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↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

津久井県の「漆」:「新編相模国風土記稿」から(その5)

前回に引き続き、相模国内での漆の利用事情について見ていきます。

1. 小田原漆器


さて、「新編相模国風土記稿」には記されていないものの、江戸時代以前から存在したと言われている塗物が小田原にあります。小田原市のサイトでは

小田原漆器の起源は、室町時代中期に箱根山系の豊富な木材を使用し、木地挽きされた器物に漆を塗ったのが始まりとされています。

その後、北条氏第3代当主氏康が塗師を城下に招いたことから、小田原漆器は発展し、江戸時代中期には実用漆器として江戸に出荷するなど、漆器づくり技術が確立されました。材料は主に国産ケヤキで、材質が強固で、ゆがみが少なく、木目が美しく、椀・盆などに最適な素材です。

とされており、江戸時代以前からの歴史があるとされているのですが、「小田原市史」での解説では

小田原彫とは別の小田原塗、小田原漆器と呼ばれる漆器類の存在も注目される。小田原塗は、椀・盆・皿などの白木地に漆を塗ったもので、江戸時代になると相模漆の造出とともに漆塗技法の向上が図られ、記事の木目を生かしたすり漆の技法や木地蠟(きじろ)塗など、今日の小田原漆器と呼ばれる漆器が成立した。

小田原彫にしろ、小田原塗にしろ、確実に北条時代までさかのぼる紀年銘のある実作に接し得ないので、これ以上論ずることはできない。ただ、近年小田原城の中世遺構から、椀を主体とした北条時代の漆器が出土しており、今後の検討がまたれるところである。

(「小田原市史 通史編 原始・古代・中世」781〜782ページより)

と記されている程度で、これも委細があまりはっきりしません。

箱根山中の各拠点と小田原・熱海の位置関係
箱根山中の各拠点と小田原・熱海の位置関係(再掲)
(「地理院地図」に拠点を書き込んだ上で
スクリーンショット)
特に、小田原が箱根の山中から至近に位置する町であることから考えると、箱根細工と小田原漆器の間で少なからず相互に影響はあったと思われるのですが、その辺りをきちんと説明している書物等が、探した範囲では見当たりませんでした。現在の小田原漆器が「木地呂塗り」である点は箱根の漆器とも共通する特徴ですが、この技法が江戸時代以前から使われていたとすれば、何故当初白木地の挽物を作っていた箱根が、塗物に仕立てる仕事を小田原ではなく熱海に依頼していたのかも謎です。位置関係から見ても、箱根から荷物を運び出す先としては至近である上に東海道筋や箱根温泉道を下るだけで済む小田原の方が遥かに便が良く、十国峠経由の外輪山越えか小田原経由の大きな遠回りを強いられ、明らかに不利な熱海が敢えて選ばれているだけに、その不利を覆すだけの動機が何処にあったのかが少なからず気になります。

ただ、「小田原地方商工業史」(内田 哲夫・岩崎 宗純著 1989年 夢工房)に引用された貞享3年(1686年)の小田原宿の職人一覧(167ページ)によれば、「塗屋」が12人記されています。彼らが塗っていたのは挽物ばかりではなく、家具類などの指物も塗っていた可能性が高いので、この12人全員が挽物を漆器に仕立てていた訳ではないでしょう。しかし、これだけの人数の職人が活動していたとなれば、かなりの数の塗物が常時生産されていたと考えて良さそうです。何より、これまで見て来た様に小田原藩が領内の村々から貢税として集められていた相当量の漆は、こうした城下の塗師の手によってあらゆる物に塗られることによって藩財政の一翼を担っていた訳ですから、そういう点でも小田原は江戸時代の漆の消費地としては比較的大きな存在であったと言えると思います。

2. 大山細工



大山・かつての坂本町のあった辺り
「風土記稿」にもその名が見られる大山細工については、現在は大山の土産物としての独楽にその名残が見えるものの、江戸時代に作られていたという「盒器」が果たして漆器であったのかどうか、委細を明らかにする史料や当時の製品が残っていないのではっきりしません。現在の大山独楽(こま)も一種の轆轤細工で、かつての盒器生産にも同様の技術が使われていたことを窺わせるものではありますが、彩色はその轆轤を回転させて絵筆で線を入れるという手法が用いられており、少なくとも現在の大山独楽には漆を使用していません。

ただ、大山の麓にあった坂本町(現:伊勢原市大山の山麓部)に伝わる文書の中には、同地に塗師が存在したことが確認出来るものがあります。享保9年(1724年)3月の「御触諸色御改帳」と題されたこの史料は、所謂「享保の改革」の一環で物価抑制が図られた折に、あらゆる物の価格改定をまとめたものです。この中に、塗師の手間賃の記述が含まれているのです。

