津久井県の「漆」:「新編相模国風土記稿」から(その3)

本草図譜巻八十二「漆」
「本草図譜」から「漆」
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
前のページに「ラック」「ラッカ」を
ヨーロッパの名称として紹介している
前回から随分と間が開いてしまいました。「新編相模国風土記稿」の山川編津久井県図説で紹介された漆について、今回は江戸時代後期の相模国の漆の生産について見ていきます。当初は漆の流通についても併せて見る予定としていましたが、文量が増えてしまったこともあり、次回に廻すこととします。

小田原藩が江戸時代初期から漆の貢税を山銭と別に取り立てていたという事実からは、藩が当初から漆という産品の重要性を認識していた証拠と考えて良いのではないかと思います。丹沢山地南部の村々では富士山の宝永噴火の影響で長期にわたって漆の生産が止まってしまう事態となりましたが、生産が再開された暁には貢税の再開を望んでいたことも、前回取り上げた史料の数々からも明らかです。つまり、江戸時代後期になっても小田原藩は漆を重要な産品の1つと認識し続けていたということです。

その傾向は寧ろ江戸時代後期になって強められていった節があります。文化年間(1804〜1818年)に、当時の小田原藩主大久保忠真が「国産方」と呼ばれる役人を設置し、藩内の殖産振興策を推進し始めます。その手始めに国産方が藩内の村々に対して「国産国益」となる産品などを募ったのが文化8年(1811年)、それに応じて漆の栽培を申し出てきた虫沢村(現:足柄上郡松田町(やどりき)の虫沢地区)に対し、翌文化9年、藩国産方が漆の栽培を開始するために必要な資金を用立てて村々に貸し付けています(「神奈川県史 資料編5 近世(2)」737〜738ページ)。同村に伝わる文書によれば、村民9人に対して金2分から4両までの金が貸し付けられたことがわかります。

また、後に天保2年(1831年)6月には、永年漆掻きを営んできた藩領内の村民から3人を表彰し、うち2名を名主格に登用し、残りの1名には金5両が贈られたことが記録されています。

被仰出之写

府川村

伊野右衛門

苅野岩村

上大井村

其方之儀、国産方漆取立候而者、年来骨折取扱、追々御益筋相増、畢竟格別出()致候、右之儀一段候、依之府川村伊野右衛門・苅野岩村林蔵儀名主格申付、上大井村林蔵()為酒代金五両差遣ス、

右於地方

天保二辛卯年/六月

(「南足柄市史2 資料編近世(1)」656ページより)


一方、漆の生産を振興していたのは相模国内の幕領、つまり韮山代官所が治めていた村々についても同様でした。安永6年(1777年)に韮山代官所が出した触書が残されています。

竹垣庄藏(直照)

江川太郎左衛門(英征)

小笠原友右衛門(照羽)

各支配所前〻ゟ漆木有之候付、植増之儀去ル卯年(明和八年)申渡候処、年〻植付被申付木数相増候由、常〻被心掛候哉と相聞候間、弥以無油断植増候様可取計候、尤漆木不限、櫨・荏・桐を始油実之木数植付被申付、植付生立之有無可被申聞候、

(安永六年)七月

伊奈半左衛門(忠敬)

久保平三郎(勝峯)

上杉弾正大弼(治憲)

御預り所役人

松平肥後守(容頌)

各支配所前〻ゟ漆木有之候付、植増之儀去ル卯年申渡置候処、其後沙汰無之候付相尋候処、久保平三郎御代官所・弾正大弼御預所ニ者少〻根付候も有之候由被申聞候得共、等閑之儀と相聞如何候、以来心掛無油断植増候様可被申付候、尤漆木不限櫨・荏・桐を始、都油実之木品植付候様被取計、植付生立候様子年〻無怠可被申聞候、

七月

惣御代

御預

(以下略)

(「神奈川県史 資料編7 近世(4)」229〜230ページより)


本草図譜巻八十二「櫨」
「本草図譜」では漆の一種として櫨が紹介されており
その実から蝋を取ることが解説され
紅葉する葉とともに実の生る様子が描かれている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
韮山代官所が漆を植える様に奨励したのはこの時が初めてではなく、明和8年(1771年)にも一度同様の触書を廻していることがこの触書で示されています。しかし、恐らく思う様に漆の木が増えていなかったのでしょう。怠らずにもっと漆の木を植える様にという、かなり厳しい言い方で再度の催促をした訳です。もっとも、そうは言っても漆を植えるのに適切な土地ばかりではありませんから、そういう所ではハゼノキ、エゴマ、キリといった樹種や、「油実之木」、つまりツバキなどの様な樹を勧めるという代替案も示しています。

