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自住軒一器子「鎌倉紀」より(その2)

前回に続いて、延宝8年(1680年)4月の自住軒一器子「鎌倉紀」を取り上げます。

自住軒一器子「鎌倉紀」の鎌倉内での足取り
一器子一行の14日の足取り(概要)
(「地理院地図」に「ルートラボ」で作成したルートを取り込み
加工したものをスクリーンキャプチャし、リサイズ)

鎌倉・光明寺山門より本堂を望む
鎌倉・光明寺山門より本堂を望む(再掲)
13日に金沢から鎌倉入りした一器子一行4人は、鶴岡八幡宮の三の鳥居近くに宿を求めました。翌日はここを起点にして終日鎌倉を周遊しています。文字に起こしてもなかなかその足取りが見え難いと思いましたので、その1日の足取りを大筋でルートマップ化してみました。具体的に辿った道筋までは特定出来ないので、飽くまでも現在の道筋を辿った場合の大筋を示しているだけですが、立ち寄ったと思われる場所にはコメントを埋めて、大体どの様な順番で各寺社を巡ったかがわかる様にしています。残念ながらブログに張った画像ではコメントを収めたポイントが表示されず、またルートもかなり簡略化されて表示されていますので、画像をクリックして「ルートラボ」の画面上で見て戴きたいと思います。

2015/06/28追記:「ルートラボ」が生成する地図が簡略化され過ぎる点を解消し、意図が伝わりやすいものとするため、「ルートラボ」から抽出したKMLファイルを「地理院地図」上に取り込んだ上で、主な訪問先を書き込んだ図に差し替えました。「ルートラボ」上の地図は引き続き残っていますので、必要に応じて切り替えて参照下さい。


大筋では、前泊した雪ノ下の宿屋を拠点にして、まずは鶴岡八幡宮に詣でた後、鎌倉の北東方面に向かって頼朝の館跡や墓を最初に見て廻っています。そして、鎌倉宮、杉本観音、覚園寺、報国寺、荏柄天神などに立ち寄って一旦宿屋へ戻り、そこで一献に興じています。その後、今度は北西方面の山ノ内・扇ヶ谷の寺社を次々に廻り(この辺りで化粧坂などの切通を潜るため、標高グラフでもピークが見えています)、鉄の井の辺りから再び雪ノ下へと戻っています。更に段葛を経て今度は南東方面の妙本寺・安国論寺・光明寺を廻り、海岸沿いに出て飯島を眺め、最後に新井の閻魔堂に立ち寄って宿に戻ってもう1泊、という道筋でした。

従って、基本的には雪ノ下を出発点として北東→北西→南東と巡る筋を経ており、ある程度はその所在を念頭に置いた上で各寺社などを巡回していたと考えられます。全部で20以上の寺社や史跡を1日で巡っていますから、相当に気忙しい訪問であったと思われ、事前にあまり準備した風ではない鎌倉詣であったにしては、比較的手際良く巡っていると思います。前回触れた通り一器子自身は鎌倉は初めてではなかったものの、この日訪れた寺社に全て訪れたことがある訳でもなかった様です。とは言え、この紀行文中でも「東鑑」「太平記」といった書物の名前が幾度となく出て来る上に、

すこし山をのぼりてちいさき石塔有。頼朝の石塔といへど、所は廟の跡成べし。しるしの石はあらぬものゝ墓を取すへたる物也。いかで上古の風なればとてさだか天下のあるじたり、当時御霊室の十が一つもあらん。東鑑をみれば三浦泰村一族を引つれ頼朝の影前にて二百八十人ならびて生害せしといふ法花堂はこゝ也。昔を聞て今所をおもひあはせて実否をこゝろむべし

(「鎌倉市史 近世近代紀行地誌編」113ページより、以下同紀行の引用も同書より、強調はブログ主)

と記していますので、恐らく一器子も連れ立っていた3人も、前々から相応にこれらの書物を読み込んでおり、基本的にはそれらの書物から得た事績を鎌倉の地で確認して廻ることが、この鎌倉行きの主な目的であった様です。その点では、彼らの道中は江戸時代後期の江戸町民の鎌倉詣とは若干毛色が違い、むしろ同時期の徳川光圀(「鎌倉日記」延宝2年・1674年)や、更に時代を遡る林羅山(「丙辰紀行」元和2年・1616年)といった人たちの鎌倉行きに幾らか近いものであったと言って良いでしょう。前回触れた通り一器子の素性は詳らかではありませんが、少なくともこうした勉学が可能な立場にいたことは確かでしょう。なお、以下で出て来る通り一行は帯刀していることから、武士層の人々であったことが確認出来ます。