一、塗師手間 右同断(御用十三日ニ可被下候/山上町共十二日取可申候)

但し、町ぬり物塗賃何連茂

一割五分引ニ可仕候

塗師屋

四郎五郎(印)

津大(印)

次兵(印)

(「伊勢原市史 資料編 続大山」140ページより、「同断」が受けている内容を括弧内に追記、強調はブログ主)


つまり、享保9年時点ではこの大山の麓の町では四郎五郎、津大夫、次兵衛という3人の塗師が活躍していたことになります。

「人倫訓蒙図彙」より塗物師
「人倫訓蒙図彙」より「塗物師」図(右から2番目)
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
次のページの解説に「仏塗師鞘塗師別にあり」とある
この地の塗師が塗っていたのは挽物ばかりではなく、家具などの指物も含まれていたでしょう。また、大山御師が檀廻、つまり檀家廻りに出掛ける前に仕入れたものの覚書の中に、「一、黒椀 弐具」などと記したものがあり(「天保八年四月 歳中檀札並仕入物控帳」、「伊勢原市史 資料編 続大山」256及び257ページ)、彼らが漆器を檀家に持ち込んでいたことが窺えることから、こうした檀廻に必要となる漆器の調度も坂本町の塗師が受け持っていたと考えられます。他方で、仏像・仏具を製作・修繕する仏師も漆を扱う職人でしたが、坂本町で塗師と別に仏師が塗物を扱っていたかどうかは確認出来ませんでした。ただ何れにしても、大山が江戸時代を通じて参拝者で賑わったことから、その信仰を支える道具の調達に関わるこうした職人の存在が継続的に必要であったと考えて良さそうです。

当然、これらの挽物・指物・仏具類を塗るために必要な漆を常時仕入れておく必要はあった筈です。その量は定かではありませんが、少なくとも常時ある程度の量の漆を使っていたとは言えそうです。

3. 鎌倉の漆器


そして、漆の消費地としてもう1箇所気になるのが、鎌倉です。

鎌倉に幕府が置かれていた頃には、鎌倉は人口5万とも10万とも見積もられる一大都市であり、かなりの数の職人を抱えていたことは確かです。その中には当然塗師も含まれていたことでしょう。


佐助ヶ谷遺跡の位置:現在の鎌倉税務署の辺り
鎌倉の佐助ヶ谷遺跡からは、鎌倉時代後期に当たる13世紀後半から14世紀と考えられる遺物が出土していますが、この中には1,300点余りという大量の漆器が含まれています。これらの漆器が鎌倉外部で仕立てられて鎌倉域内に持ち込まれていた可能性もないとは言えないものの、当時としては大規模な都市になっていたことを考えると、これらの漆器も鎌倉で製作されていたと考える方が自然でしょう。「ものと人間の文化史131 漆Ⅰ」(四柳 嘉章著 2006年 法政大学出版局)によれば、現地から出土した漆器に見られる「型押」の技法について解説した上で、これらの漆器が鎌倉で生産され、全国に配布されたとしています。

型押漆絵漆器の出土率は鎌倉が圧倒的で、原体などの発見はないが周辺で制作された可能性は高く、その分布は飛び石的に列島全域にわたっている。太平洋側では宮城県松島町瑞厳寺境内遺跡から二二点の型押漆絵漆器が出土しており、文様からみて全て鎌倉産漆器と判断できる。西は京都、広島県福山市草戸千軒町遺跡、福岡県太宰府市観世音町南門前面地域、日本海側の石川県以北では石川県加賀市佐々木アサバタケ遺跡、同金沢市堅田B遺跡、新潟県柏崎市枇杷島遺跡、山形県東根市小田島城跡、青森県青森市高間遺跡、北海道余市町大川遺跡などの拠点的遺跡から出土している。だがすべて鎌倉産漆器が運ばれたわけではなく、草戸千軒町遺跡では地の粉漆下地の良品に型押漆絵の加飾があるし、京都や太宰府では独自の文様が使用されるなど、各地でも型押漆絵が模倣されている。しかし、鎌倉産漆器は北条得宗家など鎌倉と深いつながりのある所に運ばれたことは確かであり、すぐれて政治的な側面を持った漆器でもある。

(上記同書201ページより)

