津久井県北部の柏皮:「新編相模国風土記稿」から(その3)

前回に引き続いて、再度「柏皮」について取り上げます。

前回取り上げた「神奈川自然誌資料 2」(1981年 神奈川県立博物館)所収の「人為の歴史をとおしてみた県北のカシワ林の消長とシジミチョウ」(原聖樹著)は、この柏の皮や葉などを取るために維持されてきたカシワ林が、この葉を食草とする数種類のシジミチョウの生息地の分布に影響を及ぼしていることを示すことを目的で書かれており、藤野町の古老への聞き取りもそうしたカシワ林がどの様に維持されてきたのかを明らかにする目的で行われています。


この聞き取りで、このカシワ林の維持については次の様に語られています。

⑴保護・育成

カシワは“無駄のない木”だ。樹皮のタンニンが漁網の染料になる。なめし皮、製皮用にも使える。皮をはいだ中味(樹幹)は炭になる。葉は食物を包むのに利用できる。

当地のカシワは植えたものではない。自生していたものを保護・育成して人工林に仕立て上げた。カシワは雑木の中では最も弱く枯れやすい。1升の実をまいても2〜3本しか発芽しない。コナラ・クヌギ等が侵入すると、これらの木に負けるのでこれらを取り除く。ヤブがひどくなったり、フジヅルがからむとカシワは枯れやすく、この点でもコナラ・クヌギよりも弱い。もっとも、クヌギでさえ“大名の気質”であるから、下木になると枯れるので下草刈りはおこたれない。

カシワは昭和の初期には現在よりもずっと多かったが、戦争中に一部が伐採されて畑にされた。残った林は、手入れをせずに放置している。

(上記書5ページより、強調はブログ主)


この様な聞き取りと生息域の観察を踏まえて、この論文ではカシワの生息環境について次の様に考察されています。

カシワは陽地を好み、幼樹は日陰には弱い。火山灰地・砂地・湿原がかった所など荒涼とした環境に多いところから、他種と競合しにくい樹種といえるかもしれない。ただ、イメージ的にはやや乾燥ぎみの立地に多い。樹皮が厚く火に強いため、山火事跡地に純林をつくることがあるという。意外にも順応性も強いらしく、谷間や急斜面・尾根あるいは平坦値にも見られる。

県北地域においてカシワ林は沢岸の傾斜地や部落周辺に多く残存しているが、山腹や尾根にもある。大場達之氏によれば、「県北のカシワは八ヶ岳方面から酸性土壌伝いに分布がのびてきたものであろう」とのこと。カシワ本来の性質を考慮すると、この木に人がめをつけ、これを保護・育成する以前の時代には、極盛相の発達しにくい沢筋や急傾斜地、山腹・尾根等に自然状態で生じた崩壊地や倒木地、あるいは山火事などにともなって形成された裸地に分布していたのではないかと推定される。

山火事跡地を別とすれば、樹林を構成するほどの勢力はなかっただろう。せいぜい数本単位で点々と、極盛相の破壊地やその切れ目に生育していた可能性が強い。

(上記書6ページより)


つまり、他の草木との競合には弱い面を持つ反面、そうした「ライバル」が入って来られない環境下ではしぶとい面を併せ持っているということになります。

ここで時代をもう一度江戸時代に戻します。江戸時代初期に足柄上郡の村々から出荷されていた「柏皮」が、小田原藩への上納が止んだ後も採取され続けられていたかどうか、その後の記録が無いためにわからないと前々回に記しました。

その後の動向が気になるのは、宝永4年(1707年)の富士山の大噴火が丹沢山地の植生にも影響を及ぼした可能性が高いからです。後日「漆」についてまとめる際に取り上げますが、この噴火による降灰は丹沢山地の漆の生産に壊滅的な打撃を与えたことが、同地に残る数々の文書で明らかです。宝永噴火の降灰分布を見ると、丹沢山地周辺では凡そ30〜60cmほどの厚みになったことが窺え、漆はこの降灰を被った影響で丹沢山地南部を中心にほぼ全滅状態になりました。こうした経緯を考えると、丹沢山地で採取できる他の作物にも何らかの影響が及んだ可能性を考えたくなります。

ただ、カシワに限って見れば、上記の論文に見られる通り降灰によって植生が相対的に後退する環境をむしろ好むことになりますから、そういう中ではカシワは少なくとも減少した可能性は低いということになります。寧ろ降灰によってダメージを負った植物が後退し、それによって出来た空間に新たに芽吹くチャンスさえあったことになってきます。現在は宝永噴火からは既に300年以上が経過していますので、一旦後退した植生も再び戻って久しいと思われますが、「神奈川県植物誌 2001」(神奈川県植物誌調査会編 2001年 神奈川県立生命の星・地球博物館刊)の分布図(559ページ)でも丹沢山地南部でもカシワの標本が確認されていることから考えても、丹沢山地のカシワは富士山の降灰を掻い潜って生き延びてきた可能性が高そうです。

