自住軒一器子「鎌倉紀」より(その3)

前回に続いて、延宝8年(1680年)4月の自住軒一器子「鎌倉紀」を取り上げます。今回は旧東海道・四谷から先の足取りを追います。


四谷の大山道標(ストリートビュー
左手が東海道で京方を向いている
右手の鳥居のある方が田村通り大山道

「東海道分間絵図」車田〜四谷付近
「東海道分間絵図」より車田〜四谷付近
(「国立国会図書館デジタルコレクション」の画像に
矢印等追記)
一器子一行が四谷で雨宿りの後、この日の宿りとする田村に着くまでの記述は次の通りです。

一里の間はすきと雨におぼれて、やうやう四谷に着てこそ、雨も小やみ人心ちもつきぬ。こゝにてやすみ、扨大山へと心ざす。右の方に不動の像、壱尺計の座仏をかねにてつくり、大山海道のしるしとす。左に高麗寺山とて平塚の宿の上にあたれる高山をはるかに見やる。又雨ふり出ぬ。一宮と云まではしきり也。一の宮の宿は梶原父子頼家卿の勘気を蒙り鎌倉をこへて此所に引こもりしとあれば、昔は景清が知行所也。それよりゆきて田村川といふに着ぬ。二三町が程河原にて、はゞ四五十間の水流たり。是なん馬入の水上相摸川なり。折しも雨やみて舟をわたすに心やすし。舟渡しも海道ならねば私なる事おほし。船よりあがれば、又雨ふり出ぬ。かゝるあらき空にいそがぬ旅をゆくもいかゞなれば、今夜は此宿にやどれかしと、いまだ日は高けれど田村にとまりぬ。ひ(ね)もすの心くたびれを軒もる雨に打まかせしづかにふしぬ。

(「鎌倉市史 近世近代紀行地誌編」113ページより、以下同紀行の引用も同書より)

元禄3年(1690年)に刊行された「東海道分間絵図」で、一器子一行が歩いた東海道の車田〜四谷の区間を改めて見てみます。「よつや」と記された楕円の左肩に「小茶や」とあり、一行はここで雨宿りをしています。他方、「くるま田」と記された楕円の左脇にも「小ちゃや」とあり、ここで雨宿りという可能性もあったと思われるのですが、彼らとしては少しでも先を急ぎたかったのでしょうか。そして、「よつや」の上側に「大山道」と記された道が描かれており、これが「田村通り大山道」に当たります。傍らに「右ニ不動みち」とあるのも同じ道を指していると考えられます。

旧東海道:四谷・大山道標
四谷の大山道標(2007年撮影)
現在の「田村通り大山道」の入口にある不動像が鎮座する大山道標は延宝4年(1676年)のものです。従って、一行が見たのは4年前に立てられたばかりのこの道標だった筈ですが、一器子は「かねにてつくり」と言っています。しかしこの道標は、右の写真では若干見え難いかも知れませんが、不動の部分まで一体化された石像です。この時には雨は一時上がっていると書いていることから、それ程難儀な状況ではない中で石像を銅像などに見間違えるというのは若干不自然で、一器子がどうしてこの様に記したのかは謎です。

この紀行の同様の取り違えは例えば覚園寺の薬師堂の記述で、本尊を「立像」(正しくは「木造薬師三尊坐像」であるため、「坐像」とすべき所)とした点などにも窺えます。当時の紀行文・道中記を地誌として評価する場合、著者の記憶違いなどによってこうした記述の齟齬が時折紛れ込む可能性は常に考えて置かなければならないことではあり、こうした点だけを以て史料としての価値を悪戯に下げてしまうことは出来ません。ただ、今回の場合「自住軒一器子」という人物の素性が明らかではないこともあり、その点ではこの紀行自体の性質について、議論の残る点ということになるのかも知れません。今のところは、疑問点はありつつもこの紀行全体としては大きな齟齬がある訳ではないと私は判断しています。