(その1)で引用した「神奈川県植物誌 2001」(神奈川県植物誌調査会編 2001年 神奈川県立生命の星・地球博物館刊)では、山間部だけではなく県内の丘陵地の多くにウルシノキが見られることを示していました。韮山代官所が治めていた相模国内の村々は、明和8年の村名帳(「神奈川県史 資料編7 近世(4)」3〜7ページ)によれば、津久井県28ヶ村、足柄上郡24ヶ村、足柄下郡13ヶ村といった山間部に属する村々の他、愛甲郡23ヶ村、大住郡42ヶ村、淘綾郡7ヶ村、高座郡15ヶ村と、平野部の村々も多数治めていました。ですから、こうした平野部の丘陵地帯の村々にまでウルシが植えられたのは、この韮山代官所の出した触書に拠る所が大きいと考えられます。漆を生産するためにはウルシノキを栽培するだけではなく、そこから樹液を採って精製する「技術」が必要ですから、そうした「技術」が何処の村々にも遍くあったとは考え難く、そうした中で敢えてウルシノキを栽培していたということは、何らかの形で「村々の外部からの働き掛け」があったことになります。韮山代官所が出したこの触書は、そうした働き掛けがかなり強い形で存在したことを示す、1つの証拠になると言えるでしょう。

但し、ウルシノキの寿命はそれ程長くない上に、樹液を採るのに利用した木は一定年数が過ぎた所で伐採していましたから、現在神奈川県内に残っているウルシノキの中に江戸時代まで遡るものは恐らく殆どないでしょう。大半はその「末裔」に当たる樹ということになります。

また、文化9年(1812年)には韮山代官所から相州津久井県の他、武州多磨郡や甲州都留郡の村々に対して出された触書(「神奈川県史 資料編7 近世(4)」361ページ)によれば、漆の木を少しでも活用して収益を得られる様に、漆の実を使った蝋燭を作るに当たり、村々が協力して八王子宿の名主・年寄りの差し向ける手代の者に収穫した実を売り渡す様に触れて廻っています。その際の売上に対して「役永等は取り立てず」、つまり課税はしないとも書いています。少しでも殖産に繋げようという代官所の姿勢が窺えます。

しかし、漆の場合は栽培するだけではなく、そこから樹液を取って塗料として使える様に精製するまでの手法も課題になるのですが、樹液採取以降については漆を植えた山主が行っていたのではなく、「掻子」と呼ばれる漆掻きを専業とする職人を抱えた仲買問屋が行っていたことを示す史料が幾つか残っています。例えば文化6年(1809年)には、菖蒲村(現:秦野市菖蒲)の山主が自身の土地に植えた漆の木を柳川村(現:秦野市柳川)の問屋に対して売り渡した際の証文があります。

立木漆年季売證文之事

一立木漆三百七拾三本所ハ居屋敷続不残/こうはた坂口廻り/上ノ窪三軒え堤

代金弐両三分也

右ハ私持分之畑之堤屋敷ニ有之候立木漆此度年季ニ相定、代金不残只今慥ニ受取、当御年貢ニ御上納仕候所実正也。漆御年貢之儀ハ右代金之内除置、私方より年々御上納仕候筈ニ相定申候。年季之儀は当巳年より来ル戌年迄丸五年季ニ相定申候。然ル上ハ其元ニて被成手入、弐年掻成共漆掻取、戌年中ニ三百七拾三本不残御伐取可被成候。年季之内ハ下木成共私方ニて外え一切売申間敷候。為後日立木漆年季売證文加判仍て如件。

菖蒲村

木売主 小兵衛(印)

文化六年十二月日      證人 儀右衛門(印)

 市右衛門(印)

柳川村

与兵衛殿

(以下略)

(「秦野市史 第2巻 近世史料1」730〜731ページより、返り点等省略)