もっとも、そうして生えてきたであろうカシワを、引き続き皮を取るために伐っていたかどうかは別の問題です。足柄上郡の各村が柏皮の採集を継続出来る環境はあったとは言えるものの、実際に続けていたのかは引き続き不明のままであり、同地の史料を更に漁る必要があります。



ところで、上記原氏論文では、秦野が柏の葉の集散地になっていたという、興味深い記事を紹介しています。論文で紹介されている参考文献から該当する箇所を引用してみます。

餅を包むカシハの葉は東京近郊でも多く採集されるが相州大山々麓の秦野は近在での集散地とされる。この葉は塩漬とするのではなく陰干として乾かし50枚1束、1万枚単位で各地に送られる。上質なのは信州もの、そのわけは大さは手頃で品質も硬軟中庸最も適当している。価格は最高で他の二流ものの二倍もする。信州ものの外東京には相州もの、房州もの、茨城、北海道からも入るが何れも並ものである。大きすぎるもの、硬いものは場違ひである。

(「樹木大図説(1)」上原敬二著 1977年 有原書房 760ページより)


郷土誌の文献ではなく、植物図鑑の記述であることから、秦野がいつ頃からこうした集散業務を行う様になったかなどの記述がないのは止むを得ないところではあります。とは言え、引用元などの指示がないので裏を取り難いのが辛いところです。原氏論文でもこの箇所を引用した上で、果たして秦野近郊でカシワが採集出来たのか、それとも秦野は柏葉の集散地としてのみ機能していたのかという疑問を表明されています。今回「秦野市史」や「神奈川県史」に関連する記述がないか探してみましたが、残念ながら見つかりませんでした。

ただ、柏の葉が世に大々的に出回るのは当然のことながら端午の節句直前の限られた時期であり、流通という面では季節変動が極めて大きいのが特徴です。その点では柏の葉の流通ルートが独自に存在したとは考え難く、より大きく、かつ年間を通じて安定した流通量のある他の産物のルートに乗っていた可能性が高いのではないかと思います。

その点で、秦野は以前も紹介した通り江戸時代から続く煙草の産地です。明治時代に入ってその生産量が飛躍的に伸び、明治31年(1898年)の葉煙草専売法成立に伴って国の管理下での生産に切り替えられていきますが、それによって生産から流通に至る制度が大々的に整備されていくことになります。「秦野市史 別巻 たばこ」に掲載された「横浜貿易新報」大正2年(1913年)7月13日の「秦野専売支局の奨励授与式」の記事の終わりに、次の様に当時の秦野の煙草生産の状況がまとめて紹介されています。

製造所の現況 大正元年九月従来の担当製造を直営製造となし本年六月秦野製造所を支局と合併して秦野専売支局製造課となり改正に改正を加へたが由来煙草製造は毎年他県より二千三万貫の葉煙草を輸入し之れに二十万貫の秦野煙草と調合して盛んに白梅、さつき、あやめ、はぎ、なでしこ等一ヶ年卅万貫を製造して此価格は二百八十四万円に達し、大坂、静岡、神奈川県、愛知県、東京府、北海道等へ移出し、残る秦野煙草五十八万一千九百十九貫八十匁は葉煙草の儘で東京其他各処の製造所へ運送するので秦野二ノ宮間の日々の運搬も強かな者である二宮へ停車場を設けたのも之れが為め、湘南軽便鉄道開通も多くは之れが為め、秦野電気会社の電力の過半は製造工場で引用して居るやうな訳で同支局より直接間接に散出する一ヶ年の金額は実に四百万円の多きに達し、右金額は夫々各方面に活動して居るが之れに依ってすら秦野町村は他町村に比して如何の概況を推測する事が出来る、而して今後益々秦野の発展を計らんには煙草の発達に俟たねばならぬ、煙草発達は秦野の発展、秦野は煙草で持つ所以である。

(上記書861ページ上段より、強調はブログ主)