当然こうした漆器を製作する上でも漆が相当量に必要であり、当時の鎌倉には何処かしらから漆が持ち込まれていたことは間違いないでしょう。

鎌倉幕府滅亡後の鎌倉府が去ったことによって都市としての鎌倉が衰退し、江戸時代には農村風景へと替わっていたものの、鎌倉にはまだ鶴岡八幡宮や鎌倉五山をはじめとする数多くの寺社が存続していました。これらの寺社が必要とする仏像や仏具の生産・修理を行う仏師が鎌倉に在住していたことが、「鎌倉市史」に収録された当時の一連の仏師の史料で明らかです。これらの中では、仏具の生産・修理に必要となる素材を調達した記録の中に「漆」の文字が時折顔を出し、彼らが漆を常時必要としていたことが窺えます。例えば、宝暦9年(1759年)7月の日付のある「鎌倉後藤左近」という仏師の「注文帳」には

註文

三月十日

一不動尊二童子付漆仕立る、台座作直、火ゑんつくろい直

代金四両

大幡

御隠居様

註文

五月日

一薬師如来十弐神再興漆仕上

代金弐両相定申候

瀬〆漆入用次第被下候

六月ゟ御細工仕候

若柳

宝福寺様

(「鎌倉市史 近世史料編 第一」487ページより、…は中略、強調はブログ主)

等々、仏像の仕上げに漆を使用していることが記されています。また、「大幡」(甲斐国都留郡か)や「若柳」(津久井県若柳村、同地に「宝福寺」が現存)といった遠方からも仏像の注文を請けていることが窺い知れます。

この他にも、「近世史料編 第一」にまとめられた仏師に纏わる史料には、(481〜495ページ)例えば「享保二十一年四月 鶴岡八幡宮仏像修繕帳」(481〜484ページ)にも「塗なおし」「塗箔なをし」等の表現が多数見られるなど、仏像の製作・修繕に当たって漆を使っていることが確認出来る表現が多数含まれています。

KamakuraBori.jpg
鎌倉彫
("KamakuraBori"
by Pqks758 - 漆器の文箱より.
Licensed under CC 表示-継承 3.0
via ウィキメディア・コモンズ.)
一方、鎌倉の漆器として名高いのは「鎌倉彫」ですが、これは中世に宋から伝来した漆の彫り物を真似て作り始められたものとされています。ただ、「鎌倉彫」については江戸時代には特に茶道の道具として人気を博していたことが幾つかの文献で確認されてはいるものの、それらの生産を行っていた工房の事情がはっきりしないので、鎌倉彫の生産が鎌倉でどの程度盛んに行われていたのか、今ひとつ推定し難いところです。

また、これも量的には推し量り難いところがありますが、塗物という点では日本刀の「鞘」を挙げることが出来るでしょう。鞘の漆塗りは一般的な塗師とは別に専門の職人が存在していたことが、上記「人倫訓蒙図彙」(元禄3年・1690年)でも紹介されています。鎌倉には現代まで続く刀の名工「正宗」の末裔が幕府の庇護の下で活動していたことが、「風土記稿」の「山川編」産物にも記されていることから、関連する鞘の製作も近傍で行われていたと考えられます。

現在の鎌倉・広町緑地鎌倉市七里ガ浜など)には鎌倉漆器のための漆を取った名残のウルシノキが生えているとのことです。同地は享保13年(1728年)から天保14年(1843年)までは烏山藩の所領でしたが、それ以外は幕領として韮山代官所の支配下にありました。その様な経緯と併せて考えた際に、この広町緑地のウルシノキが同代官所の漆振興策の際に植えられたものの末裔なのか、あるいは更に時代を遡る産地であるのか、俄に判断は出来ません。ただ、仮に中世からの産地であったとしても、鎌倉の近傍だけで同地で必要となる漆を全て賄い切れたと考えるよりは、もう少し遠方からも取り寄せていたと考えた方が辻褄が合いそうです。その場合、鎌倉辺りになると江戸も相応に近くなりますので、鎌倉で必要となる漆は江戸の漆問屋から取り寄せていた可能性も出て来そうです。勿論、小田原に集められた漆の一部が鎌倉に運び込まれていた可能性も否定できません。鎌倉〜戦国時代の漆流通については江戸時代とはまた異なる状況であったとも考えられます。

また、箱根・小田原・大山といった地域の漆についても、具体的に何処から持ち込まれたものであるかを裏付ける史料を見つけることは出来ませんでした。但し、こちらは立地から考えて丹沢山地や小仏山地の漆が使われた可能性が高く、特に小田原や箱根については小田原藩の動向から考えても藩領内から集められた漆が流通していた可能性は高そうではあります。少なくとも、相模国内で産出された漆が送られた先は必ずしも江戸に限定されていたとは言えず、相模国内の多数の塗師たちの手元へも相当量が送り届けられていたことが窺える様に思います。

次回は近世の宮ヶ瀬遺跡の漆関連の出土品について考えてみます。




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