もっとも、杉本観音の帰りには

此堂はれやかに見おろさる坂を下りざまに梅の実もあまた有しを若き友ひろひ侍れば、よしや寺僧の見付ると制す。左の方に順礼の札所のありしが、其うしろの垣の中に梅の枝見えけるが実をふるひおとして大かたひろひとりぬ。且のんどをうるほすに涼しかりき。かやうの戯れも旅のなぐさめにや。山間には枇杷の実かなたこなたにいくらと云数しらずありければ、さかりの程このましさうに見やる人も有。

(114〜115ページより)

と、梅の実が生っているのを振るい落としてその実を食べて喉の渇きを潤したりしています。これも旅の楽しみ、と言っていますが、その程度には気楽な道中ではあったでしょう。因みに、延宝8年4月14日は新暦に直すと5月12日、梅の実が熟するにはまだちょっと早かったのではないかという時期で、あまり大量に食べるのは些か心配ではありますが…。まぁ、その後の道中も特に体調を崩すことなく無事ではあった様です。

こうして彼らが巡った当時の寺社は、鶴岡八幡宮や建長寺、円覚寺といった比較的大きなところでは幕府などの助成によって相応に修築がなされつつあったものの、例えば浄光明寺の記述では

それより網引地蔵に至りぬ。当寺は泉谷山浄光明寺とて北条長時建立せられし所也。門はあれ共廻りの垣もなく、取ひろげたる畠のみ也。

(119ページより)

とされるなど、寺社によって差があった様です。もっとも、中でも覚園寺の薬師堂については

凡鎌倉中に古跡あらんが昔の堂とおぼしきは此所也。跡より修理をくはヘくはへして軒と板とは改れども、惣体はたゞ古のまゝ也。さしのぞきみれば仏はくらくてさだかならねども、天井の両方に柱ありて白々としたる地に文字を一行に書くだしたる所々よめれ共遠くてあやなし。されど文字のすがたはあざやかにこそ見えたれ、旧跡とは是をやいふべきと、伴ふ人も感じあへり。

いおとせも朽ぬ寺井の水汲て いく薬ある誓たのまむ

(114ページより、くの字点はひらがなに展開)

と、寧ろ昔のままに伝えられている薬師堂の姿に一同感じ入っており、当時からこうした趣向はあったのかも知れません。因みに、この覚園寺の薬師堂はその後元禄2年に改築を受けていますので、その前の姿を彼らが見ていたことになります。

さて、翌15日には鎌倉から江の島を経て、大山へと向かう道筋になるのですが、前の日に

それより名越坂と云をはるかに見、竹むらの細道をつたひ行、あぜ中に虫のちいさく飛ちがふを見て、友なる人明日はかならず雨ふりなん、むせる気のあればといへり。され共空は晴渡り一天に雲なし、三日の雨をふくむと云詞もあひなんやと明日の空心もとなし。

(120〜121ページより)

と、一行のひとりが雲行きの怪しさを感じ取っていたのが当たってしまい、曇り空になってしまいます。暇乞いにと改めて鶴岡八幡宮に参拝するのですが、

今朝は雪の下を立出て江の嶋ヘと心ざせば、御いとまごいのため八幡宮にまうづ。折ふし神拝の日にあたりて御戸所々ひらけ、社僧・神人いかめしく立さまよふ。舞台には八乙女・神楽男出合て御神楽有。鈴の音松の槍にひゞき、笛鼓の声松の嵐にそふ。誠になまめかしく面白きも所がらにや。宮司御酒などとりまかなふ。所の者の云は、社人・神子と云も皆雪の下旅屋のあるじと妻也といひしにたがはず、宿の女もその中にちはや(礻畢)を着して居けり。

(121〜122ページより、ルビに記された字は字母を拾えなかったので、偏と旁を示すに留めた。「ヒツ」の字)

と、八幡宮の神事が雪ノ下の宿場の人たちによって支えられている状況を伝えています。

江島道見取絵図のルート(修正後)
江島道のルート(概略)
(「地理院地図」に「ルートラボ」で作成したルートを
取り込み加工したものを
スクリーンキャプチャし、リサイズ)
その後、八幡宮の一の鳥居の脇にある畠山重忠の史跡に立ち寄ったあと、江島道を伝って長谷へ向かい、大梅寺(現在の光則寺)に立ち寄った後、大仏と長谷観音に詣でます。大仏の丈を刀の柄で尺を取っているところで雨が降り出してしまい、長谷観音の門前の家で一度雨宿りをしています。その雨が小止みになったところで次に向かうのですが、

雨もやゝ降やみぬ。御霊の宮はいづこぞと尋しに、少行過たりしに童部共あないせんと、とりどりにいどみて、半町程北の方ちいさき森の下のほこらあるにつれゆき、引出物たべといふにより、ずさ(従者)にもたせたる糠やうの物なげあたへばいかりにたるも興あり。

(124ページより、くの字点はひらがなに展開)