因みに、「田村通り大山道」の入口にある鳥居は天保11年(1840年)に更新されたものですが、その前は万治4年(1661年)に大山御師の手によって設置されており、この鳥居も一器子一行が見ている筈です。これらの道標や鳥居の設置年が物語る様に、この道は江戸時代初期から大山詣でのための道の1つとして認知されていたことがわかります。「鎌倉誌」の成立年が確乎たるものであれば、一器子らのこの道中がこれらの道標の設置からそれほど年数が経っていないことになりますので、恐らくは江戸でのこの講中の評判を聞き付けて、鎌倉に行きがてら大山詣での様子を見に行こうと画策したものでしょう。

田村通り大山道→大山坂本
「田村通り大山道」を経て大山・坂本に至る道筋(概略)
(「地理院地図」に「ルートラボ」上で作成したルートを取り込み
加工したものをスクリーンキャプチャし、リサイズ)
田村通り大山道・中原街道:梶原景時館址
梶原景時館址(2007年撮影)


田村の渡し付近の明治39年測図地形図
(「今昔マップ」より)
点線で描かれる渡し場の道筋より
上流で相模川に合流する流れが目久尻川
この「田村通り大山道」は四谷で東海道から離れると、東海道の進む砂丘帯よりも1つ北側の砂丘帯の上を進みます。小出川を渡った辺りからは水田の広がる沖積平野の中を進んで一之宮に至りますが、この間の様子については残念ながら再び雨に遭ったとしているためか書かれていません。

一之宮には梶原景時の館があったことは「鎌倉紀」の記す通りですが、その先の「田村川」とあるのは道順から考えると「目久尻川」に当たる様にも思えます。ただ、当時の「目久尻川」の相模川との合流地点は現在よりも上流にあり、田村の渡しの位置が時代によって多少移動があった可能性を考えても、一行がこの川を渡る道順であった可能性は低そうですし、「二三町が程河原にて」と記している点とも合致しません。また、田村の地は相模川の対岸にあり、一之宮側に飛地があった訳でもないことから考えると、この呼称が果たして実際に使われていたものかどうかは疑問を感じます。他に特記される程の規模の河川もありませんので、恐らくこの辺りも多少記憶の混乱があるのではないかと考えます。


現在の田村十字路(ストリートビュー
右手が田村の渡しからの道
左手は厚木・八王子方面で
大山へは次の丁字路で左折する
「新編相模国風土記稿」では「田村の渡し」について「渡頭より雨降・二子等の山々、及富嶽を眺望し、最佳景なり(卷之四十三 大住郡卷之二)」とその眺望を賞賛していますが、これだけ風雨の厳しい中ではとてもその様な景色を望める状況ではなかったでしょう。まだ日が高いとは言え荒れた天気の中をこれ以上無理に先を急ぐこともないと観念して、この日は田村に一泊することになりました。田村については以前も平塚道(厚木八王子道)の継立場の1つとして出て来ましたが、「田村通り大山道」はここで平塚道と一旦合流し、次の丁字路で大山へと向かいます。従って大山道は田村の宿場を枡形状に通り抜けていくことになります。「風土記稿」では、田村の小名として「上宿」「下宿」「横宿」といった地名を伝えていますので、古くから宿場が形成されていたことは確かな様です。

翌16日も生憎とこの雨は晴れず、一器子一行は再び雨の中を伊勢原へと向かいます。

まだ雨の名残つよし。田村を出て伊勢原へゆくに俄に風かはり大雨しのをつくがごとし。

旅衣ほさん木かけもなかりけり 雨よりすゝむ駒のあしなみ

佐野のわたりとはやうかはれり。大山も程ちかくみゆる。右の方の山は日向(ひなた)の薬師なり。四方は遠山にて今ゆく道は野中の田のくろなればすべりなんと心やまし、蛙の声のみにぎやかにして、こと物も見へず。いな光は時ときけり。

(130ページより、くの字点はひらがなに展開)

