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津久井県の「漆」:「新編相模国風土記稿」から(その4)

前回に続き、「新編相模国風土記稿」の山川編津久井県図説で紹介された漆について、今回は江戸時代後期の相模国の漆が何処に流通していたかを考えてみます。

相模国内で生産された漆の流通先について、一番はっきり記録されているのは次の史料でしょう。前回足柄上郡萱沼村に伝わる文書を紹介した折に、文化8年(1811年)に漆の仲買問屋が小田原藩の国産方の呼び掛けに対し、漆の買い付けについては自分たちを用命する様に申し出た文書が残っていることを記しました。その文書は次の様に始められています。

乍恐以書付奉願上候御事

此度国産国益之儀、何事不依心附御座候ゝ奉申上候様村役人共ゟ申付候付、乍恐私共奉申上候御領分之内漆取之者共ゟ中買仕、江戸表間屋方数年来漆商売仕罷在候処、此度漆商売不仕候者漆商売仕度段御願申上候様奉承知候、左候而者万一外〻漆間屋之儀被仰付候而者私共甚夕難渋仕、(以下略)

(「神奈川県史 資料編9 近世(6)」961ページより、以下「神奈川県史」中の変体仮名は適宜小字に置き換え、強調はブログ主)


この仲買問屋は前々から江戸の問屋に対して漆を卸していると書いている訳です。そこで、まず当時の江戸での漆の流通事情を見ておきたいと思います。

嘉永4年(1851年)の「諸問屋再興調」についてはこれまで何度か紹介してきましたが、その中で漆を扱う株仲間については以下の様に記しています。

一 漆問屋

現在人数

ニ人

是者(朱書)、安永三午年名前帳町年寄差出し候節、」問屋三人有之、尤人數御定無之、增減町年寄手限ニ而承届來候處、丑年(天保十二年)御改革之砌御差止、」

右者、安永度ゟ名前帳差出候組合付、此度名主共書上候現在渡世人共、間屋再興被仰付可被下哉、名前帳之儀者、兼被仰渡候通、私共方取置、以來加入并名題讓替等組合差添、可願出旨申渡、且以後町年寄共手限り承届候儀相改、外問屋向之通、其刻〻御内寄合ニ而伺之上、進退可仕候、則差出候名前帳一袋奉差上候、」

一 漆仲買

是者、天保元寅年中、右仲買拾八人之内、御用漆納方相勤候もの有之、町年寄方名前帳差出、取締仕度旨、間屋・仲買熟談之上願出、筒井伊賀守殿(政憲、南町奉行)御勤役中願濟、去ル丑年御改革之砌一同相止申候、然ル處、此度名主共現當名前十五人書上候處、右者、文化以來取斗之儀付、今般再興之廉相除候方と奉存候得共、御用筋申立候付、一應差出候答書并名前書、天保度伺書「写共」(朱傍書)相添、此段奉伺候、」以上、

(嘉永四年)五月

市右衞門(江戸町年寄)

喜多村彦右衞門(同上)

藤左衞門(同上)

(「大日本近世史料 諸問屋再興調 二」1959年 東京大学出版会 2〜3ページより、」は原文ママで原書の改ページ箇所を示すもの、変体仮名はゟ以外下付きとし、適宜置換え、傍注はルビとし位置を調整、強調はブログ主)

「天保の改革」で株仲間が廃止される以前、漆を取り扱う業者の株仲間としては「漆問屋」と「漆仲間」の2種類があったこと、前者は安永3年(1774年)に町年寄に3人の名簿を差し出していることから再興が認められ、後者は天保元年(1830年)に18人の名簿が差し出されているため、文化年間以前にあった株仲間を再興するという基準に合わないので再興の対象とはならなかったものの、この中に「御用漆」を扱う仲買人がいたことから、念の為に関係者間に回覧して是非を改めて確認したい、ということが記されています。