江の島や鎌倉などで子供が小遣い稼ぎに道案内する風習はやはりこの頃から既にあったのでしょう。その御霊社は「昔は大社ならんか、今は地震にも雨風にもたふれつべし。(同ページ)」と表現する程に荒れ果てていた様ですが、それでもこうして「吾妻鑑」などの記述に触発されて訪れる人がそれなりにいたということでしょうか。

この先星月井、極楽寺に立ち寄り、稲村ヶ崎から七里ヶ浜を歩いて腰越に向かいます。七里ヶ浜については

此間を七里が浜とて、坂東道七里有。浜へ出さまに黒がねのすなあり。刃のさびをおとすによし、かねあらひ沢共いふにや。常はすな道あしくして浜風ほこりをあげ、波岡山まで打あぐるに、今朝の雨にてすなしづまり、空は次第にはれゆき、風もなく浪もなくて、中なか心安し。左は岩うつ浪、右は岡山なれば、磯ぎはをこえ浜べをたどる道すがら波のまにまに貝ひろひ和布をとる。中なか珍しくてえもいはぬなぐさめ也。爰を日出の浦といへば、

雨はるゝ由比の浜風音たてゝ まさこをてらす日出の浦浪

貝ひろひ和布かり浪わけいとまなみ あまのたもとをおもひこそやれ

(125ページより、くの字点はひらがなに展開)

と、ここで見られる砂鉄を含んだ砂浜や、流れ着くワカメについて触れています。

腰越の万福寺(満福寺)では源義経の腰越状を見ていますが、

門を出ぬれば、江戸にて此たび伴んといひし友あり。是はすぐに大山へ通り、けさ江の嶋にもふてゝ、今鎌倉へいるといふに、はしたなくあへり。折ふしあしくさかしまに順道のたがひぬる事を恨て別れ侍る。

(125ページより)

同じ日に大山に先に詣でてから鎌倉へ来たという友人と鉢合わせしています。どういう事情で同行せずに逆ルートを巡ることになったのかはわかりませんが、江戸時代初期から既に鎌倉・江の島と大山をセットにして詣でる人たちがいたという1事例ということになると思います。

江島道:現在の上山本橋
かつての渡し場付近に架かる上山本橋(再掲)

石上の渡しから旧東海道・車田への抜け道
石上の渡し→旧東海道車田への抜け道(概略)
(「地理院地図」に「ルートラボ」で作成したルートを
取り込み加工したものを
スクリーンキャプチャし、リサイズ)
友人と別れた後、龍口寺に寄ってから江の島に渡りますが、この時は「両方の塩あひ五六たんの道」とあることから徒歩で島に渡ることが出来た様です。岩屋までひと通り詣でた後に大山へ向かうべく江島道を東海道に向けて進むのですが、

かくて江の嶋を出て又潮の打あはせの中を駒に任せて片瀬原へゆく。こゝ西行がねぢ松とてあるよし、砥上が原に鳴鹿とよみし所をよそに見、駿河二郎清重が討死せし唐がはらも此わたりにや、此方はひろき野也。片瀬川はゞひろき流れの末をわたり、とかくして四谷へ出んと東海道のかよひ並木の松原に出ん比ほひ、俄に空かきくもり雨ふり出、笠も取あへず、しとゞにぬれてゆけば、大雷大電山河をひゞかす。並木の松の木末より水をすぐにうちあぐるやうなれば、駒もすゝまず、人もすくむ。とかくする程に神鳴落かゝるやうにはためき、きも心もうせなんとする事度たび也。

(129ページより)

片瀬川を渡る際に「はゞひろき流れの末をわたり」とだけ記しており、ここに渡し場があったとは書いていません。一器子より6年ほど前の徳川光圀「鎌倉日記」でも、片瀬川の項で石上についての記述はあっても渡しがあるとはしておらず、あるいはどちらも馬に乗ったまま流れを突っ切って渡ったのかも知れません。とすると、ここで両岸の片瀬・鵠沼両村が渡しを営む様になるのはもう少し時代が下ってからということになりそうです。

なお、続く記述が「とかくして四谷へ出んと東海道のかよひ並木の松原に」と直接東海道に出て来たことを記しており、激しい雷雨に遭っているにも拘らず藤沢宿で雨宿りを求めた様子も見えないことから考えると、恐らくは石上で片瀬川を越えた先で車田へ向かう抜け道を使っているのではないかと思います。この道筋は現在は失われた区間が多いと考えられており、確かに迅速測図を見てもなかなか現道と重なりそうな場所が見えないのですが、「今昔マップ」から明治39年測量の地形図を参考にして、比較的近い場所を通っている道を選んで線を引いてみました。この道筋は大山から江の島・鎌倉へ向かう旅人が時折使う「近道」だったのですが、上記の推測通りであれば、この道筋が江戸時代初期から既に近道として使われる事例があったことになりそうです。

ここから大山までの足取りについては次回触れたいと思います。



追記(2015/06/28):「ルートラボ」上で作成したルートを「地理院地図」で作成した図に差し替えました。

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