漆の木から樹液を取る作業が必ずしも容易ではないことから、熟練した漆掻き職人のいない村では、他の村の職人に依頼せざるを得なかったのでしょう。そこにこうした「分業体制」が成立する余地があったと言えそうです。ただ、元締になった問屋はさておき、その下で働く掻子は立場の不安定な身上に置かれ、その生活は苦しいものになっていた様です。また、山主もこうした問屋との関係を深める中で多額の借金を重ねる様になってしまいます。後に小田原藩の国産方が漆の専売を始めようとした際には、掻子や山主が問屋に対して抱えた借金が足枷になっていた様子が、次の文書から窺えます。

乍恐以書付奉願上候御事

一先達御願奉申上候私共村〻漆取之者共問屋替之儀付、国産方御役所様度〻被召出御理解御座候間、掻子之もの共右問屋方是迄之下り金之儀、年賦或歳金等手を尽、再応相願候得共、中〻承知不仕候、乍併

御上様御趣意御座候間、何卒往〻御趣意相立候様仕度奉存候付、此上拾ケ年是迄之間屋漆為差出熟談之上面〻借金相片付、拾壱ケ年目ゟ被仰付候通り取計仕度段、先達願書奉差上置候処、御信用無御座、右願書御理解之上御下ケ可被遊段被仰聞奉恐入候、何分右願書面之通拾ケ年御用捨被成下置候様一同奉願上候、尤国産方御役所様ゟ右間屋共方へ御欠合被下置、年賦又元歳等可被成下置候趣ニ茂被仰聞、難有承知奉畏候、可相成儀御座候ゝ、右御役所様御賢慮を以熟談内済仕候得、私共村〻相助り無此上難有奉存候、乍併御他領之儀御座候得、万一熟談不仕出訴ニ茂相及候節、掻子之者共私共被召出永〻江戸詰仕候節、困窮之私共御田地手入等不行届、家内之経営不及申上御年貢御上納ニ茂差支可申哉難計奉恐入候、掻子共之儀何れ田畑所持不仕、御百姓一通りニ而者渡世難相成、依之漆取仕候得其日之立前相当り、又極月相成諸役銭或年取米代金等問屋方相歎キ多分借用在之候上ニ茂、不得止事無心申入、其陰を以越年仕来候振合者共御座候、右出訴等相及候節壱銭之才覚出来不仕、第一江戸詰中親妻子及渇命可申形御座候、尤諸入用金等右役所様ゟ被下置候迚、前文奉申上候通、留守中家内之営等差支可申、難ケ敷奉存候、是迄再応御理解被仰聞候得共、右掻子共間屋方借用金之儀、一旦露命を繁キ候恩借故歟、甚夕手強キ挨拶而已申聞、愚味之私共術計尽、此上可手寄手蔓絶、途方暮罷在候、何卒御憐愍之御慈悲を以、拾ケ年御宥免之程一同奉願上候、右奉願上候通御聞済被成下置候ゝ、漆取之者共不及申上、私共迄難有仕合奉存候、以上、

文化九壬申年六月

組合九ケ村村〻

名主

役人

掛り

大官(マヽ)

(「神奈川県史 資料編9 近世(6)」964〜965ページより、強調はブログ主)

かつての足柄上郡萱沼村(現:松田町萱沼)に伝わる文書ですが、特に掻子は田畑などを一切持たず、専ら漆掻きの僅かな稼ぎで何とか暮らしており、問屋に対しては何かと借りがある状況であったため、その関係を清算するのは相当に困難な状況であった様です。前年には問屋側からも漆の買い付けについては自分たちを用命する様に藩に出願していたこともあり(同資料編9 961〜963ページ)、自らの有する稼ぎ口を藩に持って行かれる格好になるこうした政策に対して、相当に抵抗していたのでしょう。こうした問屋が小田原藩領の外にいたことから、訴えられる段となれば江戸に持ち込まれることになり、その様な状況になるのは何としても避けたいという事情も読み取れます。

なお、小田原藩国産方が漆の専売を目指したのと同様の動きが、韮山代官所でも幕末にありました。その際に漆を買い付けるのにどれだけの費用が掛かるのか、方々から情報を集めて廻った際の嘉永元年(1848年)の報告書が残っています。

御買上漆之儀ニ付奉申上候書付

相州村々漆為内糺差出候太郎左衛門手付網野久蔵見込之趣書面を以奉申上候処、右は見込迄之儀ニ付、納(値)段其外共(とく)と相糺可申上旨被仰渡、御差急(さしいそぎ)之義ニ付、早速久蔵差出相糺候趣、左ニ奉申上候。

