確認出来ませんでしたが、

出品されたのは、陶磁器、漆器、刀剣、屏風、浮世絵などの美術工芸品のほかに、人形、提灯、扇子、布、和紙、さらには農機具や木材などの日用品や原材料も含まれており、かなりの数にのぼった。

(「ウィーンのジャポニスム(前編)1873年ウィーン万国博覧会」西川智之 2006年 「言語文化論集」第XXVII巻第2号所収 176〜177ページより)

原材料が出品の中に含まれていたということであれば、その中に漆が含まれていた可能性も出て来ます。ただ、慶応2年の文書で購入されたものは「瀬〆漆」「立木漆」「塗立漆」「朱合漆」「三ツタ(密陀)油」で、何れも特別に丈夫に誂えた4貫(15kg)入りの桶で納められていますから、万国博覧会の出展用にしては少々量が多過ぎるとも思えます。

他方で、慶応2年の文書の末尾に産地の一覧がわざわざ記されていることから判断すると、日本国内の局所的な地名は当時の海外ではまだ殆ど馴染みが無く、その様な地名を挙げて産地を解説するのは不自然であることから、この「博覧会」は国内で催された、より小規模なものである可能性も考えられます。この辺りは他の地域から「博覧会」出品のための産品が買い求められたことを示す史料と照合しないと、委細が明らかになりそうにありません。

何れにせよ、慶応元年の文書の表記が「白蘭会」と当て字になっていることから、この文書を書いた当人たちには「博覧会」がまだ馴染みがない言葉であったことが窺えますが、海外への新たな貿易品として漆やその他の産品に目を付け、これらを展示する会を開催したということなのでしょうか。

この慶応の2つの文書が示す「博覧会」の成果がどうだったのかは、その様な訳で全く不明ですが、慶応3年には大政奉還が行われて江戸幕府が倒れるという時期ですから、この「博覧会」出品が、幕藩体制下で相模国内で行われた漆の産業振興策としては最後のものであったと言って良いでしょう。



翌慶応4年に元号が明治へと代わり、その10年後に以前も紹介した「第1回内国勧業博覧会」が開催されて国中の各種産物が集められて展示されます。その「出品目録」によれば、相模国の漆の出品は足柄上郡苅野村(現:南足柄市苅野)と八沢村(現:秦野市八沢、炭等と共に柳川村が出品)のみで、慶応年間に「博覧会」に出品された津久井郡からは、この「内国勧業博覧会」へは出品されなかった様です。因みに、八沢村の漆を柳川村が出品していることから、「(その3)」や「(その4)」で取り上げた柳川村の漆の仲買商人が明治に入っても活動を続けていたことがわかります。

この足柄上郡の2つの村の漆は、どちらも「褒状」を受ける好成績を収めました。その表彰文には次の様に記されています。

褒狀 漆

相模國足柄上郡(ママ)野村   磯崎 庄右衛門

品位上等ニシテ價亦廉ナリ該地方漆樹ヲ植ル歳尚淺シ然ルニ既ニ一個ノ物產トナセシハ全ク其業ヲ勉メ意ヲ注クノ深キニ因ルト云フヘシ

仝 炭、漆、及其他數品

柳川村   熊澤保

櫟炭ハ稍尋常品ニ優ルト雖トモ早漆ノ質ハ良好ニシテ需要ニ便ナルハ該地ノ名產タルヲ証シ職業ノ勉勵ヲ見ルニ足ル又烟葉ノ如キ培養ノ勞ヲ見ル

(「国立国会図書館デジタルライブラリー」より、強調はブログ主)

特に苅野村の表彰文に「栽培を開始してから日が浅いのに」などという文言が入ったのは、恐らくはこの出品者から漆を植える様になった江戸時代の経緯が審査員に対して説明されたのでしょう。その意味では、かつての小田原藩国産方の永年の振興策が、ここでようやく少し日の目を見たと言えるのかも知れません。

