津久井県北部の柏皮:「新編相模国風土記稿」から(その2)

前回に引き続いて、津久井県佐野川・澤井村で産出した「柏皮」を取り上げます。

旧上恩方村の位置
武蔵国多磨郡上恩方村の位置
Googleマップのスクリーンショットに加筆)
さて、佐野川村から和田峠を経て佐野川往還を東へ向かうと、相模国津久井県から武蔵国多磨郡へと入ります。そこは「上恩方村」という地で、北浅川を中心とした複数の渓谷が八王子宿に向けて下っていく地です。

武蔵国に入った訳ですから、この村の村誌は「新編武蔵風土記稿」の方に含まれることになりますが、こちらには上恩方村の産物については何も記されていません。しかし、「武蔵名勝図会」(植田孟縉著 文政6年・1823年)の「恩方村」の項には産物として「炭」「烟草」の他に「柏木皮」と「柏の葉」が挙げられています。

産物

  • 柏木皮 上恩方村より出す又小佛邊よりも出 多くは相州津久井(ママ)内より案下へ送り出す
  • 柏の葉 右に同じ

(「武蔵名勝図会」多摩郡之部巻第7ノ下、小林幸次郎翻刻・編集、史料刊行会版より、「国立国会図書館デジタルコレクション」より)


この記述によれば、上恩方村だけではなく、隣の佐野川村で産出した柏皮や柏の葉も、和田峠を越えて上恩方村へと送り込まれていたことになります。これは前回の江戸時代前期の澤井村の記述とも合っています。また、江戸時代後期には柏餅での用途が増えたからか、ここでは「柏木皮」と共に「柏の葉」が挙げられています。

この書物の記述の存在に気付いたのはネット上で「八王子市郷土資料館だより Vol.92(リンク先PDF)」を見つけたからですが、同書では、やや時代が下って明治10年(1887年)の「第1回内国勧業博覧会(リンク先は国立国会図書館電子展示会のページ)」に出品された品々の中に、「柏皮」が含まれていたことを紹介しています。この博覧会については以前戸川村の砥石を取り上げた際にも出て来ました。この時も近隣地域での消費に留まっているとされていた砥石が博覧会に出品されていることから、流通量には斟酌せずに幅広く出品を募った可能性について触れました。八王子や周辺の各村から出品された品々にも同様の傾向があり、「柏皮」も博覧会主催者たる政府役人の要請に応じて出品されたものであることが解説されています。

この中で、この「柏皮」がどの様に生産されているかを記した文書が紹介されています。

上恩方町の尾崎家で所蔵されている文書に、塚本弥源太が出品した柏皮に関する文書が残っています。塚本家は、川井野にあり、江戸時代に上恩方村の上組の名主を勤めた旧家です。文書は、東京の博覧会物品取扱所宛の「博覧会用物品送り状」と柏皮についての説明を綴ったものです。説明書によると、柏皮の産地は、上恩方村字川井野の山の痩地で、実生から 15 年経った木を 3 月から 5 月ごろに伐る。木には、特に肥料を与えたりはせず、雑木山に生えている木を伐り取る。1 尺1 寸 ( 約 33cm) ずつに切った後に皮を剥ぎ、乾かして縄で束ね6束を1駄とする。1 年間の生産高の総計は 240 駄で代金は約 300 円になるとあります。「所用并効能」の欄には、「海漁の網に用ゆ」とあります。柏の木の皮には、タンニンが多く含まれていて、魚網の染料に使われました。江戸時代の後期に書かれた『武蔵名勝図会』には、小津村の特産品として手斧の柄を、上恩方村の特産品として柏皮を挙げています。明治時代も変わらず村の重要な特産物であったのです。

(同書PDF5ページより、注は省略)

柏の木を伐って皮を剥いだ状態のものを束ねて出荷し、使用する段になってこれを煎じてタンニンを煮出すことになるのでしょう。

「新編相模国風土記稿」、そしてこの塚本家の文書の何れも、「柏皮」の用途としては「漁網の染料」のみを掲げ、それ以外の用途を紹介してません。前回触れた通り本草学の各書でもこうした用途に触れていないことから見ても、恐らく「大和本草」が成立した宝永7年(1709年)頃までには、「柏皮」の用途が漁網のみに「縮退」してしまったのではないかと思われます。

Quercus dentata3.jpg
カシワの幹
皮の厚みが裂け目から見える
("Quercus dentata3"
by KENPEI - KENPEI's photo.
Licensed under
CC 表示-継承 3.0
via Wikimedia Commons.)
以下は飽くまでも個人的な推論ですが、この塚本家の文書に記された「柏皮」の採取方法自体にその縮退の原因が見て取れる気がします。柏の皮を取るには、柏の木を伐ってしまわなければなりません。15年ものということは、毎年「柏皮」を出荷するためには出荷量の15倍以上の柏が山にないと応じられないことになりますが、前回見た通りカシワの分布量は丹沢・小仏山地でも多い訳ではありません。そして勿論、一度伐ってしまったら次の木が生えてくるのを待つしかないのですから、生産効率が非常に悪いことは明白です。これでは産出量を増やすのは非常に難しいと言わざるを得ないでしょう。