雨が激しいので歌枕の「佐野の渡り」と紀の川の渡しに掛けたのでしょう。ルートマップで確認できる通り、伊勢原が近付くまでは水田の中を進む道筋になりますので、畦道のぬかるみを気に掛けている訳です。ただ、この雨は伊勢原に着く頃に上がり、大山の上の雲の間に虹も見えていました。

大山には一行4人のうち医師というひとりは疲れてしまったために山に上るのを断念し、3人で山上に詣でています。江の島の岩屋へ向かう道と比べて遥かに険しく長い上り道を「山中雨気にて寒けれ共、のぼるごとに汗出、みのもかさもたまらずのぼる程難所也。(131ページ)」と評しています。山門に辿り着いてその雅やかな様子については次の様に記しています。

大山の伝記本朝の書籍の中にしかとしたる伝記はいまだ見あたり侍らず。是に付て思ふに、仏に有縁無縁有と見えたり。先鎌倉は武家の天下に成りし始の地なれば将軍を柳営と申により、そのまします所なれば柳の都といふ。是天子は花の都にいますとのさかへをあはせてよぶ名成べし。代々の祈願所・廟所とて宮も寺も数おほく、伝記さだかにして、霊仏おほけれども、雪の下こそ人あしもしげく、にぎはゝしけれ、その外はよのつねの田合よりもさびたり。又靏が岡八幡宮・長谷観音・建長寺・光明寺の外は皆おとろへて人けすごく、只田畠山谷よりこと物は見えず。然に此大山は伝記もさだかならず、前代開帳もなく、鎌倉は平地に少坂のある程なるが、爰は麓の里も岡つゞきにして、山上へのぼる十八町は、遠国はしらず近きあたりにはたとへなく、箱根・熱海の瞼難も及がたくみゆる程なる岩坂に、石の上には人の足跡にてくぼみ、木の根は人の手かたにて木賊をかけてみがゝれたるやうになる迄、貴賤の参詣しげくして、日も雨ふり道さかしきに上下の人ひきもきらず。さらば一旦のはやり仏はかならずさむる約あるも、いつも同じやうにさかへて、山下の民家も五十余町が程は田畠もつくらず、時参詣の人あしを頼みて、所の者は都のつとにするわりご・引ものゝ類をこしらへあきなひ、扨は祈禱をする御師の宿ばかりにて、軒をならべ地をあらそひ、せまき内に人のこけりあふ事、江戸にもまさりて(繁)昌す。もとより藤沢より六七里のあいだは東海道よりも人馬の足しげく、しかとしたる国を知り給ふ大名の城下よりもにぎにぎし。只是不動明王の誓願むなしからざるきとくにより、只一所の御影にて、多くの民のなりはひ、又万民ねがひを叶ふる御威光、よそにて聞しよりも猶たうとし。

(132ページより、くの字点はひらがなに展開)


鎌倉はかつては武士の都であったけれども、今は一部の寺社を除いては多くが寂れ、田畑が広がってしまっているのに対して、大山は険しい山上だというのに人の往来が絶えず賑わっているという訳です。江戸より繁盛しているというのは多少誇張もあるのかも知れませんが、この頃には鎌倉辺りよりも大山の方が遥かに参拝客を集めていたのは確かな様です。

因みに、「わりご・引もの」と見えますが、今では大山の独楽(こま)として伝わる挽物細工がこの頃から既に栄えていました。これも「風土記稿」の産物の一覧に含まれていますので、これについては後日改めて取り上げたいと思います。

一行はこの日のうちに藤沢まで元来た道を引き返して一泊し、翌日東海道を経て江戸へと帰って行きました。上記の通り由緒に多少疑問の余地もないとは言えないものの、江戸時代初期に書かれた紀行として、当時から既に鎌倉・江の島と大山の周遊を試みる人がいたこと、そしてその頃の鎌倉と大山の賑わい振りの差が読み取れる文献の1つとして希少な存在ということになるのではないかと思います。



追記(2015/07/02):「ルートラボ」上で作成したルートを「地理院地図」で作成した図に差し替えました。また、ストリートビューも現行のURLに差し替えています。
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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

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