どちらも天保年間以降に人数が減っているのは、その間に廃業した問屋や仲買がいたのでしょう。ただ、元からあった「漆問屋」に対して、後にそれより遥かに大人数で「漆仲間」が結成されている状況を見ると、少なくともその頃には漆の需要が旺盛にあり、新たに漆を扱おうという仲買人が多かったのではないかと思われます。後から結成された「漆仲間」に「御用漆」、つまり幕府に納入する漆を扱う程に力を付けた仲買がいたということからも、業者の盛衰が激しかったことが窺え、それだけ江戸の漆需要の旺盛さに引かれて参入を試みる人が多かったのでしょう。従って、この2つの名簿に載っていた業者に廃業した者がいたことが、直ちに漆流通の衰退を意味するとは言い難い面があると考えられます。

江戸買物独案内より「萬塗物所」
江戸買物独案内より「萬塗物所」
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
6軒中4軒に「御婚礼御道具類」とあるのが
漆器の持っていた位置付けを窺わせる
江戸買物独案内より「漆製法所」
同じく「漆製法所」
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
漆だけではなく、絵の具や刷毛なども扱っていた
文政7年(1824年)に刊行された江戸の買い物ガイドである「江戸買物独案内」では、塗物問屋25、箪笥長持所2、酒道具一式(塗樽など)1、塗物所6が記されています。これらの業者が扱った漆器は必ずしも江戸で生産されたものばかりではなく、江戸の外で生産されたものも多数あったと思われ、実際に箪笥長持所の2軒も「地下リ塗物」と書かれていることから京方から「下って」きたものを扱っていたことがわかりますが、一方で江戸でも現在「江戸漆器」と呼ばれる漆器が生産されて流通していました。江戸に持ち込まれた漆の多くはこうした所で使われていたのでしょう。

また、漆は接着剤としても用いられていましたので、こうした漆を直接買い求める人のために小売を営む漆仲買人の名前が4人「江戸買物独案内」に記されています。因みに、この4人のうち大伝馬町三丁目通旅篭町の「墨屋長次郎」と大伝馬町二丁目の「辻伝右衛門」は、「諸問屋再興調」に「御用漆納方」として挙げられています。

相模国の漆の仲買問屋が取引していたのも、こうした漆問屋や漆仲間などであったのでしょう。ただ、江戸の漆問屋・漆仲買の盛衰が激しいということは、その皺寄せが地方の仲買にも波及する可能性があるということでもあり、実際、文化12年(1815年)から文政元年(1818年)にかけ、江戸の問屋に収めた漆の代金が支払われなくなったため、柳川村(現:秦野市柳川)の漆仲買人であった与兵衛が、出羽や越後の仲買人と共に裁許を求めるといった諍いもあった様です(「秦野市史 第2巻 近世史料1」731ページ解説及び「同 通史2」295ページによる。但し典拠となる史料の指示なし)。


また、津久井県に伝わる文政2年(1819年)の文書では、村内に越後など相模国外からやって来た漆掻きに漆を売らないように村々で申し合わせていることが記されています。国外からやって来た漆掻きが漆を何処へ持って行ったかは記されていませんが、自国に持って帰って漆器生産に使う可能性も考えられるものの、江戸で販売する自国産漆の不足分を補充する目的であったのかも知れません。何れにしても、これも相模国の漆が国外で販売されていたことの傍証となり得る史料です。

乍恐以書付奉申上候

相州津久井県村々名主・組頭奉申上候、私共於村々、他国より入込候漆掻共漆木売渡来候得共、以来ハ其所之もの稼ニ養掻いたし、成木之上成実之分、蝋製法人共売捌候積を以、旅人共エハ漆木一切売渡し不申候様相成候共、村々ニおゐて聊差支候筋無之候哉、否、此度御糺ニ有之候、此段私共村々之儀、先年より御上納漆有之、享保・延享度年生不足仕候、減上納被仰付当時、金納外村々正漆八拾貫目程御上納候得、全ク漆木不足ニ有之、併山漆唱ひ、谷合又野末等立木有之、御上納漆ニ相成不申分、「有之(抹消)」当時越前者唱へ入込買請申候同人共、近来仕成宜敷有之候哉、随分直段宜敷「悪地(抹消)地所山漆仕立申候心入ニ罷成相心懸ケ候体ニ」「有之(訂正)候ニ付、野末又悪地場所等ニ山漆仕立申候心入ニ相成、自然ニ心懸ケ候体ニ」有之候、他国之者入込候儀相防キ候得(自)然と山漆仕立方手薄ニ罷成申候、此段被聞召訳、以来ハ他国者売渡し候共、養掻ニ為仕、成木之上成実之分、相当御直段を以蝋製法人「(抹消)」「(訂正)売渡仕度候、右此度御糺しニ付、書面を以奉申上候通相違無御座候