しかしながら、相模国の漆に関する記述は、統計を除くとこの褒状が殆ど最後になってしまいます。「足柄上郡誌」(1923年 足柄上郡教育会編)「足柄下郡史」(1929年 足柄下郡教育会編)といった、比較的早い時期に編纂された地誌・郷土史の文献でも、その産物として漆が記載されることはなくなっています。

この徴候は、実際は「第1回内国勧業博覧会」の頃に既にあったのかも知れません。「神奈川県史 通史編3 近世」には

これらの産物が、県全体の生産物の中でどのような比重を占めていたか、明らかにすることはできない。わずかに推測できる資料が、明治九年(一八七六)の「全国農産表」(第二十八表)であろう。この全国農産表の内から、全国と相模国の部分とを比較してみると、特有農産物の内千人当たりの生産額が全国平均を上まわるものは、繭・生糸・漆汁・葉煙草の四品目であったことが知られる。

(同書381ページより)

第28表「明治9年全国および相模国農産額(特有農産のみ)」
全国相模国
総生産額(円)千人当り
生産額(円)
総生産額(円)千人当り
生産額(円)
5,767,284168110,856298
生糸9,181,511267179,330482
漆汁37,79217092
葉煙草1,074,5463162,144167
※「神奈川県史 通史編3 近世」381ページ表より、本文で指摘された4項目のみ抜粋
として、明治9年の「全国農産表」の抜粋が掲載されています。

幕末から明治に掛けて、日本国内では政治面でも経済面でも多々変動があったことを考えると、この表に示された各産物の産出額の示す比率が、そのまま江戸時代にまで遡っても当て嵌まると見立てることは必ずしも出来ないと思います。が、確実に言えることとしては、明治9年の時点では、この相模国(「全国農産表」自体が府県単位ではなく旧国域単位で集計されている)の主要産物として挙げられた4品目の中で、漆の生産額は他の産品より2桁も3桁も小さな金額に留まっており、これは全国で見てもその傾向は変わっていないということです。つまり、漆は絹関連製品や葉煙草などの産品に比べ、随分と「見劣り」のする産物であることが、統計によって顕になってしまっていました。

明治9〜15年の漆産量の推移
全国相模国
数量(斤)kg換算価格(円)数量(斤)kg換算価格(円)
明治9年60,65636,393.637,792.0971,649989.4709.045
明治11年66,63939 983.449,179.5821,135681 261.05
明治15年65,51739,310.281,699.6991,6761,005.61,712.872
明治9〜15年の「全国農産表」より編集。
記載年次以外では漆の生産量は調査されていない。
明治11年と15年では1斤当たりの単価が示されているため、価格は産出量と掛け合わせて求めた。
年次のリンク先は何れも「近代デジタルライブラリー」。
「近代デジタルライブラリー」には明治9年から15年までの「全国農産表」が掲載されており、各品目の産出量と価格が記されていますが、これを見て行くと漆の生産量は全国レベルでも、相模国レベルでも伸びておらず、また相模国の明治11年の産出量が極端に下がっているなど、産出が必ずしも充分に安定していなかったことがわかります。漆器は日本の工芸品として欧米への輸出にも力が注がれる様になったこともあって、明治時代にも産量は伸びているのですが、その需要に漆の生産が追い付かなくなったことで、やがて中国をはじめとする輸入漆が使用される比率が高くなっていきます。統計では輸入漆が使われる様になるのが明治20年ですが、実際にはその数年前には既に利用が始まっていた様です。そして、明治30年頃には輸入漆の量が国産漆を凌駕する状況へと変わっていくのです(「清末における中国漆の日本輸出について」馮赫陽著 2011年、リンク先はPDF)。

恐らくはこうした事情が、漆の生産のその後に大きく影響したのでしょう。明治32年(1899年)の「輸出重要品要覧」の「漆器」の部の表紙には「附漆汁」と記されているものの、その内容は何れも海外産の漆の景況分析であり、国産の漆の振興には全く触れられていません。

