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↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

自住軒一器子「鎌倉紀」より(その1)

最近「新編相模国風土記稿」の産物に関する話が多く、街道絡みの話から遠ざかっているので、ここで少し趣向を変えて紀行文を1つ紹介してみることにしました。もっとも、どちらかと言うとこれまで書いたものと紀行文に記されているものを照合してみようという趣旨です。

今回はお題として「鎌倉市史 近世近代紀行地誌編」に収録された紀行文から、自住軒一器子という人の書いた「鎌倉紀」を取り上げます。これは延宝8年(1680年)の4月の紀行で、江戸時代初期の様子を記している点で貴重なものです。金沢文庫に納められているものなのですが、著者の「自住軒一器子」という人物については委細がわかりません。ただ、冒頭で「十とせあまり昔、伊勢と都にのぼりしも此月比也。(上記書106ページ)」と記し、更に当時は海岸近くにあった「あら井の閻魔堂」(後に元禄地震の際に津波に遭って流されてしまい、現在の円応寺に移転)について「昔みしよりはちいさけれども、堂もあらたまりぬ。」と、以前にも見ていたことを書いていることから、この人物が既に数々の旅を経験し、鎌倉にも既に訪れたことがあることがわかります。また、やはり冒頭で「夏衣たち出てひとひ二日の近きほとりは旅といふまでにこそあれ、いざとさそひて三人の友をかたらひ、」とちょっと思い立って江戸から出掛けていることから見ても、相応に財力に余力があり、自由になる暇を作ることの出来る地位にある人物であったと想像出来ます。

同年4月13日の早朝に江戸を立ち、まずは金沢・六浦へと向かいます。

海より出るあさ日影は霞を分て浜おもてにきらめき、六郷の橋に駒をとゞろかして川崎の駅も夢と過ぬ。金川にて飯かひとり、程がやと云より左の山を分て金沢へと心ざす。四里の程人音まれ也。早苗もるかゝしのあやしきと野にま草かふ馬、谷にあそびゐる牛ならではこと物も見へず。金沢に入る程ちかく海をうしろに見そめたり。是は安房・上総の方成べし。浪は雪のやうに自くみゆる。猶野を越てかなざは(金沢)の台に打あがりぬ。ゆくさき見えず打こもりたるさかひをこえて始てしらぬ国に出たれば目をおどろかすとも中なかなにはわたりの春の曙もいかならん。いひたつれば只松と嶋と浪と岩となれ共、山あり里あり野あり谷あり、海と浜と橋と川と、寺も宮も田も坂も塩屋の煙岸になびき、夕日は波ましづかに照して風は空にかゝれぬ。富士・足柄を霞に見、伊豆の御崎はまの前也。大かた聞及よりも見てはおとれる物から、こよなう眺まさり。此歳月のおもひ消る心地していけるかひあり。

(同書106ページより、くの字点は表記困難のためひらがなに展開、強調はブログ主)


金沢道
金沢道のルート(概略)
(「地理院地図」に「ルートラボ」で
作成したルートを取り込み
加工したものをスクリーンキャプチャし
リサイズ)
江戸から保土ヶ谷(程がや)までは東海道を辿っています。多摩川の六郷橋が渡しに切り替わるのは、この紀行の8年後の貞享5年のことですが、「駒をとゞろかして」ということは、この区間は馬を使った様です。神奈川(金川)で食事をした後保土ヶ谷からは金沢道へと入りますが、そこから人家が一気に疎らになり、田植えを終えたばかりの苗をカカシが見守る様子を目にしながら先を急いでいます。

一器子が何処から金沢の地と認識していたかは定かではありませんが、その手前で海が見えたと言っていることから考えると、能見堂の手前の峠辺りを境と考えていたのでしょうか。その眺望の中で「塩屋の煙」と記していますが、これについては以前相模湾の塩田について紹介した際に出て来ました。「新編武蔵風土記稿」が称名寺の領内の塩田として古くからあると伝えているものです。ただ、一器子が金沢について色々と予備知識を持って出掛けて来ていることが上記引用の末尾に現れていますから、塩田と書かずに傍らに建っていたであろう小さな塩屋の煙の方に注目したのも、あるいはそうした知識を重ねてこの風景を見ていたのかも知れません。

その塩田がいわゆる「金沢八景」を構成する風景の中にあった訳ですが、一器子も金沢八景について自作の歌を添えて記しています。

爰を六浦と云は、谷村・君が崎・洲崎・野嶋・天神崎・河村、合て唱ふる惣名とかや。西湖の八景をうつしたる所なればその所々を申べし、写しとめ給へ、といひしにすゝめられて筆をとる程心の中に、