文政弐卯年三月

下郷村々

山田佐四郎様(代官江川英毅手代)

(「津久井町史 資料編 近世2」361〜362ページより)


その一方、相模国内でも漆器の生産は幾つか例を挙げることが出来ます。当然ながら、それらの地域にも漆が一定量届けられていた筈でしょう。それらの事例の中から、今回はまず箱根細工の漆器について紹介します。

箱根で漆の利用が始まったのは、意外にも大分時代を下って江戸時代の後期からであったと考えられています。

箱根細工の装飾に漆が使われ始めたのは、いつ頃からであろうか、中世から江戸中期にかけてのこの地方の一般的な挽物細工に漆が使われた形跡はない。先に紹介した「早雲寺芹椀(せりわん)」は、北条家の使用したもので例外的な製品である。箱根細工の挽物は、江戸中期までは白木地で、後には(ろう)みがき仕上げが通常であったようである。

箱根細工のなかに漆の字を見出すのは、シーボルトの『江戸参府紀行』で、シーボルトは畑宿で「漆を使った」細工物を見聞している。…

箱根の漆器細工が全面的な生産段階に入るのは、天保年代に入ってからであろう。天保四年(一八三四)の「湯本村指出帳」(箱根町役場文書)には、専業職としての「ぬりもの商」の所在が見出せるし、後述のように江戸漆器問屋との取引は、天保七年(一八三六)以降増加していく。

秋葉陸衛氏によれば、以前の箱根の漆器細工は、熱海の漆器問屋の手を経なければ製品化されず、挽物木地のまま通桶(かよいおけ)で熱海の漆器間屋遠州屋に運ばれ、そこで加工され販売された。このような漆器問屋の支配を離れ、箱根で独立した漆器生産を始めようとしたのが、大平台の銀左衛門という男であった。銀左衛門は、遠州屋の徒弟(とてい)大津藤兵衛を自宅に招き、漆器生産を始めた。そして藤兵衛を長く大平台に引留めるため自分の妹と(めとわ)せたという(『箱根細工の沿革』)。このような銀左衛門の努力により箱根にも漆器細工生産が普及し、やがて江戸へも販売さ(ママ)れていくようになるのである。

(「箱根細工物語 漂泊と定住の木工芸」岩崎宗純著 1988年 神奈川新聞社かなしん出版 112〜116ページより、ルビは原文通り、…は中略、強調はブログ主)


以前も見た様に、箱根山中の挽物生産については小田原北条氏の諸役御免を勝ち得る程に栄えていた訳ですから、当時から箱根山の外にまで挽物が流通していた可能性は高いと思われます。それにも拘らず、それらの挽物が漆器ではなかったということは、その頃にはまだ、少なくとも漆器の方が強く求められる程ではなかったのだろうと思われます。

箱根山中の各拠点と小田原・熱海の位置関係
箱根山中の各拠点と小田原・熱海の位置関係
(「地理院地図」に拠点を書き込んだ上で
スクリーンショット)
また当初は箱根山中ではなく、わざわざ熱海まで運び出して漆を塗っていたのは、あるいは箱根山中では塗師が不在であったからだけではなく、漆の産出量が充分期待できなかったからかも知れません。実際、「神奈川県植物誌 2001」(神奈川県植物誌調査会編 2001年 神奈川県立生命の星・地球博物館刊)に掲載されたウルシノキの分布図(953ページ)でも、箱根山中のウルシノキ標本は箱根町南部の1区画に留まっています。箱根山中の村々の明細帳はあまり残っていないのですが、それらの中でも漆の貢税が見当たらない点からも、この山中では漆があまり生産されていなかったのかも知れません。