かつての専売局秦野事業所
(旧:日本たばこ産業秦野工場)は
現在「ジョイフルタウン秦野」となり
ショッピングセンターなどに代わっている
湘南軽便鉄道が営業していた頃は
この敷地内まで引き込み線が敷かれていた
付近のNTT辺りがかつての軽便鉄道秦野駅
ストリートビュー
つまり、秦野は単に煙草を栽培する地としてだけではなく、他の地域で生産された葉煙草を集めて加工し、消費地や他の生産地に向けて出荷するという事業地に変わっていた訳です。柏の葉が秦野で取り扱われていたのも、あるいはこの煙草の流通ルートに相乗りする格好で、比較的倉庫の空いてくる春先の言わば余業として行われていたのではないかと個人的には想像しています。柏の葉が陰干しした状態で流通していたというのも、葉煙草の流通と同じ倉庫が利用出来るという点で利点があったのかも知れません。

もしその類推が正しいのであれば、当時の専売局(後の日本専売公社を経て現在の日本たばこ産業株式会社)関連統計に柏の葉の流通状況に関する記録が残っているのかも知れませんが…。今回はその様な資料を見出すところまで行けなかったので、今後の課題ということになります。もしかしたら、それらの統計の中で「相州」産の柏の葉の具体的な産地名が明らかになるかも知れず、その中で足柄上郡の地名が見出だせれば、同地の柏の産出が江戸時代から途切れることなく続いていたことが明らかに出来るのかも知れません。



時代が大分下ってしまいましたが、「新編相模国風土記稿」の「柏皮」の記述が津久井県に関してのみになっていて足柄上郡側の記述がないのが、果たして当時の実情を正しく反映したものと言えるかどうかは、その様な訳で今ひとつ判然としないところがあります。仮に足柄上郡で生産が継続されていたのであれば、「新編相模」では同地に関する記載が漏れてしまったことになりますが、こうした扱いの差が生じた事情が気になります。

前回引用した「武蔵名勝図会」は、植田孟縉が文政6年(1823年)に書き上げて昌平坂学問所に納めた絵図入りの多磨郡地誌です。この人は八王子千人同心の組頭であり、「新編武蔵風土記稿」の多磨郡・高麗郡・秩父郡の編纂に携わったひとりですが、「武蔵名勝図会」の成立する前年には「新編武蔵」の多磨郡の部を完成させていますから、「武蔵名勝図会」は言わばその補足版と言っても良い存在になっています。内容的にも「新編武蔵」では記述されなかった項目が一部含まれています。

そして、この植田孟縉は以前も紹介した通り「新編相模」の津久井県の編纂にも携わっています。こうした編集の経緯から見て、「柏皮」の記述が「新編相模」に現れるのは植田孟縉の影響下にある故と考えられます。


甲州道中と甲州裏街道の分岐点に
現在も残る道標(ストリートビュー
八王子千人町はこの西側の地域
江戸時代に八王子千人同心が住まっていた地域は現在の「八王子市千人町」にありました。ここは五街道の1つである甲州道中と、甲州裏街道の分岐点の西側の地域に当たります。恩方村は、この甲州裏街道をわずかに進んだ先に位置し、千人同心にとっては言わば「隣村」と言って良い存在でした。「新編武蔵」の「上恩方村」の項に

村名の起りは傳へざれど、村内の小名に案下と云所あり、近鄕のもの案下村と呼なせるも、案下峠などありて其地名の廣きよりのことなるべし、されど元より私に唱ふることなれば、公には用ゐず、

(卷之百四 多磨郡之十六、雄山閣版より)

とある通り、この村や下恩方村は私的に「案下(あんげ)」と呼ばれており、甲州裏街道の異名の1つである「案下道」もここに由来するのですが、「武蔵名勝図会」でも

恩方と呼ては知らぬ者もあれど案下と呼吋は児女子迄も其名を知れり

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

と記す辺りに、この地が千人同心にとっても「親密な」地域であったことが窺える様に思います。

また、甲州裏街道と隣接する地域に八王子千人同心が住まっていたということは、当然ながらこの街道を運ばれてくる荷物の数々についても目の当たりにする場所にいたことになります。上恩方村の人々との交流も「新編武蔵」「新編相模」の両風土記稿の編纂事業に携わる以前からあった可能性が極めて高く、同地の「柏皮」の流通については地誌探索を行う以前から承知していたとしても不思議ではありません。

その点では、「新編相模」に「柏皮」の記述が入ったのは、八王子千人同心にとっての上恩方村や佐野川村・澤井村との「距離感」故のことであった、という可能性も少なくないと思います。足柄上郡については千人同心ではなく、昌平坂学問所が担当しましたから、そういう予断を持たずに現地を廻っている筈であり、その分「柏皮」の様な産物には目が行き届かなかったのかも知れません。

最後は少々取り留めなくなってしまいましたが、「柏皮」に関する話はひとまずここまでとします。



追記(2016/01/25):ストリートビューを貼り直しました。

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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

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