一上(かき)漆千四拾貫目      八貫目入百三拾樽

此代金千六百三拾七両三分 永四拾五文三分

但壱駄四樽付凡納直段 金壱両ニ付漆六百三拾五匁

右は神谷与之助殿知行所相州淘綾郡山西村名主政造相礼候処、書面之通申立書付差出候処、先達て内札仕候砌、元漆渡世仕候同村百姓金左衛門申立候所相場と格外相違仕候間、同人をも呼出相札候処、内糺之節申立候は全漆怔合(しょうあい)ニ不拘、通例売買直段申立候義ニて、極上生漆ニ八、九百目と申相場ハ無之旨申立候得共、事実不分明ニ付、当時大久保加賀守殿領分足柄下郡小竹村は元太郎左衛門支配所ニて、同村百姓代和兵衛と申もの従来漆掻(うるしかき)いたし、掻子(かきこ)も抱置、手広ニ売買仕、至極巧者ニ目(きき)仕候者之由風聞ニ付、密ニ同人方え罷越、事実承り糺候処、当新漆上品は所相場凡金壱両ニ付六百三、四拾目位ニも可有之、下物之義は相模大崩と唱、八百目又は九百目余之分も有之、是等は(まじり)物多ク、定り候相場無之旨申立候付、大住郡波多野辺之義内探仕候処、先は前書政造申立ニて荷合仕候得共、全波多野辺漆計ニて買集方出来申間敷、加賀守殿領内足柄郡上下中村(ママ)と唱候場所之義は、数多漆木有之、同領之分相除候ては迚も買集方難出来、自然内密相対買ニ品買入候も難計奉存候間、所相当之直段ヲ以勝手次第売買仕候様、加賀守殿方え御達し相成候ハヾ、都て山方直段引下ゲ可申、且又御府内漆屋共義当年御買上漆有之候を見込、諸々手廻候ものは漆貯罷有候由、右漆屋共より御買上無之、山方直荷御買上相成候ハヾ、(たとえ)山方漆荷御府内え差送候共、夫々□物余分貯有之候上は、高価仕切差出し申間敷、然ル上は究て御府内山方共自直(おのずから)段引下ゲ可申、左候ハヾ往々御益筋と奉存候旨久蔵申之、同人出役先より政造糺書并運賃書共弐通差越申候。依之右書付弐通相添、此段奉申上候。以上

四月

江川太郎左衛門元(締)手代

長沢与四郎印

(「秦野市史 第3巻 近世史料2」309〜311ページより、ルビ、傍注は原文に従う、返り点は省略、強調はブログ主)


「天保の改革」によって廃止された一連の問屋・株仲間を復旧することになるのは嘉永4年ですから、韮山代官所のこの調査はその3年前ということになり、その頃には物の値段を調べるのも難儀な状況になっていたことが窺えます。それはさて置き、これを見ると、残念ながら相模国の漆の粗悪品には「相模大崩」というあまり有難くない呼称があったことがわかります。こういう地名を冠した呼び名が出来てしまうのはそれだけ評判が芳しくなかったことの現れでもあるでしょう。(その1)で引用した「本草綱目啓蒙」などでも相模国が漆の産地として名が挙げられていないのは、そうした評価もあってのことと言えそうです。この年はそうした粗悪品が多く、漆の値が定まりにくいことが報告されている訳です。

漆を「奥州羽州野州」(「本草綱目啓蒙」より)といった当時の名産地に伍する程の有力な産物とするまでには至らなかったのは確かな様ですが、漆の名産地が北に偏っているのが、果たして漆の生息環境に適していたことによるのか、あるいは漆の樹液採取以降の工程に何らかの関係があるのか、その辺りは何とも言えません。とは言え、小田原藩や韮山代官所が漆を領域内の産物の1つとして育て上げたいと願い、尽力していたことは、こうして残された数々の史料から明らかと言えるでしょう。

次回は相模国内の漆が何処で使われていたか、何処へ流通していたかを考えてみたいと思います。




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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

この記事へのコメント

- ●● 白竜雲 【はく りゅう うん】▶ - 2015年01月11日 13:09:05

こんにちは!
新年の御挨拶もせず 失礼致しておりますが・・・
本年も よろしく お願いします!
この度は 御心配頂き、誠に有難う御座いました!m(_ _)m

Re: 白竜雲 さま - kanageohis1964 - 2015年01月11日 14:12:31

こんにちは。コメントありがとうございます。
こちらこそ、本年もよろしくお願いいたします。

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