それにも拘らず敢えて外輪山を越えて熱海に運んでまで漆器に仕立てていたのは、それだけ漆器の方が引き合いが良くなったからでしょう。箱根山中で漆の量が足りず、それでも地元での漆器生産に切り替えるとなれば、その技術を移入するために塗師(ぬし)を村に招き入れるだけではなく、漆も山上に運び上げなければならなくなりますが、裏を返せばそれだけ江戸時代の後期には漆器への傾倒が強まっていたということになるのではないかと思います。

そして、こうして製作された箱根の漆器は、上記にもある様に江戸向けの販売を意識したものであったと言えます。

箱根細工の江戸販売は、箱根細工を扱う商人たち(木地師でもあった)が、細工物を肩に担いで、江戸市内を行商して歩くという形で進められていった。それがやがて江戸の漆器問屋の注文により製造し、江戸へ送り荷するという販売ルートを取り始めた。

江戸漆器間屋との取引が、果たしてどのようなものであったか、どの位の数量の箱根細工が江戸へ送り出されていたか、全体を展望できる史料はないが、半田市太郎氏の江戸漆器問屋に関する研究から、若干箱根細工の江戸送り荷の動向が推察できる(『近世漆器工業の研究』)。

半田氏の研究によると、箱根細工江戸送り荷の品目は、主として漆器類だったようであるが、江戸漆器間屋黒江屋の「塗物地方別買高表」より、箱根塗物買上高を抜き出して見ると、次表のようになる(注:表省略)。

この表によると、箱根塗物細工(主として椀・盆)の江戸送り荷販売は、天保七年(一八三六)以降次第に増加し、その後も若干の増減を繰り返しつつ、幕末段階の慶応年間(一八六五〜七)に至ると、天保七年(一八三六)の七〜九倍に達している。黒江屋だけでもこれだけの数量の箱根漆器が取り扱われているのだから、他にも存在したと思われる漆器問屋の取り扱い量を加えれば、その量はかなりのものであったと推測される。

箱根漆器が、これだけ大量に江戸で販売されるようになるのは、会津、山中など他の漆器土産地にくらべて、江戸に近いため、短期間で製品の注文に応じられるという利点があったからであろう。

また安政二年(一八六五)に出版された『重宝録』は、江戸で販売される諸国産物の品目を記したものであるが、同書には、塗物に「相州箱根」とあり、これにより江戸で販売される諸国の特産物と並んで箱根の塗物細工が江戸に入荷され、販売されている様子が伺われる。

(上記同書118〜120ページより)


箱根の漆器には、幾度も漆を塗り重ねては都度下の木目が見える様に磨き出す「木地呂塗り」と呼ばれる手法が用いられていました。元は白木の挽物を作っていた箱根の職人としては、木目をなるべく隠したくなかったのでしょうか。

箱根以外の相模国内の漆の利用については次回見ていきたいと思います。




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この記事へのコメント

- 美雨 - 2015年01月17日 21:18:29

拙ブログご訪問ありがとうございます。
漆器の流通をここまで詳細に調べられたとは驚きです。
知識と粘りがないとここまで書けないと思います。
論文が書けますね。
勉強になりました。
ありがとうございます。

Re: 美雨 さま - kanageohis1964 - 2015年01月17日 22:44:18

こんにちは。コメントありがとうございます。

ここまで「新編相模国風土記稿」に載っている産物をひとつずつ当たって見て来たのですが、この「漆」の話の段になって俄然史料が増えて、どう整理したものか相当に考えさせられました。本当は先行研究をもっと探してみないといけないのですが、意外に手に入るものが少なくて、差し当たって市町村史や県史の史料を基本に並べてみているのが実情です。見落としはまだ多々あると思いますので、今後も見つけたものがあれば足していかないといけませんね。

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