神奈川県の産物としては漆はかなり早い時期から顧みられなくなっていた様ではあるものの、神奈川県の漆の生産自体は第2次大戦後まで細々とは続けられていました。

昭和31年の総産額は3,511貫であるが、同年百貫以上を産した県は青森、岩手、秋田、山形、福島、栃木、神奈川、新潟、石川、岡山、広島の11県で岩手の869貫が他を引き離して最高であった。全国総生産高は近年減少の傾向が著しく、昭和18年までは、とにかく8千貫を越していたものが19年に激減し、26年には6,687貫となり、それ以後更に減少を続けて今日に至っている。

(「漆の需給と生産」西川五郎 「熱帯農業」Vol. 3 (1959-1960)所収 80ページ、強調はブログ主)

と、この時点でもまだ産地の1つとして「神奈川」の名前が挙げられてはいるものの、100貫が375kgであることから見れば、この時点で既にどの産地もその様な小さな単位でしか産出量を見られなくなっていたことがわかります。そうした中では、神奈川の漆もどちらかと言えば江戸時代から受け継いできたものを何とか維持しようという動きであったのでしょう。それも平成に入る頃にはほぼ潰えてしまった様です。数年前から相模国の漆掻きを復活させようと活動されている方がいらっしゃる様であり、その成果が期待されるところです。



さて、全7回にわたって相模国内の漆の生産や流通・利用状況について見て来ました。前回までの一連の記事を改めて並べてみます。



この記事のタイトルは「新編相模国風土記稿」の産物として記された津久井県を表に立てる形としましたが、実際は江戸時代において相模国の漆は小田原藩や韮山代官所の領地で広く生産が奨励されて栽培されており、その点では「風土記稿」が記す様に津久井県の産物とするのはやや違和感があります。では、「風土記稿」は何故その産地を津久井県に限ったのでしょうか。

理由の1つとしては、これまでも他の産物で時折見られた様に、「風土記稿」の津久井県の項が八王子千人同心の手によって編纂されたことが挙げられるでしょう。「(その1)」で取り上げた津久井県の「控帳」や、「(その3)」で紹介した文化9年の韮山代官所の触書でも、武州多摩郡は相州津久井県と共に漆の産地であるだけでなく、代官所からの指示も双方の地域が共同で受けていた節があります。こうした事情を、「新編武蔵風土記稿」の編纂で既に多磨郡の地誌を取材していた千人同心らが、津久井県の地誌探索に出掛ける前に知っていた可能性は高く、それが津久井県の産物一覧作成時に影響した可能性は考えられます。

他方で、津久井県と並んで漆の産地だった足柄上郡の丹沢山地南部の村々は、「(その2)」で見た通り富士山の宝永大噴火の影響をまともに受けて漆が壊滅状態となり、その後も長きにわたってその生産が戻らない事態に陥っていました。小田原藩や韮山代官所が後に領内の漆の増産に力を入れる様になるとは言え、こうした印象もあって特に小田原藩は漆を郡の産物として取り上げるには「未だし」という印象を強く持っていたのかも知れません。それが、昌平坂学問所が同地で地誌探索を行った際の報告として現れ、漆の産地として津久井県以外の郡の名を書き連ねるのを躊躇わせたのかも知れません。

これまで取り上げてきた「風土記稿」の各種産物に比べ、漆に関しては関連する史料が比較的多く残されているのは事実であり、殊に小田原藩や韮山代官所といった役所が貢税などの形で関与したものが非常に多いのが特徴です。相模国の漆は、日本国内では必ずしも際立った存在ではありませんでしたが、少なくとも、漆は藩領・幕領問わず領主の期待を担う産物で一貫してあり続けたことは確かなのです。
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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

この記事へのコメント

深謝申し上げます! - ●● 白竜雲 【はく りゅう うん】▶ - 2015年01月29日 23:08:59

こんばんは!
御多忙中、種々 御教示頂き、 有難う御座いました!
また、よろしく お願いします! m(_ _)m

Re: 白竜雲 さま - kanageohis1964 - 2015年01月29日 23:41:32

こんにちは。こちらまでお越しいただいてのコメントありがとうございます。
こちらこそ、またよろしくお願いします。

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