一方、「八王子市郷土資料館だより」が記す様に「柏皮」の染料の成分はタンニンですが、同様にタンニンを含んだ江戸時代の染料としては「柿渋」を挙げることが出来ます。こちらは古代から近世にかけて漆器の下塗りをはじめ、唐傘などの防水塗料など幅広く用いられたことが知られています。主に渋柿の未熟な実に多量に含まれるタンニンを絞り出して作るので、柿の木が実を付ける様になれば毎年、それも木の寿命が尽きるまで長期間にわたって収穫が可能です。庭先や田畑の畦に植えておくことが出来ることから江戸時代には飢饉対策の食料としても盛んに植えられていましたから、その本数は柏の比ではありません。勿論、柿渋用と食用それぞれに充分な量が供給できなければなりませんが、それでも「柏皮」に比べれば遥かに増産に耐えられることは明らかでしょう。そして、漆器の下塗りなどに使われていたことなどからも、その需要は江戸時代を通じて増えていたことは確かです。


小田原藩が貢税の品目の1つとして「柏皮」を取り立てていた頃には、漁網の染料以外にも恐らく用途が多々あったのだろうと思います。しかし、その頃から既に増産に耐えられないために、「柿渋」でも対応出来る用途から次第に「柏皮」が追いやられ、江戸時代中期には既に漁網の染料だけになってしまったのではないか、というのが今のところの私の推論です。

では何故漁網の染料の用途が「柏皮」に残されたのかが課題ですが、「ものと人間の文化史115 柿渋」(今井敬潤著 2003年 法政大学出版局)では漁網の染料について全国的に聞き取り調査を行った結果を掲げており(20〜40ページ)、これによれば漁網や釣り糸の染料でも柏皮とともに柿渋が用いられていた実態が見えて来ます。このうち房総半島の数ヶ所の事例によれば、

(ア) 浦安  昔は、綿糸でつくられた小型の網は、柏の樹皮の煮汁で染めていたが、大正に入ってからは、カッチという熱帯樹木から得たタンニン染料を用いた。一方、大型網はそのままカシワで染めていたが、これは、カッチの値段が高かったことによる。柿渋染めは、投網に限って行なわれ、一般の網には用いられなかった。これは柿渋染めは網を固くしすぎることによるようである。

(ウ) 館山(相の浜)  一般的な網は、昭和四年頃からカッチ染めになったが、それまではカシワの樹皮の煮汁が用いられていた。柿渋は、延縄の道糸、釣りの道糸を染めるのに使われた。柿渋を使うと糸が固くなり、あたりがよくわかるという利点がある

(上記書31ページより、…は中略、強調はブログ主)

つまり、柿渋の「糸を固くする」という性質が漁法によって利点にも欠点にもなるため、柏皮と柿渋が使い分けられていたことがわかります。こうした「使い分け」が望める用途では「柏皮」が生き残り、「柿渋」と用途上の優劣の少ないものは柿渋への置換えが進んだということではないでしょうか。同書では、青森県では先に柏皮で染め、更にその上から柿渋で染めることによって、漁網腐食の効果を長持ちさせるという使い方もなされていたという事例も記されています(37〜38ページ)。因みに、九十九里浜では漁網の染料に柏皮が多く用いられ、「カシワの皮は秩父・八王子の産を上品とし、野州・上州が之に次ぐとされてゐた。(同書34ページ)」とされていることから考えると、恐らくは房総半島の他の地域の柏皮も八王子、つまり恩方村や佐野川・澤井村の柏皮が重用されていたのでしょう。

現在は漁網自体が合成繊維を使用する様になったため、天然素材の様な腐食の心配がなくなり、柏皮で腐食防止を行う必要性も消えました。また、房総半島で大正時代から「カッチ」という熱帯樹木を用いる様になったとしており、この頃から既に国内産の需要が低下していた様です。

「神奈川自然誌資料 2」(1981年 神奈川県立博物館)所収の「人為の歴史をとおしてみた県北のカシワ林の消長とシジミチョウ」(原聖樹著)では、藤野町(地域は不明)在住の2名の古老の話をまとめて次の様に記しています。

(2) シブ

樹皮をはぐ仕事をシブ取りという。これは5〜6月の男の仕事だ。カシワの葉・小枝などはゴミになるため、その場で捨て、これを燃料にはもちいない。たき木にはコナラや他の雑木を使った。

シブ取りは大正10年前後まで盛んだった。この頃から他の染料が市場に出廻るようになって次第にシブの用途は衰退。昭和の初めには樹皮の出荷はほとんど途絶えてしまった。

(同書5ページより、強調はブログ主)

この「他の染料が市場に出廻るようになって」という証言は、房総半島でカッチが用いられ始めたとする点と合致します。まずは海外産に圧される様になっていったということになりそうです。

以前紹介した茨城県の昭和25年の試験結果が存在することを考えると、実際は戦後まで需要は完全に途絶えた訳ではなかったのではないかと思いますが、それにしても結局は漁網が合成繊維に置き換えられるまでのことではあったでしょう。


何れにせよ、柏皮の染料としての用途は漁網への利用がなくなったことによって完全に廃れてしまったと言って良いでしょう。「柿渋」の方は現在その長所が見直される動きもある様ですが、「柏皮」の方は上記の様な生産の困難さを考えると、そうした動きに結び付く可能性は残念ながら極めて低そうです。

当初は2回でまとめる予定だったのですが、予想以上に内容が膨れ上がってしまったので、次回もう1回「柏皮」を取り上げます。



後日記(2014/12/08):記事掲載時点では引用元に含まれていた誤記については「原文ママ」として掲載していましたが、その後引用元の該当箇所に訂正が加えられたため、こちらの記事上もその箇所を直しました。
追記(2015/12/02):茨城県のサイトのリニューアルに伴い、PDFへのリンクが切れていたため、新しいURLに切り替えました。

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