爰に又もろこし船の便にて 八つのなかめをうつしてし哉

夏嶋帰帆 八景は所をすぐに名によそへたり

舟をくる風も涼しき夏嶋に たゆたふ波の末に霞める

瀬戸晴嵐

吹おろす磯山風にさそはれて 瀬戸の市人いま帰るなり

野嶋夕照

泉郎のすむ野嶋か崎の夕日影 網ほすほとのいそなかるらん

洲崎落雁

真砂地におりゐる蔦の色なれや すさきの石をあらふしら浪

横木秋月

浦風に室の本の葉の打なひき 月まち得ても秋そ恋しき

称名晩鐘

いとゝしく浦の眺そおしまるゝ その名にかなふいりあひの鐘

六浦暮雪

六浦なる塩やくけふり立迷ひ 雪のけしきは常にこそあれ

谷村夜雨

かへりみる後のやまの夕雲や いり江の雨のたねと成らん

所をしるすつゐでに思ひつゞけし言の葉也。

(同書109〜110ページより)


いわゆる「金沢八景」という言い方が始まったのは江戸時代初期、三浦浄心の「名所和歌物語」がその最初とされており、「新編武蔵風土記稿」でも「能見堂」の記述(卷之七十六 久良岐郡之四、谷津村の項)で「和歌物語」について取り上げています。但し、その「八景」の定義は定まっておらず、その後も訪れた人によって多少の相違がありました。「新編武蔵」では
  • 洲崎晴嵐
  • 瀨戸秋月
  • 小泉夜雨
  • 乙艫歸帆
  • 稱名晩鐘
  • 平潟落雁
  • 野島夕照
  • 内川暮雪

(上記谷津村の項、雄山閣版より)

の8つとしています。一器子の取り上げた8つとは「野島夕照」と「称名晩鐘」の2つしか重なっていませんが、この頃にはまだ「金沢八景」が固まっておらず、「八景」に自分なりに金沢の地名を当てはめて歌を詠んでみる方が流行っていた、というところでしょう。

なお、この一器子の歌の中でも塩田が詠み込まれており、当時から塩田が「金沢八景」の重要な要素として認識されていたことが窺えます。

六浦道
六浦道のルート(概略)
(「地理院地図」に「ルートラボ」で作成したルートを取り込み
加工したものをスクリーンキャプチャしリサイズ)
称名寺の門の近くにあった一器子の友人のところで酒を酌み交わして一休みしたものの、金沢の風景に後ろ髪引かれつつもここに宿泊することはせず、夕方には鎌倉へと移動しています。この道は鎌倉時代から鎌倉と六浦の湊を結ぶ道であり、朝比奈切通を経て鎌倉に入ることになります。鶴ヶ岡八幡宮の「鳥居近くはま通りの西がはに夕日とつれて宿りはとりぬ。(111ページ)」と、ここで宿泊することになる訳ですが、やはり鎌倉周遊を第一に考えていたためにその近場で宿をとったということでしょうか。

朝比奈切通を越えてこの宿に到着するまでの景観について、一器子は

是より雪の下迄は大蔵が谷・大御堂・ニ階堂、又武士の屋敷の跡々とて名は夥しけれ共皆麦畠のみなり。四方は山にて、あいだは野と畠にて雪の下迄家はなし。

(同書111ページより)

と、かつての旧跡がみな麦畑になってしまっていると記しています。翌日の記述でも

其より左、東の方へかゝりて麦畠をこゆれば、是なん頼朝の御屋形の跡とて、五六町四方明地の田地なり。此内に畠山屋敷・落居場などゝいふも有べし。朝露にぬれぬれ山ぎはの法花堂に行ぬ。名は高してさも衰へたれば見るにたらず。内に古き仏のみへつれば、いづれの作と尋けれ共、堂僧は見えず、麦をこく女の声にていざしらずと答ふ。こゝに住身の此仏の名をだにしらぬは、その心なればこそ、名を得し堂もいやしく住なし、まづしくはあれと思ひし。昔鴨長明此御堂に来り頼朝の終り給ひし事をおもひ出て、草も木もなびきし秋の霜きへてむなしき苔を払ふやま風、とよみて堂の柱にかき付てけるとは聞及ぬれど、今は柱だにしかくそろはぬ程なれば、

山風の空しき苔のあとゝへは その言の葉もくち果にけり

(同書113ページより)

と、やはり跡地が田畑になってしまっているばかりか、麦を脱穀していた農民からつれない返事をもらっていたく落胆する様子が書かれています。この紀行では他でも鎌倉の寺社の堂宇の修理が行き届いていない様子などが記されており、江戸時代に入る頃には鎌倉が相当に寂れてしまっていた様子が、こうした紀行の記述にも現れている訳です。

鎌倉の麦畑については明治時代初期の平野栄の紀行を以前紹介しました。この頃には「相州小麦」が名産になっていましたから、平野もその点に注目しながら田畑を見ていたと思われるのですが、一器子の頃には果たしてそこまでの名産になっていたかは定かではありません。また、江戸時代に「麦」とだけ記している場合には寧ろ「大麦」を指す方が一般的であったため、この紀行で記されている「麦」も大麦の方が多かったかも知れません。

次回もう1回この「鎌倉紀」を取り上げたいと思います。



追記(2015/07/02):「ルートラボ」上で作成したルートを「地理院地図」で作成した図に差し替えました。

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